危険な駆け引き
自分を殺す事はできないーー。
不敵に、自信満々にそう言い放った教授は薄ら笑いを浮かべている。まったくもって癇に障る奴だ。
だけど今更それがなんだ。俺の怒りはもう既に振り切るところまで振り切っている。
だからーー。
「あぁそうかよ。好きに言ってろイカれ女。やってみりゃすぐにわかる」
そう吐き捨てて、すっかり鱗に覆われたとても人のものとは思えない腕に力を込める。
一歩、また一歩、教授へと詰め寄る。
限界を超えた身体のそこかしこが、悲鳴をあげて血の涙を流す。
ここで血の匂いを漂わせる事の危険さも、今の俺の頭の中からはすっかり抜け落ちていた。
「そう言わずに聞きたまえよ。君は探究心が足りないな。人外の力を前にして、何故私が死を恐れないのか。それが気になりはしないのかね?」
「聞くまでもねぇよ。答えはお前がイカれてるからだ。もう沢山だ、さっさと死ね」
揶揄うように目を細める教授に即答し、俺は地を蹴った。
足の裏から伝わるグジュリと泥濘むような感触が心底不快だった。
一息に距離を詰め、腕を振り上げ振り下ろす。
ただそれだけだ。何も考える必要なんかない。
今の俺の化け物じみた腕なら、一瞬でケリはつく。
「やれやれ、しょうがない……。プリシラ、私を守れ」
「……はい、教授」
消え入りそうな小さな声。
でも、血の登った頭にもはっきりと届いたその声に、一瞬躊躇ってしまったのかもしれない。
教授を引き裂くはずだった俺の爪は、あらぬ方向に宙を切った。鱗がいくらか剥がれ落ちて血が飛び散る。
崩れた姿勢を堪えようと、足を踏ん張った。それからまた教授を睨みつけようとして、俺は見た。
「こうなると予想がつかなかった訳じゃあるまいに。よほど頭に血が上っているらしいね」
相変わらず無表情なまま、教授をかばうように立つプリシラを。
音が聞こえる程奥歯を噛みしめる。
「どうするね? 私を殺すために、その娘を壊すかね? それはあまりにも本末転倒じゃないかね?」
立ち塞がるプリシラの後ろで、教授は悠然とトランクケースの上に腰掛けた。
わかってたさ。こうなる事ぐらい。
けど、プリシラの防御を掻い潜って教授を殺すーー。それぐらい、今の俺になら出来る。
せいぜい勝ち誇ってろ、お前はそのまま死ぬんだ。
「プリシラの防御を掻い潜って私だけを殺せば済む。そう思っているんだろう? ふふふ、でも、それは試さないほうがいい」
本当にいちいち癇に触る奴だ。
なんでも見透かしたような態度、まったく気に入らない。
だけど、それももう終わりだ。
人形になったプリシラの速さは確かに凄い。けれど、一度見た動きだ。
いくらか動きやすい服装に変わったにしても、予想を超えるほどじゃない。
「まぁ聞けよテッド君。今の君なら私を殺すのは造作もないだろう。だったら、焦る事はない。少しばかり私の話を聞いた後でも構うまい?」
たずねてはいるが、返答を求めてなんかいない。こいつはずっとそうだった。
勝手に言ってろ。
一瞬の隙を突く。俺の頭の中にはそれしかない。
その瞬間を俺は狙い澄ます。
ただそれだけを考える。
「聞く耳持たず、という訳か。まぁ仕方あるまいね。君とプリシラがどんな関係だったのかは知らないが、それ程までに激昂するのだ。よほど大切な人だったのだろう。私は彼女の遺体を弄んだ、その事実はどう言い繕っても変わりはしないのだから」
組んだ足に頬杖をつき、教授は物憂げにため息をついてみせた。
今更懺悔でもしようってのか。
けど、そうじゃない事はすぐにわかった。
「だが、それでもだ、私の話に耳を傾けるべきだ。そうすれば少しは気も変わるだろう」
「馬鹿馬鹿しい。それで命乞いをしてるつもりか? 今更お前の話を真に受ける訳ないだろ」
「……私を殺せばそのプリシラも死ぬ。と、言ってもかね?」
頭が真っ白になる。
(プリシラが死ぬ……?)
教授の言葉が何度も頭の中でこだます。それなのに言葉の意味が全然頭に入ってこない。
「……どう言う事だよ」
奥歯が砕けそうなほど噛み締めた口から、何とか言葉を絞り出す。
「言葉通りの意味だ。私を殺せば、プリシラはただの人形に戻るんだ。残るのは人形素体と、彼女の遺体の一部だけ。君の望んでいるものが、そんなものだとは思えないが?」
「でまかせだ。お前の言うことなんか信じる訳ないだろ」
そうだ、でまかせだ。
こいつは命惜しさにでまかせを言っているに違いないんだ。
でも、もし本当だったら。
(またプリシラを殺すことになるのか?)
全身に震えがくる。あの時の光景がまた脳裏にチラつく。
ありがとう、と言い残して逝ったプリシラの顔が。
あの時は、これで全て終わるんだと思った。これでプリシラはやっと自由になるんだって。
だからこそ出来た事だ。
でも今は?
人形のような姿になって生き返ることをプリシラが望んだとは思えない。
でも、それでも。
もう一度殺す?
(そんな事っーー)
抜けかけた全身の力をまた込める。
頭がクラクラした。血を流しすぎたんだ。
立っている事も、顔を上げておくことも億劫だった。飼い主に叱られる飼い犬のように、力なく項垂れる。
「信じるか否かは君の自由だ。信じないと言うのであれば構わない、私を殺すと良い。私は信念を持って倫理を捨て、己の探求心を満たす道を選んだ。その信念に殉じる覚悟なら出来ている」
教授の声がやけに遠く響く。
どうしたら良い? わからない。
ひどく混乱してる。
だから気づかなかった。見た目通りの小さな歩幅で、彼女が俺の前に立ったことに。
「おぉ……これは!」
教授の発した驚いた声に俺は顔を上げた。




