第4話「謎のクレーム」
電話が鳴ったのは、開店して十分後のことだった。
「和み処 芳沢でございます、橘が承ります!」
ひなが受話器を取った。悠は施術室の準備をしている。
「……あの」
女性の声だった。静かで、少し遠慮がちな声。
「はい、どうぞ!」
「先日、そちらで施術していただいたんですが」
「ありがとうございます!その節はありがとうございました!何かお気づきの点などございましたか?」
少し間があった。
「……BGMなんですが」
ひなの背筋がすっと伸びた。クレームだ。
「はい、BGMについて何か——」
「三曲目と四曲目の間が、少し長い気がして」
ひなは止まった。
「……三曲目と四曲目の、間が」
「はい。あの、すみません、細かくて」
「い、いえ!貴重なご意見ありがとうございます!少々お待ちいただいてもよろしいですか」
受話器を手で押さえて、ひなは施術室のドアをノックした。
「先生、ちょっといいですか」
「うん、どうぞ」
「お客さんから電話が来てて、BGMの三曲目と四曲目の間が長いって」
悠がタオルを持ったまま振り返った。
「ん?」
「あ!」
「それ俺が設定したやつだ」
「え、わかるんですか?」
「わかるよ。あそこ、わざと三秒空けてるからね」
「え、わざと?!」
「二曲の雰囲気が違うからね、間を置いた方が馴染むんだよ」
ひなは受話器を見た。受話器を見て、悠を見た。
「……それ、今お客さんに説明した方がいいですか」
「聞いてみて」
ひなはそっと受話器を耳に戻した。
「お待たせしました!実はあの間、意図的に設けているものでして——施術者が、二曲の雰囲気が異なるため間を置いた方が空間に馴染むと判断したそうで——」
「あ、そうなんですね」
「はい、ご不快をおかけして——」
「いえ、そうじゃなくて」また少し間があった。「……なんか、その間が好きだったので、理由が気になって」
ひなは目をぱちぱちさせた。
「……好き、だったんですか」
「はい。なんか、息ができる感じがして」
「息が——!先生聞いてます?!」ひなが受話器を押さえて叫ぶ。「好きって言ってますよ!」
「うん、聞こえてるよ」悠はどこか納得した顔をしていた。「よかった」
「よかった、じゃなくて!クレームじゃなかったですよ!」
「最初からそんな気はしてたかな」
「言ってよ!!」
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受話器の向こうで、女性がくすっと笑うのが聞こえた。ひなは慌てて電話に戻った。
「す、すみません!お騒がせしました!他にも何かお気づきの点などあれば——」
「いえ、それだけです。ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました!またのご来店お待ちしております!」
電話が切れた。
ひなは受話器を置いて、大きく息を吐いた。
「先生」
「うん」
「びっくりしました」
「そうだね」
「クレームかと思ったら感想でした」
「そうだね」
「それだけですか!?もっと何かないんですか!?」
「……嬉しかったかな」悠がタオルを棚に戻しながら言った。「BGMって意外と気づかれないから」
「先生がこだわって設定してるの、わかってる人いるんですね」
「いてくれてよかったよ」
ひなはその横顔を少し見てから、カウンターに戻った。クレームじゃなかった。よかった。でもなんか——このサロンらしいな、とも思った。
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翌週の火曜日、また電話が鳴った。
「和み処 芳沢でございます!」
「……先週電話した者なんですが」
同じ声だった。静かで、少し遠慮がちな。ひなはすぐわかった。
「あ!先週の方ですね!ありがとうございます!」
「あの、また細かいことで申し訳ないんですが」
「いえいえ!どうぞ!」
「先週の施術のとき使っていたアロマの香りなんですが」
「はい!」
「……好きでした」
ひなは受話器を持ったまま、三秒止まった。
「……ありがとうございます」
「なんの香りだったか、教えていただけますか」
「はい!少々お待ちください!」
受話器を押さえてひなが振り返ると、悠がもうカウンターの横に来ていた。
「聞こえてたかな」
「また感想でした」
「うん。ラベンダーとゼラニウムを合わせたやつだよ」
「先生、もしかしてこのお客さんのことわかります?」
悠が少し黙った。
「……木村さんかな」
「木村さん?」
「常連だった方だよ。去年、転勤で道外に引っ越されてね」
ひなは受話器を見た。
「それで——電話してくるんですか?」
「そうかもしれないかな」
「……かわいいですね」
「うん」悠はどこか遠くを見るような顔をした。「そうだね」
ひなはそっと受話器を耳に戻した。
「お待たせしました!ラベンダーとゼラニウムを合わせたものだそうです!」
「そうなんですね。どこかで買えますか?」
「精油でしたら——少々お待ちください、先生に聞いてみます!」
また受話器を押さえる。
「先生、どこで買えますか?」
「ナチュラルハウスとかにあるかな。どこに住んでるか聞いてみて」
「あ、いい案!」
ひなが聞くと、木村さんは東京だと答えた。悠がメモ帳に店の名前を書いてひなに渡した。ひなが読み上げると、木村さんが「ありがとうございます」と言った。声が少し、やわらかくなっていた。
「また何かあれば、いつでもお電話ください!」
「……また、かけてもいいですか」
ひなは少し驚いた。でもすぐ笑顔になった。
「もちろんです!お待ちしてます!」
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電話が切れた。
ひなは受話器をゆっくり置いた。
「先生」
「うん」
「木村さん、また電話かけてもいいか聞いてきました」
「そう」
「いいって言っちゃいましたけど、よかったですか」
悠は少し間を置いて、「うん」と言った。
「次また電話きたら、少し話してあげて」
「え、私が?」
「俺より話しやすいだろうから」悠がカウンターに戻りながら言った。「施術の話とか、サロンの近況とか——そういうの、聞きたいんだと思うから」
ひなは受話器をもう一度見た。
東京から、サロンに電話をかけてくる人。BGMの間が好きで、アロマの香りが好きで——それをわざわざ伝えたくて。
「……先生のサロン、好きだったんですね。木村さん」
「そうみたいだね」
「先生は?」
「俺は?」
「木村さんのこと、覚えてましたよね、すぐ」
悠はしばらく黙った。
「……来てくれる人のことは、ちゃんと覚えてるよ」
ひなはその言葉を少し咀嚼した。来てくれる人のことは、ちゃんと覚えてる。
「……先生って、いい人ですよね」
「そうかな」
「いい人です。断言します」
「ありがとう」悠がお湯を沸かしながら言った。「今日、お茶飲む?」
「飲みます!今日は薄めにしてください!」
「……考えとくか」
「絶対薄めにしてください!」
ひなの声が、静かなサロンに響いた。外では雪がちらつき始めていた。十一月の終わり、雪がちらついていた。
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三週目の木曜日、また電話が鳴った。
今度はひなが取る前から、なんとなくわかっていた。
「お電話ありがとうございます。和み処 芳沢でございます!」
「……橘さん」
「木村さんですよね!お久しぶりです!」
「あ、わかりましたか」
「声で!」ひなは笑いながら言った。「お元気でしたか?東京、寒くないですか?」
「寒いですね、でもこの街よりはずっと暖かいです」
「そうですよね!こっちもう雪降ってますよ!今日もちらちらしてて!」
「そうですか」木村さんの声が少しやわらかくなった。「サロンは変わりないですか」
「変わりないです!先生、今日もプリン食べてました!」
「……プリン」
「甘いものが好きなんですよ、先生。知ってましたか?」
「知りませんでした」木村さんが笑った。ちゃんと笑った声がした。「意外ですね」
「でしょう!見た目はクールなのに!あと施術中にアニメのセリフ言ったりするんですよ!」
「……それも知りませんでした」
「ふふ、私だけが知ってるやつかもしれないです」
言ってから、ひなは少し照れた。でも木村さんは「いいですね」と言った。
「橘さんがいて、先生よかったですね」
「え——」
「なんか、楽しそうで」
ひなはカウンターの端を見た。悠が施術室から出てきて、こちらの様子を見ている。目が合うと、悠は少し首をかしげた。大丈夫?という顔だ。
ひなは親指を立てた。大丈夫です、という意味で。
悠がかすかに口の端を動かして、また施術室に戻っていった。
「……ありがとうございます」とひなは言った。「私も楽しいです、ここ」
「また電話してもいいですか」
「もちろんです!いつでも!先生も喜びます!」
「先生に、よろしくお伝えください」
「伝えます!お体に気をつけて!また話しましょう!」
電話が切れた。
ひなはしばらく受話器を持ったままでいた。
楽しそうで、よかった。
木村さんの言葉が、じんわりと胸に残った。
「どうだった?」
悠が施術室から出てきた。
「木村さん、先生によろしくって」
「そうか」
「東京、寒いけどこの街よりは暖かいって言ってました。あと、先生がプリン好きなの知らなかったって」
「……そこまで話したの?」
「話しました!木村さん、笑ってくれましたよ!ちゃんと!」
悠は少し黙った。窓の外の雪をちらりと見てから、「ありがとう」と言った。
「私は別に何も——」
「ひなちゃんが話してくれてよかったよ」
ひなは少し驚いた。悠がそういう言い方をするのは珍しかった。
「……どういたしまして」
「お茶、薄めにするね」
「え、覚えてたんですか!」
「覚えてるよ」
ひなはつい笑ってしまった。悠もかすかに笑っていた。
窓の外では、雪がまだゆっくりと降り続けていた。
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