第2話「個室の向こう」
その日の朝、ひなはいつものように予約表を確認していた。
午前中は二件。午後が三件。ひなは指でなぞりながら名前を読んでいった。伊藤さん、佐々木さん、田中さん——
「あ」
午後の一番目に、見慣れない名前があった。
瀬川 麻衣様。オイルマッサージ、九十分。
「先生、この瀬川さんって初めての方ですか?」
カウンター奥でコーヒーを淹れていた悠が振り返った。
「ううん、常連さんだよ。月一か、二ヶ月に一回くらい来るかな」
「オイルマッサージって、個室ですよね」
「そうだよ。アロマオイル使うからね、施術室じゃなくて奥の部屋でやるかな」
「へえ!個室って特別感ありますね。どんな方ですか?」
「感じのいい人だよ。静かで、話しやすい人かな」
「ふうん」ひなは予約表をもう一度見た。瀬川 麻衣。女性の名前だ。「お仕事は何されてる方ですか」
「ネイリストだよ」
「え、おしゃれ!ネイリストさんか……」
悠がコーヒーカップを持ってカウンターに戻ってきた。ひなは何食わぬ顔で予約表をしまった。別に気にしてない。ただ聞いただけだ。
「何か気になることあった?」
「いえ、全然ないです!普通に気になっただけです!」
「……それは気になってるんじゃないかな」
「職業的な興味です」
悠はそれ以上追いかけなかった。ひなもタオルを折り始めた。折り目をそろえながら、なんとなく奥の個室の方向を一度だけ見た。
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瀬川麻衣が来たのは、午後一時を少し回ったころだった。
ドアが開いた瞬間、ひなは思った。
——きれいな人だ。
二十代後半くらいだろうか。落ち着いたベージュのコートに、短く整えたネイルが映えている。派手さはないのに、何か目を引く佇まいがある。
「いらっしゃいませ!瀬川さんですよね、お待ちしてました!橘ひなといいます!」
「あら、新しい子だね」麻衣が柔らかく微笑んだ。「かわいい。私、瀬川麻衣です。よろしく」
「よろしくお願いします!ネイリストさんなんですよね?私、ネイル好きで!瀬川さんのネイルもすごくきれいですね、そのグレー」
「ありがとう、よく見てるね」
「気になっちゃって!どこのサロンですか?あ、すみません、自分がサロンのスタッフなのに他のサロン聞くのおかしいですよね」
麻衣がくすっと笑った。「いいよ、気にしないで」
「橘さん」悠が施術室から出てきた。「瀬川さん、お待たせしました。どうぞ」
「先生、今日もよろしくお願いします」
「こちらこそ。橘さんには今日は受付をお願いしています」
声のトーンが変わっている。ひなはそれに気づいて、少しだけ背筋を伸ばした。客がいるときの先生だ。さっきまでと同じ人間とは思えない。
麻衣が悠の案内で奥へと歩いていく。二人が廊下を歩く様子を、ひなは笑顔のまま見送った。
個室のドアが、静かに閉まった。
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一人になった。
ひなはカウンターに座って、受付用のタブレットを開いた。次の予約の確認。会計の準備。特にやることはない。BGMが低く流れている。
……静かだ。
個室は廊下の奥にある。ここからは何も聞こえない。当たり前だ。防音になっているし、オイルマッサージ中は基本的に会話も少ない。
ひなはタブレットから目を上げて、廊下の奥を見た。
時計を見た。一時十五分。
タブレットに戻った。
……瀬川さんって、悠とどんな話をするんだろう。「話しやすい人」って言ってたけど、どういうふうに話しやすいんだろう。さっきの廊下の歩き方とか、距離感とか——
そのとき、カウンターの端に置いていたスマホが振動した。
通知だった。専門学校の友人からのLINE。「明日の実技、何時集合だっけ」
ひなはぼんやりと画面を見てから、返信した。「十時だよ」
送信ボタンを押してから気づいた。自分が何を考えていたのか、すっかり忘れていた。
時計を見た。一時二十二分。
まだ七分しか経っていない。
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九十分が終わったのは、体感では五時間後くらいだった。
廊下の奥のドアが開いて、二人が出てきた。麻衣はゆったりとした足取りで、顔がほんの少しやわらいでいる。施術後の人の顔だ、とひなは思った。
「ありがとうございました。すごくよかった」
「お疲れのところ来ていただいてありがとうございました」
悠がそう言って、微笑んだ。
ひなは一瞬固まった。
——今、笑った。
悠が笑うのは珍しくない。ひなの前では割と笑う。でも今のは少し違う気がした。いつもの口の端がちょっと動く感じじゃなくて、ちゃんと——笑っていた。
「次もよろしくお願いします」
「はい、またいつでもどうぞ」
麻衣がコートを羽織りながら受付に向かってきた。ひなはすっと笑顔に戻って会計の準備をした。
「橘さん、さっきネイル好きって言ってたわよね」
「はい!」
「今度自分でやるコツ教えてあげるよ。センスあると思う」
「ほんとですか!めちゃくちゃ嬉しいです!連絡先交換してもいいですか?」
麻衣がふふと笑った。「いいよ」
「やった!」ひなはスマホを取り出しながら、さらっと聞いた。「瀬川さん、先生とはいつからの知り合いなんですか?」
麻衣がひなを見た。悠も少し間を置いた。
「もう何年になるかな」麻衣は穏やかに答えた。「ずっとお世話になってるよ」
「そうなんですね!」
それ以上は聞かなかった。でも、麻衣の答え方が少しだけ丸かった気がした。
「またね、橘さん」麻衣がドアを開けた。「先生も、ありがとう」
「お気をつけて」
ドアが閉まった。
「先生!」
「うん」
「瀬川さんってずっとお世話になってるって言ってましたけど、どのくらいですか?」
「五年くらいだよ」
「五年!それって、先生がサロン開いてすぐくらいからですよね」
「そうだよ」
「なんで来るようになったんですか」
「お客さんに理由聞くのは野暮だよ」
「そっか、そうですね」ひなは素直に引いた。「でも仲よさそうでしたよ」
「そう?」
「うん。先生が笑ってたし」
悠は何も言わなかった。
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二人でカウンターに並んでお茶を飲んだ。
「先生って、瀬川さんのことどう思ってるんですか」
「いいお客さんだよ」
「それ高橋さんのときも言ってましたよね」
「いいお客さんが多いからね」
「もっと具体的に!」
悠はしばらく黙った。お湯が沸く音がする。
「穏やかな人だよ。猫を二匹飼ってて、その話をするときだけちょっと表情が変わるかな」
「猫の話」
「うん。黒いのと白いのがいるって。しょっちゅうネイルの道具を倒すって言ってたかな」
「……先生、意外と知ってますね」
「施術中は話すからね。それだけだよ」
それだけ、という言い方が少し丁寧すぎる気がした。ひなは口を開いた。
「先生、さっき笑ってましたよね。瀬川さんに」
悠がひなを見た。
「笑ってたかな」
「笑ってました。私には向けたことない感じの笑い方で」
悠は少し間を置いた。
「ひなちゃんにはもっと笑ってると思うけどね」
「え、そうですか?」
「バターサンドの件とか」
「あ……それは確かに」ひなは少し考えた。「でもなんか、ちょっと違う気がするんですよね。雰囲気が」
「どう違うの」
「うーん……」ひなは首をかしげた。「わからないですけど、なんか気になって」
「気にしなくていいことだよ」
「え?」
「なんでもない」
ひなは悠の横顔をじっと見た。いつもと変わらない、静かな顔だ。
気にしなくていいこと。
「それってどういう意味ですか?気になるから教えてください」
「今は教えなくていいことだよ」
「今は、ってことはいつか教えてくれるんですか」
「どうだろうね」
「はぐらかしてる!」
「そうかな」
「絶対そうです。先生ってそういうとき絶対顔が変わらないから余計気になるんですよ!」
悠は答えなかった。カップを両手で持って、静かにお茶を飲んでいる。
ひなは「もう」と言いながら、お茶を一口飲んだ。
「……先生、今日のお茶、いつもより濃くないですか」
「そうかな」
「苦いです」
「それくらいがおいしいからね」
「先生の好みを押しつけないでください」
悠がふっと笑った。今度はひなも見ていた。口の端が動く、いつもの笑い方だ。
なんだ、と思った。
これはいつもの先生だ。
ひなはお茶をもう一口飲んだ。確かに苦かったが、悪くなかった。
何か、ある。
その確信だけが、ひなの中でじんわりと残った。
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翌日、ひなは専門学校の授業中もなんとなくぼんやりしていた。
となりの席の友人、結衣に「どうしたの」と言われた。
「ねえ結衣、なんか気になる人がいるとして」
「え、急に。誰?」
「人じゃなくて、状況?先生——バイト先のオーナーさんね——と常連のお客さんが仲よさそうで、なんか気になって」
「それって嫉妬じゃん」
「ちがう!」
「早!」結衣がにやにやした。「否定が早すぎる」
「だって本当に違うし!ただ気になるだけで」
「気になるのが嫉妬じゃん」
「うるさいな!」
ひなは教科書を開いた。結衣がまだにやにやしているのが視界の端に見える。
気になるとかじゃない。ただ、なんか——よくわからないだけだ。
自分でもよくわからなかった。
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