第1話「一時間と二時間では違うらしい」
ひながサロンに来て、二週間が経った。
最初の数日はさすがにおとなしかったが、それも長くは続かなかった。今では開店前の準備中から全開で喋っている。悠はそれを特に止めようとは思っていない。静かすぎるよりはいい、とどこかで思っているが、それを口に出したことはなかった。
「先生、これって毎回折り目そろえるんですか?」
ひなが棚のタオルを手に持ちながら聞いてくる。
「そうだね。気になるからね」
「几帳面ですね。好きです、そういうの」
「仕事だからね」
「プライベートでもそうなんですか?引き出しとかきっちり整理してそう」
「……タオルを家で折ることはないかな」
「あ、意外」ひなはぱちぱちと瞬いた。「じゃあ家では全然違うんですか?気になる」
「仕事の準備してね」
「してますしてます」
ひなはさっさとタオルを折り始めた。覚えが早い。最初の頃は折り目が微妙にズレていたが、今はほぼ合っている。言われたことを素直に吸収するのは、この子のいいところだと悠は思っていた。
「今日って予約何件ですか」
「午前二件、午後三件。最初は高橋さんだよ」
「高橋さん!」ひなの顔がぱっと明るくなる。「毎回お菓子持ってきてくれる人ですよね。この前のチョコ、めちゃくちゃおいしかったです」
「そう。あと毎回俺のこと心配してくれる人でもあるからね」
「かわいいですよね、先生のこと。私も心配してますけど」
「……かわいいは余計だね」
「両方に言ったんですけど」
悠は少し止まった。ひなはけろっとしてタオルを棚に戻している。悠は口の端が動くのを自覚した。こういうことが、最近増えている。
「でも先生って、二人でいるときとお客さんがいるときで喋り方違いますよね」
「そうかな」
「全然違います。二人のときはちょっとゆるい感じで、お客さんいるとなんか急にスイッチ入る。かっこいいですよ、ちゃんと」
「仕事だからね」
「さっきも同じこと言いましたよね」
「同じことだからね」
ひなはくすくす笑いながらディフューザーのオイルを足した。悠はBGMの音量を確認しながら、その背中をなんとなく目で追った。追っていることに気づいて、予約表に視線を戻した。
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高橋幸子が来たのは、午前十時ちょうどだった。
「おはようございます!高橋さん、お待ちしてました!」
ひなが満面の笑みで出迎える。
「おはよう。元気ねえ」高橋さんが笑いながら紙袋を差し出した。「はい、これ。六花亭のマルセイバターサンド。先生に食べさせてあげて」
「わあ、六花亭!ありがとうございます!先生喜びます、絶対」
「そう?あの人、甘いもの好きなのに素直に喜ばないのよね」
「わかります!なんか照れてる感じで。でも絶対うれしいはずです、私見てたので」
高橋さんがふきだした。「先生のことよく見てるのね」
「いや、なんか気になっちゃって!」
二人が笑い合っているところへ、悠が施術室から出てきた。
「高橋さん、お待たせしました。どうぞ」
「先生、今日はひなちゃんもいるの?」
「橘さんには補助に入っていただく予定です」
声のトーンが変わっている。ひなはそれに気づいて、少しだけ背筋を伸ばした。客がいるときの先生だ。さっきまでと同じ人間とは思えない。
施術室に三人が入ると、高橋さんはベッドに横になりながらさっそく喋り始めた。
「ひなちゃん、最近どう?サロンには慣れた?」
「はい、めちゃくちゃ楽しいです!お客さんもみんないい方ばかりで」
「先生、厳しくない?」
「橘さんには丁寧に指導しています」
「先生がそう言うのは先生の言い分で、ひなちゃんはどうなの?」
ひなは悠をちらりと見た。悠は表情を変えずにストレッチを始めている。
「優しいですよ、ちゃんと。口数少ないけど、教え方がわかりやすいんです。あと施術見てると本当にすごくて、毎回感動してます」
「あら、そう」高橋さんは少し意外そうな顔をした。「先生が優しいって、珍しいこと言う子ね」
「高橋さん」悠が静かに言った。「肩、力抜いてください」
「はいはい」
しばらく施術が続いた。ひなは悠の手元を見ながら補助タオルを渡したり、姿勢を確認したりする。こういう時間は好きだった。先生の仕事をそばで見ていられる。丁寧で、無駄がなくて、でも機械的じゃない。お客さんの体の声を聞くみたいに、手が動いている。
中学生のとき、あの手に施術してもらった。それを思い出すと、今でも不思議な気持ちになる。
「先生、最近ちゃんと食べてる?顔色悪いわよ」
「食べています」
「何食べたの、昨日」
一瞬の沈黙。
「……バターサンドと缶コーヒー」
「昨日のぶんじゃない、それ今日いただいたやつ」
「高橋さん、先生ね、昨日もお昼にコンビニのプリンしか食べてなかったんですよ」ひなが追い打ちをかけた。「私が見てたんで確かです」
「橘さん」
「はい」
「余計なことは言わなくていいです」
「事実を申し上げただけです」
高橋さんが声を上げて笑った。「いいコンビね」
悠は何も言わなかった。ひなは「ふふ」と笑いをこらえながら、タオルを折り直した。
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施術も後半に入ったところで、高橋さんがおもむろに言った。
「ねえ先生」
「はい」
「ひなちゃんのこと、どう思ってる?」
ひなの手が、一瞬止まった。でも表情は変えなかった。
「優秀なスタッフです」悠は間を置かず答えた。「飲み込みが早いですし、お客さんへの対応も丁寧です」
「そういうことじゃなくてね」
「……それ以外に何かありますか」
「あるでしょう、先生」
高橋さんの声は穏やかだが、どこか確信を持っている。ひなは内心どきっとしたが、顔には出さず補助タオルを整える手を続けた。気にしてない。全然気にしてない。というか、どういう意味だろう。
「高橋さん、肩甲骨の内側、かなり張ってますね。職業柄ですかね」
話題を変えた。高橋さんは「あらそう、板書が多いからかしら」と言って、それ以上追いかけなかった。ただ、口元が笑っているのはひなからも見えていた。
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帰り際、高橋さんは受付でコートを羽織りながらひなに言った。
「ひなちゃん、先生のこと頼んだわよ」
「もちろんです!ご飯もちゃんと食べさせます!」
「そう、頼もしい」高橋さんが少し声を低くした。「先生ね、無口だけど、ちゃんと見てるから。あなたのことも」
「え、どういう意味ですか?」ひなが身を乗り出した。「もっと詳しく教えてください」
高橋さんはにっこり笑って「またね」と言い、ドアを開けた。「先生も、ありがとう」
「お気をつけて」
ドアが閉まった。
「先生!今のどういう意味でした?」
「何が?」
「高橋さんの、先生がちゃんと見てるって」
「施術室は壁があるからね」
「聞こえてたじゃないですか!答えてください!」
悠は答えず、カウンターに置かれた六花亭の紙袋を持ち上げた。
「お茶、飲む?」
「飲みます。でも答えてください」
「お湯沸かすね」
「はぐらかしてる!」
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二人でカウンターに並んで座った。ひなはバターサンドの袋を開けながら、高橋さんの言葉をまだ頭の中で転がしていた。でも口は止まらない。
「先生って、高橋さんのことどう思ってるんですか」
「いいお客さんだよ」
「怖くないですか、ずばずば言うから」
「慣れたかな」悠はお湯を注ぎながら言った。「最初の頃はちょっと面食らったけどね。でもああいう人って悪意がないからね、むしろ楽だよ」
「わかります!私も最初びっくりしたけど、なんか全部受け止めてもらえる感じで、気がついたらめちゃくちゃ喋ってました」ひなはバターサンドをひとかじりした。「おいしい」
「でしょ」
「先生も食べてください、ちゃんと」
「食べるよ」
「今すぐ」
「……せっかちだね」
悠がため息をついてバターサンドを手に取った。ひなはそれを見てにこにこしている。
が。
悠はバターサンドをかじる寸前で止まった。
「……待って」
「え?」
悠はバターサンドをそっとカウンターに置いた。何かを思いついたときの顔だ。
「冷凍した?」
「してないですけど」
悠が静かに目を閉じた。一秒。二秒。
「もったいないことしたね」
「え、なんで?」
「マルセイバターサンドはね、冷凍して食べるのが正解なんだよ」
「……そうなんですか」
「そうだよ」悠はお茶を一口飲んでから、真剣な顔で続けた。「常温だとバターがやわらかいだろ?でも冷凍するとバタークリームがきゅっと締まって、レーズンも固くなって、あのビスケットとの一体感が全然違うからね」
「は、はあ」
「食感がまるで別物だからね。常温で食べるのと冷凍で食べるのは、もはや別のお菓子といっていいかな」
「……先生」
「うん」
「めちゃくちゃ詳しいですね」
「好きだからね」
ひなは今食べかけのバターサンドを見た。半分くらい食べてしまっている。
「……これ、もう常温で食べちゃいました」
「うん、見てた」
「なんで止めてくれなかったんですか!」
「気づくのが遅かったからね」
「先生のせいじゃないですか!さっさと言ってください!」
「言う機会がなかったかな」
「あったでしょ絶対!」
悠は涼しい顔でバターサンドを一口かじった。ひなは「もう!」と言いながら残りを口に入れた。おいしい。おいしいけど。
「次回は絶対冷凍します」
「それがいいよ。一時間くらいでいいからね」
「細かい」
「一時間と二時間では食感が違うからね」
「どんだけ研究したんですか!」
「好きだからね」
二回目の「好きだからね」は、さっきより少し軽かった。ひなはなんとなくおかしくなって、笑い出した。
「先生って、アニメと甘いもののことだけめちゃくちゃ詳しいですよね」
「他のことも知ってるよ」
「施術のこと以外で」
悠は少し黙った。
「……だいたいそのへんかな」
「正直!」
ひなはまだ笑っている。悠はお茶を飲みながら、口の端が動くのを今日何度目かで自覚した。
「おかわりは一個までにしといてね」
「え、なんで知ってたんですか」
「顔に出てるからね」
ひなは「むー」と言って、でも笑った。悠も笑った。静かに、少しだけ。
窓の外、十一月の午前の光が、静かにサロンに差し込んでいた。
お読みいただきありがとうございました!
次回は21時ころ更新予定です。
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