第11話「チョコレートの話」
二月に入ってから、街がいっきに変わった。
コンビニもスーパーも、入口からチョコレートだらけだ。ハート型の箱、金色のリボン、「本命に」「義理でも絶対喜ばれる」という帯。サロンの近くの雑貨屋も、ショーウィンドウをピンクと赤で染めている。バレンタインまであと二週間。街全体が、何かを急き立てるような顔をしていた。
橘ひなはその前を通り過ぎながら、ちらりと横目で見た。
(…………あー)
何か、胸のあたりがもやもやする。
きっかけは三日前のことだった。
常連のお客さんが手土産にチョコレートの詰め合わせを持ってきた。「バレンタインのついでに持ってきちゃった」と笑いながら渡すその人の顔が、なんかわかる、という感じで、ひなはカウンターでこっそり微笑んでいた。悠が「甘いものはありがたいよ」と静かに受け取って、施術が終わったあとに「一個食べる?」とひなに差し出してきた。
ひなが「いいんですか!」と摘まんだら、悠も同じものをひとつ口に入れて、「うん、おいしいな」とだけ言った。
それだけのことだった。
それだけのことなのに、なんか、ずっと頭の隅に引っかかっている。先生、甘いもの好きなんだよな。コンビニのプリンを差し入れたときも嬉しそうだったし、ほかほかのあんまんをこそっと食べているのも見たことがある。先生が好きなものを自分が知っていて、それを思うたびになんか嬉しくて、なんで嬉しいんだろうと思ったらまたもやもやした。
ひなは路地を曲がり、いつものバス停へ向かった。吐く息が白い。
(……何、私)
わからない。全然わからないけど、わかる気もする。でも、わかりたくない気もする。
そういうことを考えながらバスに乗って、気づいたら乗り過ごしていた。
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次の日のサロンで、悠はいつも通りだった。
開店前の準備をして、お客さんを迎えて、施術して、片付けて。いつも通り静かで、いつも通り丁寧で、たまにこちらに向かって「橘さん、次の方の準備してもらえる?」と言うだけだ。
二人きりになると少しだけ表情がゆるんで、「今日寒いね」とか「あ、コーヒー入れるけど飲む?」とか、他愛のない話をする。それがひなは好きだった。ふだんのクールな先生とは少しだけ違う顔で、その違いがひなだけに向いているような気がして、それが嬉しい。
(そういうのに気づいてる自分、何なんだろう)
閉店後、鍵を閉めながら悠が「明日もよろしく」と言った。それだけだ。
ひなは「はい!」と返事をして、サロンを出た。路地に出た瞬間、なぜか急に、チョコを作りたいと思った。
(手作り、してみようかな)
思ってから、思った自分にちょっと驚いた。
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その夜、ひなは結衣に電話をかけた。
少しの間があって、結衣の声が返ってくる。
「どした」
「……ねえ、チョコ、手作りしようと思うんだけど」
「あー」
「何その反応」
「いや、誰に?って聞こうとしたけど、答えわかってるから省略した」
ひなは少し黙った。
「……先生に」
「義理?」
「……義理じゃない」
言ってから、じわっと顔が熱くなった。電話越しだからバレないとわかっていても、思わず口元を手で押さえてしまう。
口に出したのは初めてだった。結衣に言ったのも、自分にはっきり認めたのも、たぶん今が初めてだ。
結衣は何も言わなかった。三秒くらい、静かだった。
「うちに来な」
「え」
「一緒に作る。あんたひとりに任せたら何するかわかんないし」
「失礼だなあ!」
「失礼じゃないでしょ、現実的な判断でしょ」
どこか嬉しそうな声だった。ひなも、それを聞いて少し緩んだ。
「……ありがとう、結衣」
「感謝は先生に渡してから言って」
「もう!!」
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二日後の夕方、ひなは結衣のアパートにいた。
キッチンのテーブルには、板チョコと生クリームとシリコン型が並んでいる。湯煎用のボウルも出してある。二人でスマホに「バレンタイン 手作りチョコ 初心者」の動画を引っ張り出して、向かい合って立った。
「じゃあまず湯煎から——」
「ちょっと待って」
ひなが急に言った。
「なに」
「あのさ、これ見て」
ひなが自分のスマホを差し出した。結衣が画面を覗き込む。
――「チョコに自分の血を一滴混ぜると、相手に本当の気持ちが伝わるおまじない」――
「……」
結衣がスマホから目を上げた。ひなの顔を見る。
真剣な目をしている。
「ひな」
「うん」
「まさかとは思うんだけど」
「ちょっとだけなら」
「やめろ」
「でも気持ちが」
「やめろって言ってんの!!」
結衣が立ち上がった。「あんた先生に何食べさせようとしてんの!?」
「気持ちを!」
「バイキンを送ろうとするな!!」
「でもネットに書いてあったから——」
「全部本当に思うな!!」
結衣がひなの手からスマホをひったくり、問題のページを閉じた。「絶対やらないでよ。ほんとに。先生が食中毒になったらどうするの」
「……そこまで考えてなかった」
「考えて!!そういうことは全部考えて!!」
「わかった、わかった!」
「ほんとにわかってる?」
「わかってるよ!!」
「チョコに血を混ぜても伝わるのは雑菌だけだから。気持ちは普通のチョコに入れて」
「わかってる!!もう言わないで!!」
結衣は一度深呼吸して、「よし」と言った。「普通に作ろう。材料は十分あるから。気持ちがちゃんと入ってれば絶対伝わるから、大丈夫」
「……うん」
「板チョコ割って」
「わかった」
ひなはちょっとだけ恥ずかしくなりながら、板チョコに手をかけた。
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チョコを刻んで湯煎にかけた。
最初のうちは順調だった。チョコが溶けていく様子を見てひなが「きれいー」とつぶやき、結衣が「ちゃんと混ぜながら見て」と声をかけた。温度計で確認して、ゆっくりかき混ぜる。ひなは慎重に、慎重にやっていた。木べらを使って丁寧に底からすくうように混ぜると、だんだんつやが出てきた。
「……いい感じじゃない?」
「うん、悪くない。このまま型に——」
「あ」
「あ?」
ボウルを傾けた瞬間、中のチョコが型の外にどろりと流れ落ちた。
「あーーーーっ!!」
「だから言ったじゃん流し込むの早い!!」
「引っかかったの!!」
テーブルにチョコが広がった。結衣がキッチンペーパーで押さえながら「落ち着いて落ち着いて」と言い続けた。型に入ったぶんは形が崩れていて、断面がでこぼこしている。冷蔵庫で固めたら一応取り出せたが、表面がまだら模様になった。
結衣がそれを皿に出して無言でしばらく眺めた。
「……これは何」
「チョコ……」
「そうだね、チョコだね」
「気持ちだから」
「うん」
「気持ちが入ってるから多少形が崩れても」
「まあ」
「もう一回やる」
「えっ」
「気持ちだから!!」
ひなが立ち上がり、冷蔵庫から残りの板チョコを取り出した。
結衣はしばらくひなの顔を見ていた。それから、「わかった」と言って袖をまくった。「今度は私が仕切る。チョコを型に流すのは私がやる」
「任せた」
「ひなはチョコ刻む担当と生クリーム計量担当」
「わかった!!」
「計量、間違えないで」
「わかった。えーと、生クリームって何ポンド入れればいい?」
結衣が固まった。
「……何ポンド?」
「うん、何ポンド?」
「グラムで聞いて」
「グラムって何」
「……何ポンドって何」
「重さの単位。1ポンドが約453グラムで——」
「なんで海外基準なの!?」
「え、普通じゃない?」
「普通じゃない!!日本にいるんだよ!?グラムで覚えて!!」
「グラムむずかしくない?ポンドの方がわかりやすくない?」
「わかりやすくない!!どこでそれ覚えたの!?」
「なんか小さいころから家でそうだったんだよね」
「お母さんに聞いてほしいわそれ、本当に」
結衣が頭を押さえながら「生クリームは100グラム」と言った。
「100グラムって何ポンド?」
「調べて!!」
「わかった!!」
「あと板チョコは細かく刻んで。さっきより細かく」
「わかった!!」
---
二回目は丁寧にやった。
ひなはスマホで「100グラム ポンド」と検索しながらチョコを細かく刻んで、生クリームを計量して、湯煎の温度をこまめに確認した。結衣が指示を出して、型に流し込むのは結衣がやった。今度はこぼれなかった。
冷蔵庫に入れて、三十分待った。
「……出していい?」
「あと五分」
「結衣ー」
「あと五分」
「五分ってめちゃくちゃ長い」
「長くない、待ちな。固まりきってないのを無理やり出したらまたぐちゃぐちゃになるから」
「……わかった」
五分後、型から外したチョコは、小さくて、少し不格好で、表面に気泡の跡がぽつぽつ残っていた。それでも一応、きちんとチョコの形をしていた。
「……できた」
「悪くないじゃん」
「ほんとに?」
「ほんとに。まあかわいいよ、これ。一個食べてみな」
ひなが一口かじった。甘い。ちょっとビターで、後味に生クリームの感じがある。
「……おいしい」
「そりゃそうだよ、ちゃんと作ったんだから」
ひなが皿に並べたものをじっと見つめた。先生が食べるのか、これを、と思ったら急に手が震えそうになった。渡す場面を想像しようとしたら、なんか、うまく想像できなかった。先生の顔を思い浮かべると、それだけで心臓がうるさくなる。
「……渡せるかな」
「渡さなかったら一生後悔するよ」
「でも」
「でも、じゃない」
結衣がひなの横に立って、「応援してる」と言った。
間を置いてから、「あと病院行きにならないチョコができてよかったね」と付け足した。
「もう!!」
「だって心配したじゃん、本気で」
「忘れてよそれは!!」
結衣が声を立てて笑った。ひなも笑った。笑いながら、ちょっと、泣きそうになった。
(なんで泣きそうになってんの、私)
自分でも、よくわからなかった。怖いのか、嬉しいのか、どっちなのか。たぶん、両方なんだと思う。ずっとわからないふりをしていたものが、今日初めてはっきりした気がして、それが、思ったより、ずっと大きかった。
小さなチョコが、皿の上に並んでいる。
不格好で、気泡があって、二度やり直して作ったものだ。
渡せるかどうか、まだわからない。
でも、作った。
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翌朝、サロンへ向かう途中、ひなは鞄の中をもう一度確認した。小さい箱に入れた。リボンをかけた。ちゃんと入っている。
でも今日ではない。今日はまだ渡さない。バレンタインまであと少しある。準備する時間は、ある。
渡す勇気を作る時間も、たぶん、ある。
二月の空気は冷たくて、吐く息が白い。
(先生、今日もいつも通りだろうな)
いつも通りの先生に、いつも通りじゃないことをしようとしている。
それだけのことが、どうしてこんなに遠く感じるんだろう。
ひなは足を止めた。
雑貨屋のショーウィンドウの前だった。ピンクと赤のデコレーション。「大切な人に」というポップ。
大切な人、か。
(先生のこと、大切だよなあ)
そういうことか、と思った。
今さらな気がして、でも今さらじゃない気もして、ひなは深呼吸してまた歩き出した。
ひなは白い息を吐いて、サロンへの路地を曲がった。
今日もお読みいただきありがとうございました!
次回でシーズン1の完結、明日(14日)の12時頃に更新予定です。
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