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第10話「しらたき、来店」


閉店十五分前のことだった。


最後のお客さんを見送って、ひなが受付の片付けをしていた。悠は施術室のタオルを回収している。今日も忙しかった。年始の繁忙期はまだ続いている。


「今日もお疲れ様でした!先生、ちゃんと休憩しましたか?」


「一回したよ」


「一回!?もっとしてください!」


「ひなちゃんは何回した?」


「……一回」


「じゃあ一緒だね」


「それは——」


そのとき、ドアが開いた。


「やっほー!!」


ひなが振り返った。


結衣だった。


しかも何かを抱えている。白くてふわふわした、小さな何かを。


「結衣!?なんで!?」


「近く通ったから!」


「近く通ったから来る!?」


「あと、しらたきの散歩コースがここら辺だから」


「しらたき!?」結衣が抱えているものをひながよく見た。「犬!?犬連れてくるの!?サロンに!?」


「いいじゃん、かわいいから」


「よくないよ!!」


悠が施術室から出てきた。結衣と目が合った。


「……あ、カフェの」


「あ、先生だ」結衣がにっこりした。「お久しぶりです。突然すみません」


「いや、どうぞ」


「先生!どうぞじゃないですよ!!」ひなが叫んだ。「犬ですよ!犬!サロンに犬連れてきてるんですよ!」


「かわいいね」悠がしらたきを見てぼそっと言った。


「先生まで!!」


しらたきがひなを見た。ひなを見て、それから悠を見た。くりくりした目をしている。白いトイプードルで、体が小さい。首輪に「しらたき」と書いてある。


「しらたきっていう名前なんですよ」と結衣が言った。


「しらたき」と悠が繰り返した。「……いい名前だね」


「でしょ!」


「先生!褒めないでください!!」


---


「ちょっとだけ、顔見せたかっただけだから」と結衣が言った。「すぐ帰るよ」


「本当に?」


「本当に。ね、しらたき」


結衣がしらたきを床に下ろした。リードを持って、ひなに「ほら、かわいいでしょ」と言いながら——


その瞬間、しらたきがリードを強く引っ張った。


「あ」


リードが結衣の手から離れた。


しらたきが走った。


「しらたき!!」


「わあ!!!」


サロンの中を、しらたきが自由に走り回り始めた。待合スペースのベンチの下をくぐり、観葉植物のポトスに突進し、カウンターの周りをぐるぐる回る。


「捕まえて!!」


「わかってる!!」


ひなが追いかけた。結衣も追いかけた。しらたきは楽しそうだった。


「こっちこっち!」


「逃げた!!」


「ひな、そっちから!」


「わかった!!」


ひなとしらたきが向かい合った。しらたきがひなを見た。ひながしゃがんで「おいで!」と言った。


しらたきがひなの横をすり抜けて施術室に突進した。


「施術室!!ダメ!!」


ひなが飛びついたが間に合わなかった。施術室のドアが半開きになっている。中からしらたきの爪の音がする。


「先生!しらたきが施術室に!」


「わかったよ」


悠が施術室に入った。


---


しばらく静かになった。


ひなと結衣が施術室の前で顔を見合わせた。


「……静かですね」


「うん」


「大丈夫かな」


「先生なら大丈夫じゃない?」


ひながそっとドアを開けた。


悠がベッドの前にしゃがんでいた。しらたきが悠の前に座って、しっぽを振っている。悠が手を差し出すと、しらたきがその手を舐めた。


「……先生」


「ん」


「なんで懐いてるんですか」


「なんでかな」悠がしらたきの頭をそっと撫でた。「おとなしい子だね」


「私には全然おとなしくなかったんですけど」


「ひなちゃんが追いかけるから逃げたんじゃないかな」


「それは——そうかもしれないですけど!!」


結衣が後ろで「ふっ」と笑った。


---


しらたきを抱え直して、結衣がひなの横に来た。悠はカウンターに戻ってお茶を淹れている。


「ねえひな」と結衣がそっと言った。


「なに」


「あの人、ひなのこと好きじゃん」


ひなが固まった。


「……なんでそう思うの!?」


「動物って正直だから。ひなを追いかけてたしらたきが、先生の前だけおとなしくなったでしょ」


「それはしらたきの話でしょ!」


「しらたきが懐く人って、穏やかで安心できる人なの。で、そういう人ってだいたい好きな人の前でも同じオーラが出るんだよ」


「……こじつけじゃないですか」


「あと」と結衣が続けた。「さっきから先生、ひなのこと三回見てるよ」


ひなは思わず悠の方を見た。悠はお茶を淹れながらこちらを見ていた。目が合った。悠がすっと視線を戻した。


「……あれは」


「ね」


「……うるさい!!」


「しー、声大きい」


ひなは口を閉じた。顔が熱い。一月なのに。


---


「そろそろ帰るね」と結衣が言った。しらたきのリードをしっかり握って。


「次は犬なしで来てね!!」とひなが言った。


「でも楽しかったでしょ」


「楽しかったけど!!」


悠がカウンターからお茶を持ってきた。「これ、良かったら持っていって」と結衣に渡した。


「え、ありがとうございます」結衣がお茶を受け取りながら悠を見た。「先生、しらたきのことありがとうございました」


「いい子だね。また連れてきて」


「先生!!」ひなが叫んだ。「また来ていいって言わないでください!!」


「なんで」


「なんでって——!」


結衣がくすくす笑いながらドアを開けた。「じゃあね、ひな。先生も」


「またね」と悠が言った。


「うん、また。——しらたき、バイバイして」


しらたきが前足をちょこんと上げた。


ひなが「かわいい!!!」と叫んだ。


ドアが閉まった。


---


しばらく二人ともドアを見ていた。


「……騒がしかったね」と悠が言った。


「ほんとに!!でもかわいかったですね、しらたき」


「うん」


「先生、動物好きなんですか?」


「好きだよ。犬も猫も」


「じゃあ」とひなが言った。なんとなく、思ったことが口から出た。「じゃあ私のことも好きですか」


言ってから固まった。


なんで言ったんだろう。


悠がひなを見た。


一秒、間があった。


「……好きだよ」


悠がかすかに、にっとした。


ひなは固まったまま動けなかった。


「お茶、冷めるよ」


「……あ、はい」


ひなはカップを両手で持った。温かかった。顔も温かかった。というか熱かった。


「先生」


「ん」


「今の、どういう意味ですか」


「どういう意味だと思う?」


「先生!!はぐらかさないでください!!」


悠がお茶を飲みながら窓の外を見た。一月の夜が、静かに広がっていた。


「どういう意味だと思う」って、それが一番困る答えだ。


ひなはお茶を一口飲んだ。苦くなかった。今日は薄めにしてくれた。


「……先生って、ずるいですよね」


「何が?」


「そういうこと、さらっと言うから」


悠が少し黙った。


「……さらっと言ったつもりはないかな」


ひなが悠を見た。悠はまだ窓の外を見ている。横顔が、間接照明にやわらかく照らされている。


ひなはそれ以上、何も聞けなかった。


「ひなちゃん」


「……なんですか」


「今日もありがとう。助かったよ」


ひなは少し間を置いてから、「どういたしまして」と言った。


悠がかすかに笑った。


ひなはタオルを棚に戻しながら、さっきの「好きだよ」をもう一度頭の中で再生した。


どういう意味だったんだろう。


でも——なんか、悪くない気がした。


今日もお読みいただきありがとうございました!


次回は11話、本日の20時時頃に更新予定です。全12話になっています。お楽しみに!


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