第12話「バレンタイン」
二月十四日の朝は、いつもより五分早く起きた。
特に意味はない。ただ目が覚めた。
ひなは布団の中でしばらくじっとしていた。天井を見ていた。鞄の中に、小さい箱が入っている。リボンをかけた。昨日の夜、三回確認した。今朝も起きてすぐ確認した。入っている。わかってる。でも確認した。
(……行くか)
起き上がって顔を洗って、ご飯を食べた。なんか食べた気がしない。でもちゃんと食べた。「緊張してる」と自分でわかっていても胃はちゃんと動いているらしかった。制服に着替えて、鞄を持つ。重い気がするけど、チョコはそんなに重くない。気分の問題だ。
外に出たら空気が冷たかった。北海道の二月はまだ本気で冬だ。吐く息が白い。空はよく晴れていて、朝の光が雪の残った路肩に反射している。バレンタインの日にしては、なんか、きれいな朝だった。
歩きながら、なんか緊張してるなあ、と思った。緊張なんてあんまりしない方なのに。専門学校の試験も、発表も、ここまで心臓がうるさくなったことはない気がする。面接のときだって、初日だって、もっとずっと平気だった。いつの間に先生のことがこんなに大きくなったんだろう、と思ったら、なんかちょっと笑えた。
段差に足をひっかけて、つまずいた。
「……落ち着け、私」
誰もいない路地で、ひなは自分に言い聞かせた。二月の空に向かって、白い息を吐いた。
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サロンに着くと、悠はいつも通りだった。
ディフューザーにオイルを足していて、ひなが「おはようございます!」と言ったら「おはよう」と一言返して手を動かし続けた。BGMが低く流れている。アロマの香り。いつも通りだ。
ひなは受付の準備をしながら、鞄を棚に置いた。チョコが入っている。閉店後に渡す。そう決めた。今日一日は普通にやる。普通に仕事して、普通に動いて、閉店後に渡す。
(普通に、ね)
午前中は三件、午後に二件。お客さんが来て、悠が施術して、ひなは受付と補助をこなした。お客さんがいる間は悠も敬語で、「橘さん、次のお客様のご案内をお願いできますか」とか「橘さん、タオルを一枚取っていただけますか」とか、いつも通りの先生の顔をしている。ひなもいつも通りに動いた。笑顔で迎えて、案内して、会計して。
ただ、さっきから心臓がうるさい。
お昼の休憩のとき、悠がコーヒーを入れてくれた。「飲む?」と聞いてくれて、ひなが「ありがとうございます」と受け取った。それだけのことなのに、なんか、手がちょっとだけ震えた。情けない。
悠は何も気づいていない顔で、コーヒーをひとくち飲んで、「今日は午後から冷えるらしいよ」と言った。
「そうなんですね」
「帰り、暖かくして帰って」
「はい!」
(……ほんとに何も気づいてないな)
いや、気づいてなくていい。閉店後に渡す。それでいい。
ひなはコーヒーを飲みながら、なんか先生はずるいなあ、と思った。こっちがこんなにどきどきしてるのに、全然普通だ。静かで、丁寧で、たまにおちゃらけて、それでいてこっちのことを全然わかってない。
午後の施術中、個室から悠の声が聞こえた。お客さんと何かの話をしながら、ふと笑い声がした。低くて、静かな笑い声だ。ひなはカウンターで予約表を眺めながら、その声を聞いて、胸のあたりがちょっとだけ温かくなった。
先生の笑い声、好きだな。
(……あ、だめだ。落ち着かないと)
(わかってほしいとも思うけど、わかられたら死ぬかもしれない)
ひなは心の中でそう思って、コーヒーをもうひとくち飲んだ。
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午後の最後の施術が終わって、ひなが後片付けをしていたら、玄関のドアが開いた。
「こんにちはー」
高橋さんだった。手土産の紙袋を持っている。いつも通りだ。
ひなが「いらっしゃいませ、高橋さん!」と言ったら、高橋さんがカウンターにすっと近づいてきて、にこにこしながら小声で言った。
「橘さん、今日バレンタインじゃない」
「そうですね」
「何か渡す予定は?」
「あ、えっと——」
一瞬迷った。
「——義理チョコです!!」
思ったより大きい声が出た。高橋さんがぱちぱちと瞬きして、少し間を置いてから「ふーん」と言った。
「そ、そうなの」
「はい!!」
「そっかー」
高橋さんがにっこりして、施術室の方へ歩いていった。途中で振り返って「頑張ってね」とだけ言った。
「は、はい!」
施術室のドアが閉まってから、ひなはカウンターの前で、壁に向かってそっと言った。
「……義理じゃないです」
受付の椅子に座って、窓の外を見た。もう夕方近い。日が短い季節だ。空がうっすらオレンジになっている。あと少ししたら閉店だ。
(渡せるかな)
渡せる。渡す。渡すと決めた。
ひなは深呼吸して、手帳を開いた。予約の確認をするふりをしながら、胸の中で何度かリハーサルをした。バレンタインです。義理じゃないです。うん。言える。
高橋さんの施術が終わって帰り際、高橋さんがひなに「また来るね」と言いながら、ついでのように小声で付け足した。
「先生、最近よく笑ってるわよ」
「え?」
「前より、なんかいい顔してる気がして。気のせいかもしれないけど」
それだけ言って、高橋さんは「また来るね」とひらひら手を振りながら出て行った。
ひなは玄関を閉めてから、しばらく扉の前に立っていた。
(先生、笑ってる)
なんか、それが嬉しかった。
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閉店は六時だった。
最後のお客さんを見送って、ひなと悠で片付けをした。タオルをたたんで、使った道具を洗って、ディフューザーの電源を落とす。いつも通りの作業だ。
ひなは何度か「先生」と言いかけて、やめた。悠が棚のものを整理していて、なんか、声をかけるタイミングが難しかった。手が動いてる。背中を向けてる。ちゃんと向き合って渡したい。
でも片付けが終わったら終わりだ。
(今しかない)
ひなは一度深呼吸をした。
「先生」
悠が手を止めて振り返った。
ひなは鞄から小さい箱を取り出した。リボンがかかっている。悠がそれを見た。ひなの顔を見た。
「……バレンタインです」
声がちょっと震えた。恥ずかしい。でも言う。目が合っている。逃げない。
「義理じゃないです」
悠がしばらく黙った。ひなの顔を見て、箱を見て、またひなの顔を見た。
「……ありがとう」
静かな声だった。ゆっくり受け取りながら、「開けていい?」と聞いた。
「どうぞ」
悠がリボンをほどいて、箱を開けた。小さいチョコが並んでいる。不格好で、気泡があって、でもちゃんとチョコの形をしている。
「手作り?」
「はい。一回失敗してもう一回作りました」
「そうなんだ」と言いながら、悠がひとつ口に入れた。少し間があった。
「おいしいよ」
「ほんとですか!?」
「ほんとに。ちゃんとおいしい」
「よかった!!」
ひなが叫んだら、悠が「そんな叫ばなくても」と言いながら、またひとつ食べた。
しばらく二人とも黙っていた。変な間だった。でも嫌な間ではなかった。アロマの香りが残っているサロンの中で、BGMだけが低く流れている。照明が柔らかくて、外の暗さと対比して、なんか、ちいさな場所みたいだった。
ひなはなんか言った方がいいのかなと思いつつ、何も言えなかった。悠も何も言わなかった。チョコの箱が悠の手にある。それだけで十分な気がした。
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悠が箱を閉じて、カウンターに置いた。
それから、そっと言った。
「ひなちゃんがうちに来てから、笑うことが増えた気がするよ」
ひなが動きを止めた。
「……え」
「なんか、最近よく笑ってるなあと思って。自分でも、ちょっと気づいてた」
「……それって」
悠が少し間を置いて、ひなの顔を見た。
「……ひなちゃんのせいかな」
ひなの頭の中が、一瞬真っ白になった。
先生が笑うのは、私のせいらしい。
「先生、それ——」
「チョコ、ありがとう」
悠が静かに言って、箱を手に取った。それだけだった。それだけなのに、なんか、全部言われた気がした。
「もう!!」
「何が」
「なんでそんな、さらっと言えるんですか」
「さらっとじゃないよ」
悠が少し笑った。ちゃんと笑った。目の端がちょっとだけ細くなる、あの笑い方だ。
ひなも笑った。笑ったら、なんか、胸の中のもやもやが全部溶けたような気がした。
「来年は沢山作ってきますね」
「沢山ってどのくらい?」
「100ポンドくらい?」
悠が少し間を置いた。
「……一生分くらいあるね」
「え、多すぎますか!?」
「うん」
「じゃあ半分にします」
「50ポンドでも多いかな」
「じゃあ先生が食べきれる量で!」
「そうしてくれると助かるよ」
ひなが「もう!!」と言って、悠がまた笑った。静かで、でも確かに笑った。
サロンの中にアロマの香りが残っている。間接照明が柔らかい。外はもう暗い。
先生が笑っている。
私のせいで、笑っている。
橘ひなは、その顔を見ながら思った。
よかった、と。
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帰り道、ひなは結衣に電話をかけた。
「どうだった」と結衣が言った。
「渡せた」
「それで?」
ひなはしばらく黙った。うまく言葉にならなかった。先生が言ったこと、先生の顔、あの笑い方、全部頭の中にある。
「……先生が笑ってた」
「それで?」
「それだけ」
「十分じゃん」
結衣の声がどこか温かかった。
「あと、義理じゃないってちゃんと言えた?」
「言えた」
「えらい」
「えらいって何」
「えらいはえらいだよ。あんたが『義理じゃないです』ってちゃんと言えたんでしょ。えらい」
ひなは少し笑った。「……うん」と言った。
ひなは「うん」と言った。吐く息が白い。路地を歩きながら、空を見上げた。二月の夜空は澄んでいて、星がある。
先生が笑うのは、私のせいらしい。
先生がそう言った。
今日は、それだけで、十分だった。
ひなはスマホをポケットにしまって、また歩き出した。
どこかのお店からバレンタインの音楽が流れていた。甘い匂いがした気がした。街全体が浮き足立っているような、そういう夜だった。
でも今は、そういうことより、先生が笑っていたことの方が、ずっと大きかった。
(来年も作ろう)
ひなはそう思いながら、足を速めた。まだ長い、北海道の冬の夜だった。
ついにシーズン1最終回となります!ここまで続けて読んでくださり、本当に、本当にありがとうございました!
この作品を皆様に見つけてもらえて、最後まで描き切ることができて幸せです。またお会いしましょう!
続きが気になる!と思ってくださった方は、ぜひ【☆☆☆☆☆】やブックマークで応援をお願いします!」




