熊さんが現れた
ある日~、
森の中~、
熊さんに――
――ガァルルルルルルルルルルルルルルルルルッ!
「出会っちまった…………」
全長十メートルオーバーのそれを果たして熊と呼んでいいものか、甚だ疑問なのだがきっとそれは熊なのだろう。
黒い毛に覆われた巨木のような豪腕が大地をミシリと軋ませながら歩を進める。
胸には金糸を編みこんだかのような半月が刻まれていて、薄暗い森の中を照らしているようにさえ思える。
「あ……う……月熊…………」
ぺたん、と尻餅をついて、座り込んでしまったニアが呆然とそう言った。
俺は彼女の足元から視線を逸らす。
そりゃあ、怖いよな。
俺も怖い。
「危険度Aの魔物ですね、いやー流石は灰被りの森、こんなのもいるんですねー」
なんて暢気にイリスが言う。
「ジンっ、早く……なんとかしろよなぁ……!」
「と、言われてもな…………」
「ガァルルルルルルルルルルルル」
「ほら、怒っていらっしゃる……」
余裕のない俺とニアと違って、心底楽しそうに駆け回るリリーが、俺の右袖を引いてきた。
「ほらね、ほらね! リリーの言った通り、可愛いのいたでしょ!」
獰猛な牙に、鋭利な爪、人間など歩くだけでぺしゃんこしそうな体躯の熊は果たして可愛いの範囲に含まれるのだろうか。
俺はリリーの言葉に従ったあの時の決断をかなり悔いていた。
◇
最近は天候が良かったのか、河の状態も安定しているように思えた。
静かな水が空気を叩いて鼓膜を擽る。
空も、大地も、山脈さえも切裂いた古代龍が残した爪跡に、雨が降って水が溜まり、河となった。その流れは、いずれその手のひらに、竜神湖に流れ着く。
「――とか言われても、ただの河にしか思えねーよな……」
「涼しいねー、ねー。ぱちゃぱちゃ気持ちいい~」
「こら、リリー危ないわよ!」
水に足を着けながら、リリーが騒いでいるのをニアが静止した。
川辺は問題ないが中腹に行けばリリーは瞬く間に流される勢いと深さがあるだろう。
足を伸ばして水に浸すぐらいなら何の問題もないが、流れのない湖と違って、泳ごうとするのは駄目だろう。飛び込もうとするリリーの肩をニアが押さえつけていた。
アルファを出て、森の中を歩くこと十時間、主に俺のための休憩を挟みながら辿り着いた場所は、地の民の元へと向かうための最初の関門の大河だった。
かつては交易のため橋がかけられていたのだが、数百年前の異物――今は見るも無残な残骸が残っているだけだった。
「さて、どうやって渡ろうか――飛ぶか、跳ぶか、それとも空間跳躍か――――」
「最後のはナシっ!」
ニアが俺の胸倉を掴み、小さな細腕で持ち上げられる。
どれだけ必死なんだよ。
いや、まあ気持ちは分かるが。
「お魚取れたぁ!」
うむ、家の娘は自由で可愛い。
川辺の魚を大きなもふもふの尻尾で一歩釣りとは、なんという業前。
「でもいいのか? 交易ってのが目的なら、誰もこっちにはこれないんじゃねーの?」
「んー、まあ交通網は交易に必要だがそれは今すぐってわけでもないんだよな、今のアルファには交易できる物なんて果実くらいだからな……」
「ふーん、よくわかんねーな」
まあでも、道は必要か。
幸い水位はそう高くない、か。これなら魔法で即席の橋を作れそうだ。
いや、橋って即席で作るものではないだろうけれども――
「――イリス」
俺の呼びかけに応えて、虹色の羽を広げたイリスが宙に現れた。
そのまま重力を感じさせない軽やかな飛翔でふわりと飛ぶと、俺の肩にちょこんと座った。
「はいなのですよ、主様」
「橋を架けたいんだが、どの魔法がいいんだ?」
イリスは魔道の書を顕現して、ひらひらとページを捲りながら、うーんと唸っていた。
「そうですねー、土魔法の応用でいけそうですね。土壁で浮き島をいくつか作って、橋脚も同じく石柱にしましょう。鉱物もいくつか抽出して、鉄で支えを頑丈にしましょうか。アーチ構造にすれば、まあそう簡単には壊れないでしょう」
と、イリスの話を聞いてもピンとこないので全て彼女にお任せである。
「じゃ、それで」
「投げやりですね――ま、このイリス様にお任せなのです」
「なのですぅー!」
イリスの言葉にリリーがいい加減なエコーをかけた。
羽虫の真似しちゃいけません!
俺はそれを聞いてから、ゆっくりとグリモワールに魔力を送る。
土壁自体は第三階梯の魔法だが、明らかに消費している魔力はその比ではない。
きっと、様々な魔法をイリスが組み合わせているのだろう。
俺が考え付くだけでも、橋を作るなら、それなりの物量が必要なのだから。
「そうですね――では、新たにこう名付けましょう、橋作製」
魔道の書がページを広げた。
宙を舞う魔法陣の渦が最初に齎した現象は、大地に隆起だった。
地が持ち上がり、形を変える。
長方形、やや台形よりの島が浮き上がると、今度は円柱の支柱が複数持ち上がった。そんな幾つかの島を結ぶように、石造りの道が半円を象りながら繋がった。
魔法によって研磨された土は色鮮やかで、所々は金属と思わしき色があった。
最後に、橋の隅っこにイリス橋などと名前が刻まれて、完成である。
何日も作業を必要とするはずの工程を全てすっ飛ばして、僅か数分で橋完成である。魔法って凄い。
「出鱈目だなぁ……」
ニアが気の抜けた声で呟く。
「いや、全く持って同感なんだが……」
えへんと胸を張り、何故か名前まで勝手につけたイリスにも、今はなんとも文句を言う気にはなれなかった。
「パーパ凄い! どーんってなって、バーンってなったら道ができた! 肩車して、肩ぐるぅまぁ!」
リリーは遠くを見渡したいのか肩車をせがんできた。
俺は軽いリリーを持ち上げると、肩に担いであげる。
きゃっきゃとはしゃぐリリーだけが非常識な空間での唯一の癒しだった。
数十分であっさりと川を渡りきって、再び森の中を歩いた。もう一日も進めば、かつての地の民の居住していた村落にたどり着くことだろう。
微かな期待を胸に、二人の少女の手を引いて、森の中を歩こうとしたが――二アはあっさりと振りほどき、リリーもまた、俺の手を解いて駆け出した。
「呼んでる、のかな……パーパ、なんかね、可愛い子がいるよぉ?」
そう言って、歩き出したリリーの後を追う。
一度言い出したリリーは中々意見を変えてくれないので、納得がいくまで自由にさせるのが一番の近道だったりする。
「おい、なんか、聞えるぞ」
聴覚に優れたニアがそう言った。
「イリス」
「んー、と魔物、ですかねー。ま、問題ないでしょう、リリーお嬢さまの御心のままに~」
気楽に告げるイリスの後押しもあってか、俺はリリーの後をそのまま追った。
そして――
「――ガァルルルルルルルルルルルルルルルルルッ!」
熊さんに出会った。
「「い~~やぁ~~~ぁああああああ~っ!」」
俺とニアの悲鳴は重なるが、
「あはははははは、熊さん、可愛いーぃ!」
リリーは大喜びだから何とも言えない。
俺は熊さんには悪いと思いながらも、リリーの安全のため攻撃魔術を起動しかけて――
「大丈夫ですよ、主様……」
イリスの声で取りやめる。
「懐いてますので」
「…………はぁ?」
巨大な熊は仰向けに倒れて、猫が甘えるように、リリーにお腹を見せていた。
まるで、撫でて、撫でて、とでもいいたそうだ。
「熊さんと遊ぶ!」
熊さんの手のひらに乗れそうなな小さな少女が、おなかに乗って飛び跳ねる光景を見て、思わずぽかんと口が開いた。
「んなアホな…………」
そう、呟かずにはいられない。




