ルビアとお神酒
大気を鳴動させる轟音が響き渡った。
雷鳴よりもなお激しいその音は、天上より広がりて、世界の最果てまで響いたのであろう。
誰もがその時、手を止め、足を止め、空を見上げた。
だが、それは誰の眼にも映らない。
目に見えない、次元の異なる断層で、一瞬にも満たない僅かな時、流れていることすら分からないであろう微かな一時、確かにそこに断裂が走ったのだ。
そうして、天使が地に降り立った。
それが、始まりだと彼女は思っていた。
純白の衣はズタボロで、衣類としての役目を果たしてはいない。
薄汚れた大気に含まれる魔の匂いが、不思議と今は心地が良かった。禁則を破ったことで負った傷が少し癒えたのがわかる。
皮肉なものだ。
だが、天の鎖を破った代償がこれだけならば、安いと思うべきなのだろうか。
誰もがそうしたことがあるだろう。
意識の外で、思考の外で、そっと彼女は空を煽ぐ。
これが、大地から見た天、か。
なんと遠く、果てないことか。
踏みしめる大地のなんと重厚なことか。
ふと、一歩を踏み出そうとして、体が傾く。
どうやら予想以上に消耗してしまったようだ。
そしてそれ以上に、失った神格が一向に回復する気配がない。
覚悟はしていたが、やはりこうなってしまったか。
ふらつく体を支えるため、大樹を握り締めた――つもりだったのだが、バキリ、と音がなった後、また彼女は支えを失う。
「……脆い…………」
握ったつもりが、抉り取ってしまった木の幹が手のひらにあった。
ふらつく足を支えるため、少し力を込めて、大地を踏む。
すると、クレーターの如く、地が陥没した。
「……ふむ、手加減を覚えなくてはならぬか…………それはそうと――」
見慣れぬものに視線を向ける。
木の裏の、茂みの奥で、小さくなっているそれに、声が届く。
「――貴様は何者だ?」
「はわわわわわわわわ、た、食べないで…………」
彼女は改めて思う、きっと、それこそが始まりだったのだ。
◇
「おい、ルビア? おーい、おーいってば」
返事がない。
仕方がないので、何もない空中に足を伸ばして座っているルビアの頬をツンツンしてみる。
おお、柔らかい。
凄いな、これは。
流石は女神、肌の質も段違いだ。
これなら幼女じゃなくてもふにふにしていたいかもしれない。
と、俺が彼女に触っていると、いつの間にか正気を取り戻したルビアが、顔を真っ赤にしながら、頬をピクピクさせていた。
それは羞恥というよりは、憤怒が齎した影響なのだろう。
右拳がグッと握られている。
「……こ、こ、こ、の――」
(あ、これはまずいやつだ・・・…)
本能が命の危機を告げていた。
俺は考えることなく、魔力を全力で循環させた。
断言しよう、俺は全神経をこの上なく研ぎ澄ましてルビアを警戒していた。
だが、気がつけば目の前に存在していたはずのルビアが掻き消えていた。その時点で防御など望めるはずもない。
俺にできることと言えば、ただ覚悟を決めて歯を食い縛ることのみ。
「――――無礼者がぁあああっ!」
「ぐふぅ!」
腹部にありえない衝撃が襲う。
最早それは拳の威力ではない。腹の中で、核弾道が爆発したかのような熱と衝撃が走り抜けた。
両の足はあっさりと地に立つことを諦め、くの字に折れ曲がった俺の体が宙へと投げ飛ばされる。空中で乱回転しながら、厚く堅牢な壁を幾枚もぶち抜いて――ようやく内壁にめり込むことができた。
「「ざまぁ」」
何て、精霊の声が何処からか聞こえたような気がしたが、こっちはそれ所じゃない。
下手しなくても死ぬ。
俺以外だと間違いなく即死だ。
体が衝撃に耐えられず、爆発四散していることだろう。
何故ならば、俺の身体強化が抜かれているのだ。百パーセント循環させてなお、その上をいく攻撃など一体誰が耐え切れようか。天の攻撃すら凌いで見せた無敵の防御が、ただ一発のパンチで打ち破られたのは、悪い夢であると思いたい。
「いってぇ……おいこら化物、少しは手加減しろ!」
だが、腹部の痛みは紛れもなく本物だ。
ずきりとした痛みと、ジワリとした熱さが未だに残っている。
「ふん、許可なく我の体に触れる痴れ者目に天誅を下してやったまでよ」
クソ、セクハラに対する処罰がこれとは、どう考えても罪刑の均衡が取れていない。
ちょっと頬を突っついていただけなのに。
これはあれだ、獣人の男性諸君には、下手に手を出さないように忠告しなくてはなるまい。平和な村で、無残な死体など見たくもない。
「人がせっかく新作持ってきてやったのに……」
紅玉宮は立ち入るだけで一苦労である。
切り立った崖上の城に立ち入る道はたった一つ、天の架け橋と呼ばれるつり橋を渡る他ないのだ。
四方は全て、自然の防壁で守られているのは、いいのだが……今はそのたった一つの道が壊れている。つり橋の一部が隕石でも落ちたかのようにへしゃげ、炭化し、崩れ落ちているのだ。
だから、現状では瞬間移動でしか通行手段が存在していない。
わざわざ、魔法まで使って差し入れを持ってきて、拳で歓迎されるとは、自業自得とはいえ、泣けてくる。
だが、そんな俺の心情を察したわけではないルビアは、新作と聞いて目を輝かせた。
セリアといい、こいつといい、現金な奴である。
「おお、それを早く言わぬか。疾く、渡すが良いぞ」
少し、いや、かなり気は乗らないが、俺はそれを取り出した。
透明に近い白い杯、そこに注がれた黄色の液体。
甘く芳しい香りに加え、仄かなアルコールが鼻腔を擽った。
「甘い匂いがするのう」
「巨大蜂の巣からくすねて来たハチミツをイリスが綺麗に取り出して、んで純粋に酒にしたのがそれ――」
そして、俺はもう一つ杯を取り出した。
「んで、こっちがルビアから貰ったワインにハチミツを混ぜた蜂蜜ワインだ、俺は酒の味はよく分からんがイリスが調整してるからうまいんだろ?」
そもそも、未成年だし幾ら異世界だからとはいえ、積極的に飲む気にはなれなかった。
だから、お神酒としてルビアに捧げ、感想を聞いてみたのだ。
「上品な甘さよのう、うむ、悪くない」
それだけを言うと、今度は別の意味で頬を染めながら、酒を煽るルビア。たったそれだけの動作で、何故だか色っぽいのは、露出度の多い格好と余りに人間離れした美貌のせいなのだろう。
飲食の必要などないのだろうが、味覚は確かに存在している。きっと、それは人間よりも高性能であることは間違いないので、彼女が悪くないと認めるのであれば、それは十分に有益な品と認定できるだろう。
俺は若干侮っていた部分が多くあったのだが、アルファの文化、そして技術レベルは決して低くなかった。
長大な大橋をかける技術は勿論だが、食を見るだけでも素晴らしいものがある。
まずは、この酒、俺は魔法で蒸留したり、発酵させたりしたが、魔法に頼らず蒸留や発酵、貯蔵が可能な施設が存在していた。塩湖近辺で取れる塩を利用した保存食の製法や、燻製も既に出来上がっていたものがあったし、山々や森で取れる香草や実を煎って、スパイスに昇華したものもある。
美食の最高峰たる現代の王国に、数百年も昔のアルファが劣っているとは言い難いのだ。
だが、美食が発展した理由は余りにも残念だった。
俺がルビアに聞いたところ、返ってきた答えはこうだ――
『――ああ、我が飯がまずいと言ったら、皆奔走するはめになっておったぞ』
結局は彼女の我侭で発展したのだ、何とも言い難い気分になる。
だが、それだけの余裕を齎したのもまた彼女の影響が大きいことは想像に難くなかった。
防衛力は言うまでもなく、精霊が集まったのもまた、彼女のおかげというか、彼女のせいというべきか、まあ当時の住人からすれば幸運だったのであろう。
俺はルビアの満足そうな笑みを見て、交渉の材料が増えたことに笑みを浮かべる。
(これでようやく、地の民をスカウトできそうだ)
「何を笑っておる、ほれ――どうじゃ、お主も一杯?」
と、ルビアが俺に杯を渡してきた。
うーむ、美人の酌はこう、なんというか、断わりづらいな。
お酒は二十歳になってから、いいね!
俺は、手渡された杯を少しだけあおる。
甘味を舌に乗せながら飲み込むと、喉を焼くような強い酒精を感じる。果実の香りが鼻を抜け、想像以上の味の調和にほっと一息を吐き出した。
言ってることとやってることが違うって?
良いんだよ、異世界だし、多少はね。ちなみに、何処の国でもアルコールの毒性に対する理解は薄く、未青年飲酒の禁止などされてはいない。
「うまい、けど酒精が強いですね……」
「そうか? 我は強めの酒が好きだぞ? お主の造り出した酒は中々にいけるのう」
宮殿の中に未だに酒を貯蔵している辺り、ルビアも中々に酒好きである。
「それに、地の民も酒精は強い方が好いておったぞ? まあ、女子供は別じゃがのう」
「近いうちに会いに行って見ますよ」
「ふむ、だがあやつらが今もいるとは限らんぞ?」
「それでも、ですよ」
それでも、現在のアルファには技術者が一人もいない。
建物や道具が壊れようと直す事はできないし、新たに作る事だって難しい。木々は勿論のこと、綿や絹、鉱物、それらの資源は周辺で確保できるが、利用することはできないのが現状なのだ。家畜を放牧する施設や開発された田畑まで存在しているにも関わらず、それらが使われることはない。
まさに宝の持ち腐れ状態だろう。
獣人は狩りは得意だが、そういった技術に詳しい者は残念ながらいなかった。
いないのならば、引き入れるしかあるまい。
さっさとここを安定させて、俺は本来の目的を果たしに行きたいものだ。
いや、いっそここを拠点にすべきなのだろうか。ちょうど、数多の国に国境を持つ大森林であるのだし。
俺がそんなことを考えていると、いつの間にか空はすっかり暮れていたようで、茜色の夕日が天窓から差し込んで来ていた。
「おっと、そろそろ帰りますね、リリーが心配しそうだし」
「ん、ああ――良き供物であったぞ」
再び、魔法を起動して――俺は紅玉宮を後にした。
◇
後に残ったのは無人の城だ。
豪奢な意匠も、華美な装飾も、見る者がいなければ価値などない。
不変の性質が、今は何処か苛立たしくもあった。
逃げ場のない、死を体現したかのような静寂はただ続く。
どこまでも、どこまでも――
消えていく声が、惜しいと思う自分は相当に毒されているのだろう。
「「殺しちゃう?」」
なんて、楽しそうで、何処か苛立たしげな声が響く。
「まさか」
「「殺しそうだった」」
「あの程度では死なぬさ――現にあ奴は生きておる」
「つまんない」
太陽のような光が言って、
「つまんない」
夜のような闇が続ける。
「「ねー」」
「はは、そう言うな――所詮はただの戯れじゃ――」
天に座す女神はただそう言って、どこか儚く笑うのだった。




