神々の黄昏①
昔、ある村があった。
その村は、毎年女を捧げる代わりに、神から人間に譲り渡された土地だった。その村には神獣が遣わされ、山を守っていた。
今年も神に捧げるために美しい女が選ばれ、海を臨む崖に縛りつけられていた。
その女は、憎しみに歪んだ顔で海に叫んだ。
「おのれ、村長め!よくも、私を謀ったな!このキルケを!」
彼女は、ごうごうと鳴る荒波を睨みながら、唸るように呟く。
「呪ってやる……呪ってやる。たとえ千年の時をかけても!」
彼女の声は、無情な波の音にかき消された。
***
「みんな!あの若者が、山のバケモノを倒したぞ!彼は英雄だ!」
「なんだって!もう、あの怪物に怯えなくてすむのかい!?」
「英雄だ!英雄だ!」
「なあみんな、彼なら海のバケモノも倒せるんじゃないのか!」
「ああ、きっとそうだ。俺たちを救えるのは、彼しかいない!」
若者は、ひどく疲れていた。
(ああ、くたびれた。なんたって、さっきの山のバケモノは、獅子の首が三つあって、避けると鋭い爪に肉をえぐられるんだ。胸に食らった傷は、もう少しで心の臓を貫くところだった)
正直なところ、体力は限界だった。
これ以上の戦いなどできるはずがない。
けれども、村人たちは若者に、期待の眼差しを向ける。
「なあ、若き英雄よ。海のバケモノも倒してくれないか。我々はずっと、奴に悩まされている。毎年今日のこの日に、年頃の女が生贄に。彼女を救えるのは君しかいない」
(ああ、なんてことだ。よりによって今日この日だなんて。見殺しになど、俺にはできない)
彼は言った。
「ええ、もちろん。きっと彼女を救ってみせましょう」
***
「たすけて……ああ、誰か!」
若者が海に駆けつけると、崖のほうから助けを呼ぶ女の声が聞こえた。
声を頼りに崖へと進むと、手枷足枷を嵌められ、岩に縛りつけられた若い女がすすり泣きながら彼を見上げた。
若者は息を呑み、眉をひそめて呟いた。
「これは、なんとひどい……」
「どうか、どうかお助けください」
「ああ。今、枷を」
若者は、女の枷に剣を突き立て、鎖を強引に破壊し自由にしてやった。
「ああ、勇敢で心優しい人。感謝致します」
「造作もないことだ。それより、あなたは何故このような目に?」
「村長に謀られたのです。この村では、毎年、海のバケモノに捧げる娘が選ばれ、今年はそれが村長の娘のはずでした。しかし村長は、娘可愛さに、私を身代わりに」
「なんと……」
若者が言葉を失うと同時に、海は自身の存在を主張するかのようにゴウと音を立てた。
「気を付けて。海のバケモノが、生贄がいなくなったことに気づいて怒るかもしれない」
女の言葉に答えるかのように真っ黒い波は一層荒くなり、生き物のように揺らぎ始めた。
「オレノ、ハナヨメヲカエセ!」
耳に直接響くような不快な音に、若者と女は息を呑んだ。
「まずいわ……海のバケモノが来てしまう」
さあっと青ざめて囁く女。
若者は、そんな彼女を安心させたいと思い、震える肩を優しく抱きしめた。
「あなたは、俺が守る」
若者は、「一刻も早く逃げるんだ」と女の背を押し、一人海に向き直った。
「気高き海の主よ!我が名はメフィストフェレス!罪なき女を赦し、生かしたまえ!」
「……カエセ! オレノ、ハナヨメヲ……!」
真っ黒い海が、ブクブクと泡立ち、巨大な双眸と口腔がブラックホールのように渦を巻いて現れた。
「ユルサナイ……! クッテヤル……!」
海は不自然に大きく波立ち、彼に襲いかかった。
「ああ……我を赦したまえ!」
彼は波に呑まれながら、正確に海のバケモノの眉間を剣で貫いた。
「ギャアアア――――」
耳をつんざくような断末魔とともに、暴れ狂う波がメフィストフェレスを襲った。
彼はにわかに呼吸を奪われ、ゴポゴポと息を漏らしながらもがくしかない。
意識を手放していく彼の頭に、また声が響く。
その声は、海のバケモノとはまた別の、厳かで冷たい声だった。
「オロカナニンゲンメ。カミノコヲコロストハ」
その言葉の意味を理解する前に、メフィストフェレスは意識を手放した。




