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嵐の前

「よお、キルケ」


 ロッキードは赤茶の髪をガシガシと掻きながら部屋の扉を開けた。


 ノクスの教会に戻って既に一週間ほどが経つ。

 旅装を解き、眼鏡を外し、普段通りの雑な話し方に戻すともはや別人だった。


 寝台の傍で眠っていたキルケは、あくびをしながら起き上がった。

 寝台には悪魔が横たわっている。


「そいつ、まだ起きねえのか?」

「そうだけど」

「狸寝入りなんじゃねえの」

「さあ。それでもいいの、起きたらその後はずっと一緒にいるんだから」


 そう言ってキルケは愛おしそうに悪魔の頬に触れ、唇にキスをした。


「寝込みを襲うなんて卑怯な女だぜ」

「うるさいわね、こんな美人にキスされて嫌な男なんていないわ。それよりさっさと仕事しなさいよ」


 キルケはふんと鼻を鳴らして言い返す。


「『監査官』ロキ」

「へーへー。悪魔どもの報告書なんて馬鹿らしい仕事だぜ」


 暖かな日の光が差し込む教会で、彼らは穏やかな日々を過ごしていた。

 まるで、春の嵐の直前のようなひと時を。


「そういえば、たぶらかした第二王子は大丈夫なのか?お前、キスしちまったんだろ?今頃お前を手籠めにするために画策してんじゃねえの」

「……あー」


 今思い出したというようにキルケが目を泳がせる。

 しばらくして、「ま、いっか」と肩をすくめた。


「私、修道女だし。結婚できないって言い張ればいいでしょ」

「相手、王サマになるんだろ?女一人還俗させるくらいわけないって」

「うわあ、面倒くさいな」

「……キス一つで男を惚れさせちまうってのも、面倒というか大変だな」

「うん。でも、私、呪いをかけられる前からそんな感じだったよ」

「……美人って大変だな」



***


 月明かりの美しい夜だった。

 僕は寝台に寝たまま、窓の外をぼうっと眺めていた。


「起きた?」


 若い女の声がする。

 僕は目を閉じて答えた。


「いや。まだ寝ているよ」

「ふふ。大きな寝言だわ」


 鈴を転がすような、美しい声だ。

 この声で、幾人の男が虜になったのか。罪なことだ。


「私のこと、覚えている?」

「さあ、どうだろう」

「まあ、薄情な人。千年前、あなたに海の魔物から命を救われた女よ。……ずっと、探していたの」

「君が、あの時の。……覚えているよ」


 あの、最悪な日の、たった一つの救い。

 それは、彼女を守れたことだったろう。


「千年僕を想っていてくれたのか。そうすると、君は幽霊か、あるいはエルフだったのかな」

「ふふ、残念ながら、あなたと同じよ」

「そうか。では僕は、君を守れなかったんだな」


 静かに僕は落胆した。

 目を閉じた瞼に、柔らかいものが触れた。


「いいえ。あの日私は、あなたに救われたわ」

「……そうか」

「ええ。……どうか覚えていて。あなたを、愛してる」


 僕は再び眠りに落ちながら、その言葉を何度も耳の奥で転がした。


 愛してる。


 何も愛せない僕らが?

 彼女が、本当に僕と同じだというのなら。

 彼女が愛と呼んだそれは、きっと僕と同じ、偽物の愛。

 僕は、愛したくとも愛せない、自身の呪いを呪った。


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