ルーフェルメ
――ん?……なんだろう?何か動いてる……?
ルーフェルメがシルスの足元に細長い黒い影が這い寄っている事に気が付いた。
明らかにシルスのものでは無いそれは、音も無く流れる様にシルスに近づいていく。
――黒い蛇っ!?
「シルスちゃん危ないっ!後ろっ!」
「えっ?うわっ!?」
黒い蛇に見えたそれは、髪の毛だった。
崖下に落ちた筈の魔物の髪だ。
そう気付く前にそれはシルスのか細い足首に巻付き凄まじい力で引き倒すと、あっと言う間にシルスを崖下へと引きずり込んでいった。
「きゃああっ!?」
「シルスちゃんっ!」
ルーフェルメがシルスに飛び付き、崖下に引きずり込まれそうになるのを止めようとするがその速度は落ちない。
成す術無く二人もろとも崖下に向かって引きずられていく。
ガガガッと防具と岩が擦れる音。
防具のおかげで大きなダメージは無いが、逆にそれが滑り材の役割となって引きずられる速度が落ちずにいる。
咄嗟にディロンとラズラットが引きずり落とされつつある二人を追うが間に合いそうにない。
「『閃光弾』!」
キュキュキュン!
という音と共にラズラットの手のひらから放たれた複数の魔法の光の弾は見事に魔物の髪を焼き切り、シルスの足首を黒い髪から自由にした。
しかし、傾斜角度がきつく二人の転落を止めるには至らなかった。
「シルスっ!ルメっ!!」
二人の名を呼ぶアルシーアの声には何の効力も無く。
シルスとルーフェルメは。
どちらとも悲鳴すら挙げずに。
抱き合ったまま崖下へと転落していった。
無音という名の一瞬の静寂が辺りを包む。
残る四人に『最悪の事態』という絶望感が覆い被さった、その時だった。
「助け、てええっ!」
崖下から聞こえてきたのはシルスの声だ。
ひとまずシルスは無事の様だが、必死に絞り出したであろうその声音は逼迫していた。
「早くきてええっ!ルーフェルメさんがっ!落ちそうなんですうっ!!あっ!?きゃああああっ!?」
「シルス!どうした!」
ディロンが崖下に身を乗り出し大声で問う。
「さっきの魔物がっ!まだ生きてますうっ」
「行きます!」
ラズラットはシルスの切羽詰まった声を聞き終える前に、傾斜角度のきつい崖下へと飛び降りていた。
左手と両足を崖の斜面に沿わせて三点支持とし、バランスを取りながら器用に滑り降りていく。
傾斜角度が徐々にきつくなる地形の為、ディロンが目視する限りではシルスの姿は見えない。
ディロンは即座にロープを取り出して懸垂下降の準備に取りかかる。
「このロープをあの岩に巻き付けて私も降りる!アルシーア、ルーフェリカ!君達も一緒にロープを持ってくれ!迷っている時間は無い!」
「「ハイッ!」」
二人の思わぬ素直な良い返事に、ほんの一瞬だけディロンの口元が緩む。
最初に大穴に懸垂下降で降りた時の半分の時間もかからずに準備を終え、手近な岩を支店にアルシーア達にロープを託し懸垂下降を試みる。
――よし、いける!
「アルシーア、ルーフェリカ!重いだろうが二人とも頑張って耐えてくれ!いくぞ!」
この二人になら命を預けても良い、と瞬間的に決断し、巨体に見合わない素早い動きでディロンは崖下へと降りていった。
防具のおかげで大きな怪我は無いが、素肌が剥き出しの箇所からは二人共に血が滲んでいる。
シルスは右手と左足を岩場にかけ、左手一本でルーフェルメの手首を持っていた。
互いの手首を掴み合う事でシルスへの負担は多少なりとも軽減されてはいるが、シルスの左肩にかかる負荷はかなり大きい。
ルーフェルメは落ちた際に左肩を強く打ち付けてしまい左腕の自由が利かず、両足は完全に宙に浮き岩場に足は届かない。
このままだと間違いなく、ルーフェルメはシルスを巻き込んでしまう。
それはルーフェルメが一番よく理解していた。シルスの細い腕ではルーフェルメを引っ張り上げる事など到底、無理だ。
「ごめんねシルスちゃん……重いよねえ。痩せなきゃって思ってたんだけどなあ」
「このくらいっ!なんとも無いですっ!みんなが来るまでっ!頑張れます!」
両腕が使えれば二人とも助かる見込みはまだあったかも知れない。
しかし、今の状況でそれは至極困難である。
ふしゅっ!と鼻息を荒げながら、魔物が片腕と千切れかけた脚で器用にバランスを取りながらシルス達に近付いてくる。
シルスにはルーフェルメを引っ張り上げるような腕力は無い。
それどころか、シルス自身も辛うじて小さな岩にしがみつき身を留めているに過ぎない。
ルーフェルメは。
このままでは二人共に転落するであろう事は容易に想像出来た。
「!……もういいよシルスちゃん!このままじゃ二人とも助からないよぅ!魔物がきちゃうっ!シルスちゃんだけでもっ!早く逃げないとおっ!」
「これから、っ!まだまだもっともっと!楽しいコトいっぱい!したいです!ルーフェルメさんとっ!」
「じゃあじゃあ!シルスちゃんと二人きりでデートしたいなぁ。一緒に買い物してぇ、一つのケーキを二人で分けあったりしてぇ、手をつないで散歩してぇ、いいムードの公園で夕日をバックにチューするの!」
「そんなのっ!いくらでもっ!キスでもなんでもしますからっ!」
ルーフェルメはシルスの気を和らげる為に冗談を言うが、シルスはそれどころではなかった。
――ホントにっ!ヤバイっ!早く誰か来てぇっ!
小石を蹴散らしながらラズラットは瞬時に足元の状況を確認する。
傾斜はあるが垂直ではない。これならば魔法に応用を効かせられる、と。
「あれか!『空動!』」
即座に自らの足元に魔法を発導し、僅か数秒だけ空気の塊で足場を作る。
はた目にはラズラットが宙に浮いているかの様な錯覚を覚える応用魔法である。
崖下から伸びた魔物の髪の毛の位置からおおよその見当を付けた場所、そこから僅かにずれた位置に魔物の姿を確認し、ラズラットはその真上に躊躇なく飛び降りた。
「はあっ!」
ドガッ!とラズラットの全体重を乗せた潰し蹴りが魔物の頭部に決まった。
落下速度を上乗せたラズラットの潰し蹴りは魔物の頭蓋を破壊し、赤黒い液体をぶちまけながら魔物は暗い大穴の底へと落ちていった。
ラズラットは魔物に大きな衝撃を与えると共に自らの落下速度を殺し、魔物がいた場所にがし!っと取り付いた。
飛び降りてからの潰し蹴り。
一歩間違えばラズラットが暗闇の底に落ちていたかも知れない、大胆な戦法だった。
「ラズラットっさんっ!」
魔物の危機からは逃れられた。
だがラズラットの位置からは二人に手が届かない。ラズラットも自分自身が落ちない様に岩盤にしがみつくのが精一杯である。
垂直に近い岩盤では先程の様な応用魔法は使えない。
ラズラットは逡巡する。
――くそっ!どうする!?考えろ!迷うな!
「シルス!今行く!もう少し頑張れ!」
頭上から懸垂下降で降りて来たディロンの声。
「あっ!ディロンさんが来てくれましたよっ!もう少しっもう少しだけっ!頑張ってっ!ルーフェルメさんっ!」
――なんとかなるなるっ!きっと!ディロンさんが助けてくれるっ!
シルスの上半身が崖下に向かい、ルーフェルメを掴んでいる左手の感覚は徐々に失われつつある。
僅かに岩場に懸かっている左足が外れたら――
転落からは逃れられない。
暗く深い底の見えない大穴は高い所が苦手なシルスにとっては、ただただ恐怖でしかない。
しかし今、シルスの手にはルーフェルメの命がかかっている。
ルーフェルメを救いたいという一心が、高所での不安定な姿勢という恐怖感をはね除けていた。
だが、じわりじわりとシルスの身体も暗い大穴の底に落ちつつある。
二人揃って落ちるのは時間の問題だ。
シルスは諦めない。
――最後の最期までっ!頑張れっ!わたしっ!頑張れっ!ルーフェルメさんっ!
ルーフェルメの目に映るシルスの細い腕は血管が浮き、赤紫色に変色していた。
明らかに力の限界を超えている。
小刻みに震えているのが伝わってくる。
――シルスちゃん……!
このままではシルスを巻き込んでしまう。
「シルスちゃんとの出会いは、ルメちゃんの宝物……本当に、ほんとうに……ステキな時間をありがとう!シルスちゃん!」
「なんでっ、そんな笑顔でっ言うんですかっ!もう少しだけっ頑張ってっ!!お願いだからっ!」
シルスの腰がかくんっと僅かにずれた。
それ以上体勢が崩れたら。
その先に待つ結末は……
――シルスちゃん……ありがとう……大好きだよ!
「諦めないでぇっ!」
シルスがぎゅうっと目を瞑った、その瞬間。
シルスの左足が岩場から離れ、二人は共に滑り落ち。
ディロンがシルスの二の腕を掴むのとほぼ同時に。
ふっ、とシルスの左手が軽くなった。
――う、 そ っ !
シルスが再び目を開けた時。
シルスの左手に握られていた筈のルーフェルメの右手は。
ルーフェルメの姿は。
ルーフェルメの笑顔は。
シルスの視界から消えていた。
シルスの視界に広がるのは、静寂だけが支配する、底の見えない漆黒の大穴。
「わああああああああああーっ!!ルーフェルメさああああああんっっ!!ルーフェルメさあああんっ!!いやだああああっ!ルーフェルメさあああんっ!」
静寂を打ち破ったのは、シルスの絶叫だった。
「いやだあああああっ!ルーフェルメさああんっ!返事してえぇっ!!」
シルスの生まれて初めての絶叫が大穴の底に幾重にも響き渡り、吸い込まれて、消えてゆく。
「ルーフェルメさああああああんっっ!!」
声の限りを尽くして名前を叫ぶが。
ルーフェルメからの返事は、無い。
ディロンがシルスを抱き抱え、片腕でロープを操り無言のまま崖を登っていく。
「ルー、フェル、メ……さあああんっ!!」
シルスの叫び声は、崖の上でロープを支えているアルシーアとルーフェリカの耳にもはっきりと届いていた。
――間に合わ、な、かった!?……ル……メっ……!
アルシーアの脱力感は、共にロープを持つルーフェリカに直に伝わってきた。
「しっかりして、シアシアっ!ディロンさんとシルスちゃんが戻るまでっ!気を抜かないでっ!」
ロープを岩に巻き付けてはあるものの、それだけでは心もとない。
丈夫な魔法のロープだとラズラットは言っていたが、ディロンにシルスの重さが加わるといくらシルスが小柄で軽いとは言え、当然ロープにかかる負担は増す。
「シアシアっ!頑張ってっ!」
「……おうっ!」
アルシーアは二人の生命の重みを感じながら、ロープを持つ手に再び力を込めた。
額に汗を滲ませながら、シルスを抱えたままディロンが片腕でロープを登ってきた。
「あっ見えたっ!ディロンさん!もう少しですよっ!頑張って!」
ルーフェリカの励ましを受け、ディロンに気力が沸き上がる。
ものの数秒で降りた斜面だが、登りには倍以上の時間がかかる。シルスを抱えたまま、尚且つ腕一本のこの状況では尚更だ。
ディロンが登り切りラズラットにロープを降ろすと、ラズラットは重力を無視する様な体捌きで崖を駆け登ってきた。
開口一番。
「シルス君は無事ですか!?」
ディロンは、ああ、と短く答えた。
だがその表情は重く、昏い。
その理由など問える筈もない。
ディロンは誰よりも近い場所で望むべくも無く、ルーフェルメの転落を目撃してしまったのだから。
「シルスちゃんっ、ケガは!?大丈夫!?」
ルーフェリカがシルスの容態を確認すると、数ヶ所に切り傷や擦り傷が見受けられるものの、ひとまずシルスは無事の様だ。
「ルー、フェル……メ、さんっ!ルーフェルメさああんっ!」
ルーフェリカの問いにもシルスは上の空である。それどころか崖下に飛び込みそうな勢いで崖の縁まで駆け出し、小柄な身体を乗り出そうとする。
それを制したのはアルシーアだった。
「シルス!シルスっ!落ち着け!ここで泣きわめいてもなんにもならないだろ!!」
「なんでっ、そんな、っ!冷静になん、てっ、なれないよおっ!ルーフェルメさんがっ……!」
「シルスっ!落ち着けっ!誰だってツラいんだよっ!だけど!!一番ツライのは……っ……リカだっ……」
アルシーアの真剣な空色の瞳を見て、はっと我に帰るシルス。
「……ごめんなさいごめんなさいっ!ごめんなさいっごめんなさいっっ……わたしの……せいで……っ」
シルスが悪いなどとは誰も言わないし、無論、誰の所為でもない。
だがシルスはただ『ごめんなさい』と繰り返す事しか出来なかった。
――みんな揃って無事に帰ってくる事。それがなによりのお土産だよ。
出発前にくれたナルミの優しい笑顔と言葉が思い浮かび、シルスの心は張り裂けそうに痛んだ。
「ルーフェリカ……」
ディロンがルーフェリカの側に歩み寄り名を呼ぶが、その後に続く言葉が見つからない。
ディロン自身も妹を病気で亡くしているが、その時とは状況が違いすぎる。
「後追いなんてしないから、心配しないで下さい……なにより、ルメはそんなの望まないよ……」
暗く深い大穴に目を向けるルーフェリカの瞳に涙は無く、静かに、穏やかだ。
シルスは涙が止まらなかった。
ついさっきまで、ほんの数分前までその手にあったルーフェルメの手の温もり。
ルーフェリカが泣きじゃくるシルスに歩み寄り、その頬を濡らす涙を、優しく拭った。
「シルスちゃん……泣かないで」
普段のルーフェリカからは想像もつかないような、か細く小さな声。
「一つだけ聞かせて……」
一言一句を、少しずつ、喉の奥から絞り出すように。
「ルメ、は……笑顔だっ、た、でしょ?」
そう言ってから。
ルーフェリカは、そっとシルスを抱き締めた。
ただ、無言での。
ルーフェリカの優しい抱擁。
シルスにとってそれは、辛すぎる抱擁だった。
「ルーフェリカさぁんっ……うっ……ううっ」
シルスは、ルーフェリカの胸にすがりついて涙を流す事しか出来なかった。
次話『精霊のお告げ?』
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