後編
その瞬間、まるで時が止まったかの様に動けずにいた。
視界が、彼女ひとつに染められる。紅くなった頬は先程の不機嫌そうな表情と同じなのに、子供扱いした自分自身を恥じる程、綺麗だ。
「それこそ冗談でしょう?お嬢様が僕をだなんて」
「こういう時だけお嬢様呼ばわりするの、止めて下さらない?不愉快だわ」
苛々した時の癖、長い髪を人差し指にきつく巻き付けながら、彼女は何もかもを振り切った様に続ける。
「昔から、ずっと好きだったわ。貴方だけを」
「なりません。私と貴方では生まれも育ちも何もかもが違いすぎる。耀司様だってーーー」
「それが何よ!」
僕にとっては篤志家である彼女の父の名前を出すと、彼女は激昂した。
「大恩ある伯爵様を裏切るような事は、致し兼ねます」
嗚呼、心にも無い事を口にするのがどれだけ上手になった事か。
そうでなくては、貴方の傍になど居られなかった。
これほど焦がれているのに。その美しさと、激しい情熱とを愛しているのに。
積もった想いがいつか溢れてしまいそうで、だからこそ郷里へ戻る事にしただなんて、伝えられないけれど。
それでも、自分の意志を込めた瞳で彼女を見返すと、何を言っても無駄だと悟ったのか、やがて彼女は立ち去った。
背筋を伸ばした後ろ姿。辛い事があった時でも、昔からそうだった。
もう追いかける資格など自分には無いと分かっていても、その背中を抱き締めたかった。
「あれ…ははは」
もし、彼女が自分と同じ想いを抱いていて、僕に愛を打ち明けるーーーそんな日が来たならば。
以前から決めていた事だったのに、眼からは止め処なく涙が零れ落ちた。
そのまま暫くの間、優弥はその場所で立ち尽くした。
真梨子は自室へと戻った。鍵を掛け、そのまま寝台に勢いよく身を投げ出す。
初めて出会ったあの日の事。
名家の令嬢らしくないと周囲の者には散々咎められていた行為を、優弥だけが肯定してくれた。
その件だけではない。事ある毎に、彼は『御陵寺家の人間である自分』ではなく、ひとりの人間として、真梨子の事を認めてくれた。歳を重ねるにつれ人脈が拡がり、付き合いの長短に関わらず過度に近付いてきたり、あるいは疎遠になったりという事が繰り返され、それがこの家に生まれたからであると、幼かった真梨子にも次第に解ってきた。だからこそ出会った頃からずっと変わらない優弥が好きになった。それなのに。
「結局私は、この家の呪縛から抜け出せないのね」
勿論、この身分があるお陰で得た物も多い。そうと分かっていても尚、彼と寄り添って生きてみたかった。
我慢しようと思ったけれど、感情の昂りを自覚したらもう抑える事は出来そうになかった。それでも可能な限り抗おうと唇を噛み、声を殺す。3年前に早くして亡くなった母の葬儀以来、涙を流した事など無かったのに。
春には、彼は故郷へ戻る。自分も女学校を卒業するから、縁談なども舞い込むだろう。
愛せる人など、居るのだろうか。こんなにも自分の心は、彼に囚われてしまっているというのに。
傾いた日は既に落ち、月の光が部屋に差す。敷布に次々と零れ落ちる涙は、まるで夜空の星の様だった。
それっぽいルビを振るのが楽しかったです




