前編
ーーーあぁ、もうこんな時間か
窓硝子から差し込んできた茜色の光を見て、高藤 優弥は納屋の片付けに熱中しすぎていた事に気付いた。埃で薄汚れた指先を、予め濡らしておいた手拭いで拭うと、あっという間に黒く染まった。
どうやら此処は自分が受け持つべきではなかった様だ。古書が多く収納された薄暗い納屋は、読書家である優弥にとって猫にまたたびを与えた様なもの。 珍しい書物が出てくる度につい掃除の手を止めてしまったのも数回どころではない。眼鏡を外し、硬くなった眉間を気休め程度に揉み解してみる。
優弥の下宿先である御陵寺伯爵家は、地元の名士である。古くは江戸時代から反物の商売で財を成し、その邸宅は一般市民であれば呆気にとられるほどの広さを誇る。
そのため、秋の深まってきた今時分から大掃除を始めるのである。毎年、下男よろしく優弥も片付けの人員として駆り出される。
来年には、もう此処に居ないのだけれど。
「優弥さん、此方に居らっしゃったの」
振り向かなくても判る声の主は、この家の一人娘である御陵寺 真梨子だ。
「お帰りなさい。映画は如何でしたか」
確か今日、彼女は女学校の友人と予定を入れていた筈だったと思い出し、挨拶に付け加えて尋ねると、彼女は長い髪を手で梳きながら満足そうに微笑んだ。
「とても面白かったわ。主演の役者さん、まだ無名の様だけれど今後人気が出るんじゃあないかしら。今度は優弥さんもご一緒して下さらない?」
「またご冗談を。あぁいった処は逢引で使うとしたものでしょう」
「なら今日の私達も恋人同士に見えたのかしらね」
あっけらかんと言い放たれて、つい吹き出してしまう。5つ程の歳の差があるが、それにも関わらず彼女にはどうも勝てない。出会った最初の日から、ずっと。
初めてこの屋敷に足を踏み入れたのは、4年前。郷里から伝を頼って、下宿人として迎え入れられることになり、辿り着いた門の前。
実家とのあまりの違いに足が竦み、衝動的にこのまま帰ってしまおうかという考えを浮かべた、その時だった。
ーーーこつん。
頭に何かが降ってきた。拾い上げてみると、それは女物の、そしてどうやら子供用の靴。
「ごめんなさい!!!」
見上げた先には、少女が居た。小花柄の洋装に身を包み、肩口で切り揃えた髪を二つに束ねている。いかにも勝気そうな眉の下の、きらきらと輝く大きな瞳が目を引いた。
彼女は慣れた様子でするすると、登っていた木から塀へ、そして優弥の目の前に下りてきた。ああいった服装は運動には不向きだと思うが、それにしても器用なものだと感心してしまう。
「お怪我はありませんか?」
「少し驚いただけ。何なら痛いのも忘れた位だよ、あまりにも君が上手くここまで下りてきたものだから」
率直に賛辞の言葉を口にすると、彼女は一瞬目をさらに丸くさせた後、子供らしいあどけない笑顔を見せた。
「木登りは得意ですのよ。これからの時代、女子でも木のひとつ位登れる様にならなくては」
堂々としたその姿と、先程怖気づいていた自分とをつい比べ、恥ずかしさが込み上げてきた。ふと、まだ彼女の靴を持っていたのを思い出し、慌てて履くのを手伝ってやる。
その少女がこの家の令嬢であることを知ったのは、すぐ後のことだった。
錠前がすっかり錆びてしまっている所為で、納屋の施錠には少しコツが要る。普通より時間が掛かったせいで、心ここに在らずという事を見抜かれてしまったらしい。
「何を考えていらっしゃるの?」
「真梨子さんと初めて会った日のことを。頭に靴をぶつけられて痛かったなぁ、と」
「…あの頃は御転婆だったんです」
「あの頃も、の間違いでは?」
どうやら本人も自覚はしているようで、言い返す言葉が見つからないのか、顔がさっと紅く染まる。深窓の令嬢の姿は何処へやら、今は見事な膨れっ面。
ともあれこのまま機嫌を損ねたままでいると後が大変だという事も重々承知しているので、母屋へと抜ける森を歩きながら僕は一計を案じた。
「映画、お付き合いしましょうか」
「珍しいのね、どういう風の吹き回し?」
「僕も春には此処を出ますからね、最後くらいは」
思ったままを口にしたのだが、それがどうやらいけなかったらしい。快活な彼女が珍しく押し黙る。
そうなると僕からも言葉を発するのが躊躇われて、暫くの間、辺りは黄金色の落ち葉を踏みしめるさくさくという音だけになった。
彼女が再び口を開いたのは、森の出口に差し掛かった頃だった。
「…確か、お国へ戻られるのよね?」
「えぇ、町役場の職に欠員が出たようで、そこに滑り込ませて頂く事に。此方でお世話になった時と同様、知人の縁故ですが」
「能力が無い者には機会自体巡って来ないわ。それだけの価値を高めた自分自身を誇りに思うべきよ」
昔からそうだが、彼女の言葉には迷いがない。これが伝統を重んじる旧家の血筋の為せる業なのだろうか。強い意志を湛えた瞳で見つめられると、まるで時が止まったかの様に動けなくなる。
しかし彼女の次の言葉に、僕は文字通り固まった。
「そして、そんな貴方を私はーーーお慕いしています」
初小説、左右も判らず書いてみました




