第九話 斬れない娘
戸が、ひとりでに動いた。
蝶番の錆が、長い夢から覚めるような音で鳴った。黒い両開きの戸が、内へ、ゆっくりと割れていく。誰も押していない。スズの拳は、まだ宙にあった。
隙間から、風が来た。
温かかった。湯を沸かした釜の蓋を取ったときのような、湿った温かさだった。風は、スズの顔を撫でて、髪を後ろへ流し、しばらくして、止まった。
それから、戻っていった。
戸の隙間へ、吸いこまれていく。スズの髪が、今度は前へ引かれた。
また、吹いてくる。温かく、ゆっくりと。そして、戻っていく。
スズは、膝をついたまま動けなかった。
岩壁一面の戸という戸の隙間が、同じ調子で鳴っていた。吹いて、止まって、吸って、止まる。昨日の朝、スズは、戸の向こうで誰かが息をしているような音だと思った。
ような、ではなかった。
膝の下の石が、かすかに持ち上がった。そして、下がった。石段も、杉の根も、岩壁も。山のすべてが、ひとつの胸のように、上がって、下がっていた。
戸の奥は、部屋ではなかった。
暗い土の道が、上へ続いていた。両側の土の壁が、息に合わせて、ほんのわずかにふくらみ、しぼむ。道の先は、朝の光で薄青く明るかった。
「……山が、息をしてる」
スズは、つぶやいた。
「封ではない」
後ろで、老人が言った。
振り向くと、老人は、草鞋を胸に抱いて立っていた。開いた戸の奥を、スズの肩ごしに見ていた。
「眠りだ」
低い声だった。
「起こすな」
祈るような声だった。
「……眠り」
スズは、老人の顔を見た。
「古き主が、八つに斬って、封じたって。封がほころびかけてるから、火の粉が降るって。長はそう言った」
「語りでは、そうなっとる」
「じゃあ、眠ってるのは、誰」
老人は、答えなかった。
スズは、開いた戸の奥を見上げた。頂は、ここからは見えない。封じられたものなら、封を直すか、封じられたものを斬れば終わる。だから、首を落とせと、長は言った。
眠っているものは、どうなのか。
眠っているものの首を落として、それで何が終わるのか。
里に降る火の粉は、目覚めかけたものが暴れる火だと聞かされてきた。眠っているものの、寝息なのか。寝返りなのか。
答えのかわりに、温かい風が、また戸の奥から吹いてきた。
◇
老人の足が、薄れていた。
裸足の骨ばった足の、指のほうから、朝の霧が陽に溶けていくように、石の目が透けて見えはじめていた。
「……じいちゃん」
腰の鞘の中から、子どもの声がした。スズは、剣を抜いた。鈴が鳴った。
刀身の中で、子どもが老人のほうへ身を乗り出していた。
「じいちゃん、きえちゃう」
「番が、終わったからな」
老人は、自分の足もとを見下ろした。驚いた顔はしていなかった。
「戸が開いた。もう、ここに座っとる理由がない」
「やだ」
子どもの声が、刃の中で高くなった。
「おねえちゃん、じいちゃんも。じいちゃんも、なかに入れて」
スズは、老人を見た。
老人は、首を振った。
「わしはいい」
「やだ。じいちゃんも」
「宿すな」
石段の下から、ナルカが上がってきていた。
「そいつは重いぞ。見ればわかる。長いこと、何かを抱えてきた顔だ。その子とは比べものにならん」
老人は、ナルカを見なかった。
老人は、スズの手の刀身を見ていた。子どもの顔ではなかった。子どもの横の、もう一つの顔を。
「……わしはいい」
老人は、もう一度言った。膝まで、透けていた。
スズは、刀身を見た。子どもが泣きそうな顔で、スズを見上げていた。姉は、老人から顔をそむけていた。
消えるのは、いやだ。
ゆうべ、自分が言ったことだった。スズは、剣を上げた。
「この人も、残す」
ナルカが、何か言いかけた。スズは聞かなかった。
老人は、目を閉じた。抗わなかった。抱いた草鞋を、胸に押しつけたまま、石段の上に立っていた。
刃を、当てた。なぞった。
老人の形が、暗くなり、光が刃を滑って上ってきた。
草鞋が、石段に落ちた。
◇
剣が、落ちた。
手の中から抜けたのではなかった。切っ先が、石を打っていた。握った柄ごと、腕が引き下ろされていた。
スズは、両手で柄を握り直した。持ち上げた。持ち上がった。けれど、手首が震えていた。一人ぶんではなかった。二人ぶんでも、なかった。
「……重い」
刀身を見た。
顔が、溶けていた。
姉の顔と、子どもの顔と、老人の顔。三つの顔の輪郭が、朝の水たまりに映った影のように、揺れて、ふちから混じり合っていた。どこまでが姉で、どこからが老人なのか、一瞬、わからなかった。
スズは、目をこすった。揺れが、少しおさまった。顔が三つ、並んでいた。
「……この爺さん、重い」
姉が言った。
顔をしかめて、刃の中で身を縮めていた。子どもは、老人の膝にしがみついて、うれしそうに顔をうずめていた。
「じいちゃん、ここ、あったかいでしょ」
「……ああ」
老人は、子どもの背に手を置いた。袖で包んだゆうべと、同じ手つきだった。
「これで三人だ」
ナルカが言った。
「まだ、一つ目の門だぞ」
スズは、答えられなかった。柄を握る手が、まだ震えていた。鞘に納めようとして、切っ先が鯉口に当たった。二度目で、ようやく納まった。鈴の音が、いつもより低く聞こえた。
スズは、もう一度抜いた。
刃の中で、老人が目を開けた。
老人は、子どもの頭を一度撫でてから、横を向いた。姉のほうを。
姉は、顔をそむけたままだった。
「やはり、あの時の娘か」
老人が言った。
姉の肩が、刃の中で、びくりと動いた。
「三年前にも、斬れない娘が来た」
「おねえちゃんのおねえちゃん、ここ、来たことあるの?」
子どもが、老人の膝から顔を上げた。
姉は、答えなかった。
◇
スズは、老人を見た。
「……三年前」
「ここまで登ってきた。その剣を下げてな」
老人は、姉から目を離さずに言った。
「あの子を斬りに来た、と言った。戸の前まで来て、あの子を見て、剣を下ろした。一晩、あの子のそばに座っとった。ひと言もしゃべらずにな。朝になって、山を下りていった」
「里へ戻って、見たとおりを言ったか」
ナルカが言った。姉を見ていた。
「それで、里は切り捨てを命じた。作法どおりだ」
責める声でも、憐れむ声でもなかった。何度も見てきたものを、また見ている声だった。
姉は、何も言わなかった。
言わなくても、スズにはわかった。
三年前の、秋だった。
お役目の剣を下げて、姉は山へ登った。長に言われて。ひとりで。次の日の夕方に、戻ってきた。
母の社の拝殿に、里の者が集まっていた。姉は、泥だらけの草鞋のまま、長の前に立った。スズは、いちばん後ろの柱のそばで、それを見ていた。十四だった。
姉は、首を落としてこなかった。
「あれは、子どもだ」
姉は、そう言った。
「一つ目の門にいたのは、子どもだった。母さんを待って、戸を叩いてた。火の子は、子どもだ。わたしには、斬れない」
拝殿が、しんとした。
長が、杖で床を打った。
「サヤは、火に呑まれた」
長は、姉の顔を見ずに、そう言った。里の者たちが、姉から一歩ずつ離れていった。火に呑まれた者は、火の言葉をしゃべる。火の子をかばう。だから、呑まれた者は、切り捨てる。天つ座の作法で。宿さずに。何も残さずに。
剣は、姉の手から、スズの手へ移された。
「おまえが、斬れ」
長は、そう言った。
社の裏の、杉の下だった。
姉は、膝をついて、目を閉じた。何か言うかと、スズは待った。姉は、何も言わなかった。長が、早くしろと言った。
鈴が鳴った。
スズは、姉を斬った。
姉は、痛いとは言わなかった。
刀身の中で、姉は、目を伏せていた。
スズは、開いた戸の前に立っていた。膝の下で、山がゆっくり息をしていた。
足もとに、大人の草鞋が落ちていた。片方だけ。縄をからめたまま。老人が、あの子の足に縛ってやっていた草鞋だった。
スズは、それを拾って、腰に結びつけた。重さは、ほとんどなかった。
あの子を見たとき、スズは、何と言ったか。
「子どもだ」
口に出してから、自分の声に驚いた。昨日の朝、この戸の前で。
同じ言葉だった。
三年前、姉が拝殿で言ったのと、一字も違わない言葉だった。
「……姉さんは」
スズの声は、かすれていた。
「この子を、見たの」
刃の中で、姉は、しばらく黙っていた。
それから、言った。
「見た」
温かい風が、開いた戸の奥から、また吹いてきた。
あれは子どもだ、と姉は言った。
三年前、スズは、その姉を斬った。




