第十話 草の海
土の道は、半日続いた。
両側の壁が、息に合わせてふくらみ、しぼむ。天井は低く、ところどころで木の根が垂れ下がっている。根の先から、温かい雫が落ちた。道は、ひたすら上っていた。
剣が、重かった。
腰に下げていると、鞘の先が、一歩ごとに腿の裏を打った。昨日までは打たなかった。スズは、剣を背に負い直した。背負うと、今度は肩に食いこんだ。
三人ぶん、とスズは思った。そう思うと、少しだけ持ちやすくなる気がした。気がしただけだった。
「じいちゃん、なまえ、なんていうの」
背中の鞘の中から、子どもの声がした。
「……トキワ」
老人の声が、くぐもって答えた。
「トキワじいちゃん」
「じいちゃんでいい」
「トキワじいちゃん」
子どもは、覚えたての言葉を転がすように、何度も繰り返した。老人は、それ以上言い返さなかった。
姉の声は、しなかった。
戸の前を発ってから、姉は、一度も口をきいていない。スズも、姉に話しかけていなかった。
話しかければ、聞かなければならなくなる。聞けば、姉は答えるかもしれない。三年前のことを。拝殿のことを。杉の下のことを。
スズは、黙って道を上った。
途中で一度、鞘の中で、老人の声がした。
「おまえさん」
姉に向けた声だった。
「あの時は——」
「話しかけないで」
姉の声が、老人の声を断ち切った。低くて、硬い声だった。スズが聞いたことのない声だった。
老人は、それきり黙った。子どもが、どうしたの、と聞いた。誰も答えなかった。
◇
土の道の先が、白く明るくなった。
出口だった。スズは、光に目を細めて、外へ踏み出した。
風が、顔に当たった。
草の匂いがした。
目の前に、草の海があった。
腰の高さまである、枯れ色の草が、見渡すかぎり続いていた。ゆるやかな斜面が、上へ、上へと広がって、遠くで空と溶けている。風が吹くたびに、草が一斉に同じ向きへ倒れ、起き上がる。倒れたところが白く光り、起き上がったところが暗く沈んで、そのたびに、光と影が波のように斜面を駆け上がっていく。
スズは、立ちつくした。
岩の戸の前は、杉と石ばかりだった。その上に、こんな野があるとは思わなかった。
鳥の声も、虫の声もしなかった。草の擦れる音だけが、遠くから寄せてきて、遠くへ引いていく。
ここも、息をしていた。
草の波の寄せ返しが、足の下のゆっくりとした上下と、同じ調子だった。
「……二つ目の門は、どこ」
「門の形をしているとは限らん」
後ろで、ナルカが言った。
「この野が、二つ目の門だ」
スズは、草の中へ歩き出した。
草は、固かった。茎が太く、節が多い。手で分けると、根もとに、古い茎が何層にも倒れ重なっていた。去年の草。その前の年の草。その前の、前の。倒れた茎は、土に還りかけて黒く湿り、その上から、また新しい茎が伸びている。
どれも、焼けていなかった。
スズは、しばらく、その根もとを見下ろしていた。
何か、おかしい気がした。何がおかしいのか、言葉にならなかった。
ところどころに、木が立っていた。ねじれた、背の低い木だった。幹は太く、皮がごつごつと厚い。百年や二百年では、こうはならない。スズは、一本の幹に手を当てた。樹皮は、乾いて、温かかった。どこにも、焦げた跡はなかった。
あの日、野が焼けた。
語りの節が、耳の奥で鳴った。七日七晩、野が焼けた。山の麓から、川の端まで。
子どものころ、スズの頭の中の「野」は、いつも黒かった。一面の灰と、焼け残った木の黒い杭。唱えるたびに、その野が浮かんだ。
目の前の野は、枯れ色で、風に波打って、光っていた。
あの野と、この野は、違う野なのだろう。スズは、そう思うことにした。山の麓から、川の端まで。語りの野は、麓のほうの野だ。ここは山の上だ。
そう思っても、手のひらの下の樹皮は、温かいままだった。
◇
野の真ん中あたりに、踏み固められた道があった。
道といっても、どこへも続いていなかった。草が、輪の形に倒れていた。大人が両腕を広げて十人並んだくらいの、大きな輪だった。輪の内側も外側も、背の高い草が立っている。輪の上だけが、土がむき出しになるまで踏みならされていた。しゃがんで触れると、土は石のように硬かった。
その輪の上を、子どもがひとり、歩いていた。
戸の前の子と、同じくらいの年に見えた。痩せて、髪が長い。ぼろ布を体に巻きつけて、うつむいて、歩いている。
左の足が、裸足だった。
足の裏が、熾火の色に光っていた。踏むたびに、踏んだ土の上に、かすかに赤い跡が残って、すぐに消えた。
「……いた」
スズは、輪のそばまで行って、足を止めた。
子どもは、スズを見なかった。輪の上を、同じ調子で歩き続けた。スズの前を通り過ぎ、輪の向こうへ回り、しばらくして、また戻ってきた。
「ねえ」
スズは、子どもが前を通るときに、声をかけた。
子どもは、止まらなかった。
「どこへ行くの」
「あっち」
子どもは、うつむいたまま、手だけで前を指した。指の先には、輪の続きがあるだけだった。
「あっちには、何があるの」
「母さん」
子どもは、そう言って、通り過ぎた。
スズは、輪を見渡した。どこから歩きはじめても、同じところに戻ってくる輪だった。
「その道は、輪になってる。どこにも着かない」
子どもが、また前を通った。
「とまったら、わからなくなるもん」
「何が」
「どっちが、あっちか」
それだけ言って、子どもは、また輪の向こうへ歩いていった。
背中の鞘の中で、子どもの声がした。戸の前の子だった。
「あの子、ぼくと、おんなじ」
「……おんなじ?」
「母さん、まってる」
スズは、答えなかった。
「あれが、左の足だ」
ナルカが、スズの横に立っていた。
「宿すなよ。三人でその重さだ。四人目で、おまえは膝をつく」
スズは、背中の剣の重さを感じていた。肩に食いこむ紐を、指で浮かせた。浮かせても、重さは変わらなかった。
「きのうの朝は一人。ゆうべは二人。今朝から三人だ」
ナルカは、指を折ってみせた。
「腕に聞け。一人目と、三人目と、同じ重さだったか」
同じではなかった。老人ひとりで、姉と子どもを合わせたよりも重かった。スズは、それを言わなかった。言わなくても、ナルカにはわかっているようだった。
◇
日が、傾きかけていた。
スズは、輪から少し離れた、ねじれた木の根もとに荷を下ろした。今夜は、ここで休むしかない。
干し飯を、少し噛んだ。戸の前で子どもの横に置いた干し飯は、あのまま石の上に残してきた。
輪の上の子どもにも、干し飯を持っていった。子どもが前を通るときに、差し出した。子どもは、止まらなかった。手も出さなかった。
「とまったら、わからなくなるもん」
同じことを言って、子どもは通り過ぎた。
夕日が低くなると、子どもの左足の赤が、昼より目立った。踏んだ跡に残る赤も、昼より少し長く残るようになった。足の指のふちが、かすかに透けていた。戸の前の子の、最初の朝と同じだった。
姉さんは、あの子を見た。
スズは、干し飯を噛みながら思った。見て、斬れないと言った。里へ戻って、そう言った。
その先を、スズは考えなかった。考える前に、干し飯を飲みこんだ。
剣を、背から下ろした。わずかに抜いた。
刀身に、顔が並んでいた。子どもと、老人と、姉。
三つの顔の輪郭は、朝よりは落ち着いていた。それでも、ときどき、ふちが揺れた。姉の髪が、老人の白髪に溶けこんで、どちらのものかわからなくなる。スズが瞬きをすると、また分かれる。
姉は、老人のいるほうとは反対の、刀身の端にいた。膝を抱えて、顔を伏せていた。
「姉さん」
スズは、言いかけて、やめた。
姉は、顔を上げなかった。
スズは、剣を納めた。立ち上がって、来た方を振り返った。
草の海の、ずっと下。斜面の果てに、黒い杉の森があり、その向こうに、小さな里が見えた。
里から、煙が上がっていた。
きのうの朝、戸の前から見た煙よりも、太かった。一本ではなかった。二本、三本。黒い煙が、夕方の空へ、まっすぐに昇っていた。
風が、草の海を駆け上がってきた。草が倒れ、起き上がる。その波の向こうで、里の煙だけが、揺れもせずに立っていた。
スズは、足もとの剣に手をやった。三人ぶんの重さが、そこにあった。里までの道のりと、頂までの道のりを、スズは測ろうとして、やめた。
輪の上では、子どもが、同じ調子で歩き続けていた。




