第十一話 慈悲
夜の野は、昼よりも明るかった。
月は出ていない。明るいのは、輪の上だった。子どもが歩いたあとに、赤い跡が残る。昼はすぐに消えた跡が、夜はなかなか消えなかった。子どもが輪を一周して戻ってくるころ、前の周の跡が、ようやく暗くなる。輪全体が、熾火を並べたように、ぼんやりと赤く光っていた。
スズは、ねじれた木の根もとに座って、それを見ていた。
眠れなかった。剣を膝に置いていると、膝が痺れた。脇に下ろすと、手が柄を探した。
草の中で、何かが動いた。
鹿だった。
大きな雄の鹿だった。角が、枯れ枝のように広がっている。草を分けて、ゆっくりと輪のほうへ歩いてくる。
足音がしなかった。
鹿の体は、白く、透けていた。向こうの草が、体ごしに見えた。
「……生きてる鹿じゃない」
「とうに死んでいる」
木の反対側で、ナルカの声がした。眠っていなかったらしい。
「年を取って、この野で倒れたんだろう。体は土に還った。魂だけが、まだ歩いている。この山には、ああいうのがいくらでもいる」
鹿は、輪のふちで足を止めた。首を下げて、赤く光る土の匂いを嗅いだ。
それから、輪の中へ、一歩踏みこんだ。
蹄が、赤い跡を踏んだ。
火が、移った。
白い脚に、赤い筋が走った。鹿が、首を跳ね上げた。声は出なかった。息の音さえ、しなかった。口だけが、叫ぶ形に開いた。赤い筋は、脚から腹へ、腹から背へ、見る間に這い上がっていった。鹿は、輪の上で跳ね、よろけ、草の中へ倒れこんだ。倒れても、脚は宙を掻き続けた。広がった角の先が、月のない空を、何度も突いた。
輪の上の子どもは、止まらなかった。歩き続けていた。
スズは、立ち上がっていた。剣の柄に手をかけた。
抜く前に、光った。
白い光が、夜を二つに割った。雷の音は、あとから来た。
ナルカが、鹿の前に立っていた。細身の剣を、振り下ろしたあとの形で、下げていた。刃のまわりで、小さな光が、ぱちり、ぱちりと弾けていた。
鹿は、いなかった。
倒れていた草のくぼみに、何もなかった。白い体も、赤い筋も、枯れ枝のような角も。灰ひとつ、煙ひとすじ残っていなかった。草のくぼみが、ゆっくりと起き上がって、元に戻った。
「……何も、残ってない」
「残さない。それが作法だ」
ナルカは、剣を鞘に納めた。鞘のまわりで、光が一つ弾けて、消えた。
「苦しみも、残らん。あの鹿は、もう焼かれない。痛いと思う暇もなかった」
ナルカは、剣の柄を、軽く叩いてみせた。
「そして、おれは少しも重くならん」
スズは、ナルカの剣を見た。細身の、飾りのない剣だった。ナルカは、それを、何も持っていないように腰に下げていた。
「これが、慈悲だ」
ナルカは言った。
「焼かれて苦しむものを、苦しみごと消してやる。誰も重くならない。誰も、潰れない。おまえの剣のように、斬った相手を中に溜めこんで、そいつの苦しみまで一緒に背負って歩く。それのどこが慈悲だ」
スズは、答えられなかった。
あの鹿が、刀身の中で、脚を掻き続けているところが浮かんだ。
「あの鹿は、何か言いたかったかもしれない」
「鹿は何も言わん」
ナルカは、鹿の消えたくぼみのほうを見もしなかった。
「言ったとしても、聞いてどうする。聞けば、おまえはまた一人ぶん重くなる」
くぼみのあたりの草は、もう、ほかの草と見分けがつかなかった。焦げた匂いすら、しなかった。
「作法は、難しくない」
ナルカは、少し声を落とした。
「刃を入れるときに、抱えないことだ。斬る相手を、自分の中へ迎えない。それだけだ。おまえの剣でも、できる。おまえの前の弟妹にも、教えた」
「覚えた?」
「誰も覚えなかった」
ナルカは、輪の上の子どもへ目をやった。
「みんな、抱えた。抱えて、潰れた」
スズは、輪の上の子どもを見た。子どもは、雷にも、消えた鹿にも、顔を上げなかった。
「あの子も、斬るの」
「おれには斬れん」
ナルカの声は、平らだった。
「あれは火の子の足だ。火の子を斬れるのは、おまえの剣だけだ。斬れるなら、とうにおれが斬っている。苦しまずにな」
だから、とナルカは言った。
「決めるのは、いつもおまえだ。妹」
◇
スズは、木の根もとに戻った。足が、重かった。剣を、わずかに抜いた。
刀身の中が、騒がしかった。
「かみなり、やだ」
子どもが、老人の胸に顔を押しつけていた。
「大丈夫だ。雷は、ここまでは来ん」
老人が、子どもの背中を、ゆっくり叩いていた。とん、とん。戸の前で、子どもが戸を叩いていたのと、同じ調子だった。
「来ないの?」
「来ん。わしが番をしとる」
「じいちゃん、もう番、おわったでしょ」
「……そうだったな」
老人は、それでも子どもの背中を叩くのをやめなかった。
「その子、こっちにおいで」
姉の声がした。
刀身の端から、姉が子どものほうへ顔を向けていた。老人に向けた声ではなかった。子どもだけを見ていた。
姉が、この柔らかい声で話すのを、戸の前を発ってから、スズははじめて聞いた。自分の肩から、力が抜けるのがわかった。
「爺さんの胸じゃ、骨が当たって痛いでしょう」
子どもは、老人の胸から顔を上げて、姉と老人を見比べた。
「……マチ」
姉が、言った。
「おいで、マチ」
「マチ?」
子どもが、首をかしげた。
「あんたの名前。待ってばっかりいるから、マチ」
「こいつは、トモリだ」
老人が言った。
「それは、門の名前でしょう」
姉は、老人を見なかった。
「門の名前で呼ぶのは、門の番だけでいい。この子は、もう門にいないんだから」
老人は、口を閉じた。
子どもは、しばらく、口の中で転がすように、その名を繰り返していた。マチ。マチ。それから、ぱっと顔を明るくして、姉のほうへ這っていった。
「マチ!」
「そう」
「ぼく、マチ!」
「わかったから、大きな声出さないの」
姉は、子どもを膝に抱えた。子どもは、姉の膝の上で、何度も自分の新しい名を言った。
老人は、空になった腕を、しばらく膝の上に置いていた。
「じいちゃんは、じいちゃんね」
姉の膝の上から、子どもが言った。老人は、ああ、とだけ答えて、黙って目を閉じた。
「おねえちゃん!」
子どもが、刀身の外のスズを見上げた。
「ぼく、マチだって!」
スズは、子どもを見た。
門の名でも、呼び名でもなく、ただ、子どもを見た。
「……よかったね」
スズは、そう言っただけだった。名は、呼ばなかった。
呼べば、何かが決まってしまう気がした。何が決まるのかは、わからなかった。
姉が、ちらりとスズを見た。何も言わなかった。
◇
夜が、更けた。
刀身の中が静かになった。子どもは姉の膝で眠り、老人は刀身の奥で目を閉じていた。姉も、目を閉じていた。眠っているのかどうかは、わからなかった。
スズは、剣を膝に置いて、座っていた。
重かった。
膝が、痺れていた。ここまでの道で、肩の皮がすりむけていた。剣を持ち上げるたびに、腕の筋が、ぎしりと鳴った。
刀身の像は、ときどき揺れた。眠っている三つの顔の輪郭が、寝息に合わせるように、ふちから混じり合い、また分かれた。
刃を入れるときに、抱えないことだ。
ナルカの声が、耳の奥に残っていた。
スズは、刀身の中の、老人の顔を見た。
一人で、姉と子どもを合わせたより重い。長いこと、何かを抱えてきた顔だ、とナルカは言った。何を抱えているのか、スズは知らない。老人も、言わない。
この一人ぶんがなければ、と、スズは思った。
思ってから、息が止まった。
手が、柄の上にあった。
握ってはいなかった。指が、柄巻きの上に、置かれているだけだった。抜こうとしているのでも、離そうとしているのでもなかった。
抱えずに斬れば、どこにも残らない。
三年前、長が斬れと言ったのも、この作法だった。宿さずに。何も残さずに。
ゆうべ、この老人は、額を石につけて、子どもを頼むと言った。今朝、自分はいいと言った。いいと言ったのを、スズが宿した。子どもに泣かれて。自分が、消えるのはいやだと思って。
だから、この重さは、スズが選んだ重さだった。
指が、柄巻きの上で、動かなかった。
輪の上では、子どもが歩いていた。夜通し、一度も止まらなかった。赤い跡が、夜の底で光っていた。さっき鹿が倒れた草のくぼみは、もう、どこだったかわからなかった。
何も残っていない。
スズは、柄の上の手を、見下ろしていた。
手は、夜が白むまで、そこから動かなかった。




