第十二話 灰を探す
夜が明けると、スズは柄から手を離した。
指が、木の根のようにこわばっていた。一本ずつ、ゆっくり開いた。柄巻きの跡が、指の腹に赤く残っていた。
抜かなかった。離しもしなかった。一晩、ただ置いていた手だった。
スズは、立ち上がった。荷を開けて、小刀を出した。出立の前に、与平が草鞋と一緒に置いていったものだった。畑の根を切るための、刃の厚い小刀だった。
ねじれた木の根もとに、膝をついた。
草の根を、小刀で切った。切った根の束を、両手で引き剥がした。その下の土に、小刀を突き立てた。
「何をしている」
ナルカの声がした。
「灰を探してる」
スズは、手を止めずに言った。
里の畑は、春先に焼く。去年の刈り株と枯れ草を焼いて、その灰を土に鋤きこむ。焼いた畑を掘ると、土の中に、黒い筋が出てくる。一年焼けば、一本。十年焼けば、十本。子どものころ、畑の端の崖で、姉と一緒にその筋を数えた。いちばん下の筋は、祖母の祖母が焼いた年のものだと、祖母が言った。
ところどころ、筋と筋のあいだが、広くあいているところがあった。
「ここは、焼かなかった年」
姉は、そこを指でなぞって言った。
「雨ばっかりで焼けなかったのか、焼かなくても土が肥えてたのか。どっちにしても、筋が一本もない年は、火のいらなかった年。いい年だったんだよ、きっと」
スズは、そのとき、筋のないところを数えるほうが好きになった。
七日七晩、野が焼けたのなら。
どんなに古くても、筋は残る。土は、焼けたことを忘れない。
「あの日、野が焼けた」
スズは、小刀で土をえぐりながら言った。
「語りが本当なら、ここにも筋がある」
「なかったら、どうする」
スズは、答えなかった。
木の根に立てかけておいた剣が、かたりと鳴った。刃が、鞘から少しだけ出ていた。
「……何を探してるの」
姉の声だった。
「灰」
スズが答えると、刀身の中で、姉の顔がこわばった。姉は、それきり何も聞かなかった。
◇
一つ目の穴は、腕の長さまで掘った。
いちばん上は、倒れた草が腐ってできた、黒くてやわらかい土だった。指で潰すと、湿った匂いがした。灰ではない。その下は、茶色い土。その下は、黄色がかった固い土で、小石が混じっていた。
黒い筋は、なかった。
スズは、穴のふちに座って、土を見下ろした。
一か所だけでは、わからない。
十歩離れて、二つ目の穴を掘った。三つ目は、輪の向こう側に。四つ目は、斜面の下のほうに。どの穴も、腕の長さまで掘った。小刀の刃が、石に当たって欠けた。欠けた刃で、掘り続けた。
黒い土。茶色い土。黄色い土。小石。
どの穴にも、筋はなかった。
「おねえちゃん、どろんこ」
剣の中から、子どもの声がした。刀身の中で、子どもが面白そうにこちらをのぞいていた。
「マチ。邪魔しないの」
姉の声がした。
姉は、子どもを膝に抱えたまま、スズの手もとを見ていた。黙って、見ていた。
老人は、刀身の奥にいた。目を閉じていた。スズが穴を掘りはじめてから、一度も目を開けていなかった。
「あなたは、知ってるんでしょう」
スズは、老人に言った。
「あの日のこと。ずっと、この山にいたんだから」
老人は、目を開けなかった。
「わしは、戸の番だ」
しばらくして、老人は言った。
「野のことは、知らん」
それきりだった。老人の組んだ両手が、白くなっていた。
ナルカは、少し離れた草の中に、腕を組んで立っていた。
「灰が見つかれば、語りは本当だ。見つからなければ、語りは嘘だ」
ナルカは言った。
「どちらでも、頂の火は、今夜も里に降る。おまえが穴を掘っているあいだにも」
「わかってる」
「わかっているなら、掘る理由を言え」
前にも、同じことを聞かれた。戸の前の夜に。
「語りが嘘だったとする」
ナルカは続けた。
「それで、おまえは頂の火を斬らないのか。里に降る火の粉は、嘘じゃない。与平とかいう男の家は、半分焼けた。語りが本当でも嘘でも、あれは、もう半分焼けている」
スズは、小刀を握った手を止めた。
ナルカの言うとおりだった。灰が見つかっても、見つからなくても、火の粉は降る。
それでも、スズは掘るのをやめなかった。何のためにやめないのか、自分でもわからなかった。
スズは、五つ目の穴に小刀を突き立てた。
◇
六つ目の穴の底で、小刀が、何か硬いものに当たった。
スズは、息を詰めた。指で、土を払った。
黒かった。
両手で、掘り出した。握りこぶしくらいの大きさの、黒い石だった。表面がなめらかで、どこも崩れなかった。灰でも、炭でもなかった。
石は、ひんやりと冷たかった。焼けた石なら、もっと脆い。スズは、しばらくそれを手のひらに載せていた。それから、穴のふちに置いた。
日が高くなった。
穴は、八つになっていた。
スズの爪は、土で黒く割れていた。小刀の刃は、三か所欠けていた。膝から下が、泥で固まっていた。
筋は、どこにもなかった。
ねじれた木の根もとの穴で、スズは、木の根の断ち口を見た。小刀で切った、太い根だった。断ち口に、細い輪が、幾重にも詰まって見えた。数えきれない輪だった。
どの輪も、途切れていなかった。どの輪も、黒く焦げていなかった。
「あの子と、おはなししたい」
刀身の中で、子どもが言った。刃のふちまで身を乗り出していた。
「ねえ! ぼく、マチ!」
輪の上の子どもは、顔を上げなかった。声が届いていないのか、届いていて止まらないのか、わからなかった。
「……きこえないのかな」
「あの子は、歩くので手いっぱいなのよ」
姉が、子どもの頭を撫でた。
子どもが、輪の上を歩いてきた。
左の足。赤い跡。昨日の夕方より、足の指の透けたところが、少し広がっていた。うつむいて、スズの掘った穴のそばを、通り過ぎていく。
「ねえ」
スズは、声をかけた。
「あの日のこと、知ってる?」
子どもは、止まらなかった。
「あの日」
「母殺しの日。七日七晩、野が焼けたって」
子どもは、輪の向こうへ回っていった。しばらくして、また戻ってきた。
スズの前を通るとき、子どもは、うつむいたまま言った。
「あの日も、ぼく、ここ、あるいてた」
声は、細かった。
「野は、もえなかった」
それだけ言って、子どもは通り過ぎた。
スズは、泥だらけの手を、膝の上に置いていた。
野は、燃えなかった。
あの日、野が焼けた。七日七晩。山の麓から、川の端まで。拝殿で、里の者みんなの声が、それを唱えてきた。祖母も、長も、ウメ婆も、スズも。子どものころ、姉は、その節のところで、いつもスズの手を強く握った。
語りが、嘘なら。
スズは、そこで考えるのをやめた。
やめようとした。
語りが嘘なら、古き主が火の子を八つに斬って封じたという話も、嘘かもしれない。火の子が母を殺したという話も。そして。
あれは子どもだ、と姉は言った。
姉は、正しかったのか。
スズは、立ち上がった。泥が、膝から剥がれて落ちた。
ここは、山の上だ。スズは、自分に言った。語りの野は、麓の野だ。山の麓から、川の端まで。ここは、麓ではない。だから、焼けていなくてもおかしくない。
昨日、同じことを考えた。昨日よりも、その考えは、薄っぺらく聞こえた。
◇
スズは、剣のほうを振り向いた。
刀身の中で、姉が、スズを見ていた。
まっすぐに、見ていた。目をそらさなかった。何かを待っている目だった。スズが何か言うのを。何かを聞くのを。
スズは、姉の目から、目をそらした。
「……麓の野を掘ってない」
口から出たのは、それだった。
「山を下りたら、麓を掘る。それまでは、わからない」
姉は、何も言わなかった。
しばらくして、姉は、膝の上の子どもに目を落とした。子どもの髪を、指で梳いた。
「……見つからないよ」
小さな声だった。スズに言ったのか、子どもに言ったのか、わからなかった。
「見つかるまで、掘る」
スズは言った。
小刀を拾った。欠けた刃を、しばらく見ていた。それから、九つ目の穴に、膝をついた。
ナルカは、何も言わなかった。
老人は、刀身の奥で、まだ目を閉じていた。閉じた瞼が、ときどき、ぴくりと動いた。
輪の上を、子どもが歩いていた。左の足が、赤い跡を残していった。
里のほうに、また煙が上がっていた。スズは、見なかった。見れば、手が止まる。
スズは、掘った。日が傾いても、掘った。
黒い土。茶色い土。黄色い土。小石。
灰は、出てこなかった。




