第十三話 倒れる
夜のうちに、輪の赤が濃くなった。
夜明けには、輪はもう、熾火を並べたようには見えなかった。一本の、赤く焼けた鉄の輪だった。子どもが踏んだ跡が、消えなくなっていた。前の周の跡の上を、次の周が踏み、その跡がまた重なる。赤は、輪の上に溜まっていく一方だった。
子どもの足が、遅くなっていた。
昨日までは、同じ調子で歩いていた。いまは、一歩ごとに、わずかに間があいた。踏み出した左の足が、地面に着くのをためらうように、宙で止まる。
左の足は、膝まで透けていた。
透けた脚の向こうに、赤い輪の土が見えた。脚そのものが、赤い土と見分けがつかなくなりかけていた。
子どもが、よろけた。
膝をつきかけて、草をつかんで、また立った。立って、歩き出した。
「とまったら、わからなくなる」
子どもは、誰にともなく言った。声が、昨日より細かった。
スズは、九つの穴のまんなかに立っていた。爪の割れた手が、剣の鞘を握っていた。
「あと一日か」
ナルカが言った。
「一日もたんかもしれん。燃えきれば、火の子は左の足を失う。頂のあれは、そのぶん軽くなる」
スズは、答えなかった。
「わかっているだろうが、言っておく」
ナルカは、スズの背中の剣を見た。
「四人目で、おまえは膝をつく」
スズは、剣を背から下ろした。手に持った。
持った腕が、下へ引かれた。三人ぶん。姉と、子どもと、老人。老人ひとりで、ほかの二人より重い。
刀身をのぞいた。
三つの顔が、並んでいた。ふちが、揺れていた。
姉が、スズを見ていた。昨日と同じ目だった。何かを待っている目。
子どもが、輪の上の子を見ていた。
「おねえちゃん。あの子、あっちに、いけないの?」
老人は、目を閉じていた。
「スズ」
姉が言った。
「四人目だよ」
止める声だった。行くな、と言った夜と、同じ声だった。
「わかってる」
「わかってない。あんた、剣を持ち上げるとき、息を止めてるでしょう。自分で気づいてないでしょう」
気づいていなかった。スズは、息を吐いた。吐いてから、また止めていることに気づいた。
スズは、刀身から目を離した。
◇
スズは、輪の中へ入った。
赤い土を踏まないように、跡と跡のあいだを選んで、子どもの横に並んだ。子どもは、スズを見なかった。スズも、何も言わずに、子どもと同じ速さで歩いた。
一周した。
輪の向こう側から見ると、来たほうの斜面が、下へ広がっていた。草の海。その果ての杉の森。その向こうに、里。里の煙は、今朝は三本だった。
もう一周した。
輪の手前に戻ってくると、上へ続く斜面が見えた。草の海が、遠くで岩に変わっている。その岩の向こうに、頂がある。頂から、細い煙が一本、昇っていた。
下と上。一周ごとに、両方が見える。
この子は、何周、これを見てきたのか。
「ねえ」
スズは言った。
「あっちって、どっち」
子どもは、うつむいたまま、歩いた。
「……母さんの、いるほう」
「母さんは、どっちにいるの」
子どもの足が、宙で止まった。
しばらく、止まっていた。それから、また地面に着いた。
「わからなくなった」
子どもは言った。
「ずっと前は、わかってた。歩いてたら、わからなくなった。とまったら、もっと、わからなくなる。だから、とまれない」
子どもの声は、泣いていなかった。泣き方を、とうに忘れたような声だった。
スズは、自分の足もとを見た。スズも、輪の上を歩いていた。止まれば、どっちが上か、わからなくなりそうだった。
スズは、上を見た。岩の向こうの、頂の煙を。
母が、そこにいるのかどうか、スズは知らない。語りでは、母は死んだ。火の子が殺した。けれど、この子は、母を探して歩いている。戸の前の子も、母を待って叩いていた。
どちらが本当なのか、スズにはわからなかった。
わかっているのは、一つだけだった。
「上だ」
スズは言った。
「わたしは、上へ行く。頂まで。あなたが、どっちかわからなくなっても、わたしが覚えてる。上だって」
子どもの足が、止まった。
「……おぼえてて、くれるの」
「覚えてる」
「とまっても?」
「とまっても」
子どもは、はじめて、顔を上げた。
細い顔だった。戸の前の子よりも頬がこけて、目だけが大きかった。その目が、スズを見て、それからスズの手の剣を見た。
「それで、斬るの」
「……うん」
「いたい?」
「いたくない」
戸の前の子と、同じことを聞くのだと、スズは思った。
子どもは、輪の上で、立ち止まっていた。止まった足もとから、赤が、ゆっくりと広がっていった。
「宿すな」
輪の外から、ナルカの声がした。
スズは、振り向かなかった。
足の裏が、熱かった。草鞋ごしに、輪の土の熱が上がってきていた。与平の編んだ草鞋の藁が、ちりちりと縮む匂いがした。
剣を、抜いた。鈴が鳴った。
腕が、重さで震えた。刃を、子どもの胸の前に当てた。なぞった。
子どもの形が暗くなり、光が、刃を滑って上ってきた。
◇
剣が、地面を打った。
握っていた。離していない。それなのに、切っ先が土に刺さっていた。柄を握った両手が、剣と一緒に、下へ引きずられていた。
スズは、持ち上げようとした。
持ち上がらなかった。
刀身を見た。
顔が、あった。いくつあるのか、わからなかった。
目があった。口があった。白い髪と、黒い髪と、短い髪と、長い髪があった。それが、どの顔のものなのか、わからなかった。一つの顔の目が、別の顔の口の上で瞬いていた。髪が、隣の頬に溶けていた。刀身いっぱいに、顔でないものが、顔のように揺れていた。
「——ズ」
「——いちゃん、——」
「——ここ、どこ——」
「——あっち——」
声が、重なっていた。誰の声なのか、わからなかった。姉の声と、老人の声と、子どもの声が、一本の縄のようによじれて、刀身の中で鳴っていた。
その中に、笑う声が混じっていた。あの子、きた、とはしゃぐ、戸の前の子の声だった。喜ぶ声と、呻く声が、同じ縄の中で鳴っていた。
膝が、折れた。
赤い輪の土が、目の前に来た。
頬が、土に当たった。熱くはなかった。輪の赤は、もう、少しずつ暗くなりはじめていた。
剣の柄から、手が離れなかった。離そうとしても、指が動かなかった。
空が、斜めに傾いていた。草が、横に生えていた。
頬の下の土に、草の根が見えた。倒れた茎が、何層にも重なっている。去年の草。その前の年の草。その前の、前の。黒く湿って、土に還りかけて。
焦げた茎は、一本もなかった。
「——ズ」
声が、した。
「スズ!」
姉の声だった。
縄のようによじれた声の中から、その声だけが、抜け出して聞こえた。
「スズ。スズ。聞こえる? スズ」
三年、毎晩聞いてきた声だった。
スズは、目だけを動かした。倒れた剣の、刀身が見えた。顔は、まだ揺れていた。どれが姉の顔なのか、わからなかった。
声だけが、姉だった。
「……姉さん」
「スズ」
「野は」
スズは、頬の下の草の根を見ていた。
「野は、焼けてない」
刀身の中が、静かになった。
「あの日、野は、焼けてない」
スズは言った。自分に言った。
九つの穴。どの穴にも、筋はなかった。ねじれた木の根の輪。どれも、焦げていなかった。この子は、あの日もここを歩いていた。野は燃えなかった、と言った。
「語りは、嘘だ」
口に出すと、体の下の地面が、ゆっくりと持ち上がって、下がった。山が、息をしていた。
刀身の中で、細い声がした。さっきまで輪の上を歩いていた、あの子の声だった。輪の上で聞いたときより、幼く聞こえた。
「……もえなかったよ」
眠そうな声だった。
「あの日、野は、もえなかった」
姉は、何も言わなかった。
ナルカが、輪の中へ入ってきた。スズの横に膝をついた。剣には、触れなかった。
「四人だ」
ナルカは言った。
「まだ、二つ目の門だぞ。妹」
ナルカは、スズの腕をつかんで、赤い輪の外へ引きずり出した。剣は、スズの手と一緒に、土の上を引きずられてきた。刃が、草を分けて、一本の筋を残した。
ナルカは、最後まで剣に触れなかった。
輪の上には、もう誰も歩いていなかった。踏む者のいなくなった赤い跡が、端のほうから、ゆっくりと暗くなっていった。ただの土の色に戻っていった。
スズは、答えなかった。答えられなかった。
瞼が、剣と同じくらい重かった。
目を閉じる前に、スズは、もう一度、姉の声を聞いた。
「スズ」
呼ぶ声だけだった。ほかには、何も言わなかった。




