第十四話 岩の手
目を開けると、夜だった。
ねじれた木の枝が、星を細かく区切っていた。背中の下に、草があった。誰かが、スズを木の根もとまで運んで、寝かせたらしかった。
右手が、まだ柄を握っていた。
指を離そうとした。離れなかった。一本ずつ、左の手でこじ開けた。指の関節が、錆びた蝶番のように鳴った。
剣は、スズの脇に横たわっていた。鞘に納まっていた。納めた覚えは、なかった。
「起きたか」
木の反対側で、ナルカの声がした。
「……あなたが、運んだの」
「おまえだけな」
剣には触れなかった、ということだった。納めたのは、誰なのか。スズは、聞かなかった。
刀身の中から、声が聞こえていた。
スズは、剣を少しだけ抜いた。重かった。鞘から一寸出すのに、息を一つ止めなければならなかった。
刀身に、顔が並んでいた。
四つ。姉と、老人と、戸の前の子と、野の子。昼に見た、顔でないものが揺れる刀身ではなかった。ふちは、ときどき溶けて隣と混じったが、目を凝らせば、四つに分かれた。
「スズ」
姉が言った。
「……うん」
「起きた」
姉は、それだけ言って、息を吐いた。長い息だった。それから、スズから目をそらした。
「アユ。ほら、起きたよ」
姉は、膝の上の子どもに言った。戸の前の子ではなかった。細い顔の、目の大きな子。野の子だった。
「アユ?」
「歩いてばっかりいたから、アユ」
姉は、スズのほうを見ずに言った。
「この子も、名前がないと不便でしょう」
野の子は、姉の膝の上で、ぼんやりと空を見ていた。刃の中に、空があるのかどうか、スズにはわからなかった。
「アユ、ここ、あったかいでしょ」
戸の前の子が、野の子の肩をつついた。
「……うん」
「ぼく、マチ。おなじ。母さん、まってた」
「……ぼく、あるいてた」
「おなじ」
戸の前の子は、うれしそうに言った。野の子は、しばらく考えてから、小さくうなずいた。
老人は、刀身の奥で、二人の子を見ていた。目を細めていた。何も言わなかった。
スズは、剣を納めた。
鈴が鳴った。いつもより、低い音だった。
◇
朝になって、スズは歩きだした。
歩きだす前に、長いこと、上を見ていた。
語りは、嘘だった。野は焼けていなかった。なら、火の子が母を殺したという話は、どうなのか。古き主が八つに斬ったという話は。
わからなかった。
わかっているのは、頂から火がこぼれて、里に降っているということだけだった。昨日も。今朝も。それは、嘘ではなかった。
頂に、何がいるのか。この目で見る。
斬るかどうかは、見てから決める。スズは、そう決めた。決めたと思った。
「帰れ」
背中の鞘の中で、老人の声がした。戸の前で聞いたのと同じ、しわがれた、よく通る声だった。
「まだ間に合う。ここから下りれば、夕方には戸まで着く」
「帰らない」
「帰れ。この上には、何もない」
「何もないなら、見てもいいでしょう」
老人は、黙った。
足が、重かった。剣を背に負うと、紐が昨日すりむけたところに食いこんだ。スズは、紐の下に、継いだ小袖の袖を折って挟んだ。機屋の女が継いだ、藍の濃い布だった。
草の海が、上のほうで痩せていった。草の丈が低くなり、まばらになり、あいだから灰色の岩がのぞいた。やがて、草は岩の割れ目にしがみつくだけになった。
岩の斜面だった。
大きな岩が、斜面いっぱいに転がっていた。人の背丈くらいのもの。家くらいのもの。どれも角が丸く、灰色で、ところどころ苔をまとっている。岩と岩のあいだを縫って、登るしかなかった。
岩は、温かかった。
手をつくと、日に当たっていない側まで、ほんのりと温かい。山が息をするたびに、岩と岩のあいだで、小石がかすかに鳴った。
スズは、岩に手をかけて、体を引き上げた。
背中で、剣が岩に当たった。重い音がした。
一つ目の岩を越えた。二つ目で、腕が震えた。三つ目の岩の上で、スズは膝をついて、しばらく動けなかった。
下を見ると、草の海が広がっていた。昨日倒れたあたりの輪が、ここからだと、ただの薄茶色の丸に見えた。その下の杉の森。さらに下に、里。
里は、戸の前から見たときよりも、ずっと小さかった。煙が、二本上がっていた。
「足が止まっているぞ」
ナルカが、隣の岩の上に立っていた。息ひとつ乱していなかった。
「わかってる」
「わかっているなら、歩け」
「歩いてる」
スズは、立ち上がった。四つ目の岩に、手をかけた。
◇
昼を過ぎたころ、岩の斜面の途中で、スズは足を止めた。
物音がしたのだった。
かり、かり。
小さな、固い音だった。石で石をひっかくような。
剣の柄に、手が伸びた。
抜こうとした。
剣が、鞘から出てこなかった。
引っかかっているのではなかった。鯉口は切れていた。ただ、刃が、ひどく重かった。水の底から、何かを引き上げるようだった。スズは、柄を両手で握り直して、引いた。刃が、少しずつ、ずるりと出てきた。半分まで抜いたところで、腕が止まった。
鈴が、鳴らなかった。
抜けば鳴る鈴だった。戸の前で、斬ることを拒んだときだけ、鳴らなかった。
いまは、斬ろうとしていない。抜こうとしているだけだった。
「……どうしたの」
スズは、刀身に向かって言った。
「重いのよ」
姉が言った。
「あんたが重いんじゃない。剣が、重いの」
「何が違うの」
「わからない。でも、違う」
姉の顔は、四つの顔のあいだで、ふちがかすかに揺れていた。
スズは、半分抜いた剣を、そのまま鞘に戻した。今度は、すっと納まった。鈴が、小さく鳴った。
出るのは渋り、戻るのは素直だった。
かり、かり。
音は、上の岩のほうからだった。
スズは、剣を抜かずに、音のするほうへ登った。
◇
大きな岩だった。
ほかの岩の倍はあった。灰色で、丸くて、苔は生えていなかった。表面が、なめらかではなかった。細い線が、一面に刻まれていた。
線は、何かの形をしていた。けれど、あまりに多くの線が、重なって刻まれていて、何の形なのか、見分けられなかった。古い線の上に新しい線が、その上にまた新しい線が。岩の表面が、線で埋めつくされて、ざらざらに毛羽立っていた。
その岩の、スズの胸の高さのところから、手が一本、突き出ていた。
小さな手だった。
戸の前の子の手と、同じくらいの大きさだった。手首から先だけが、岩から生えていた。手首から後ろは、岩の中にあった。岩の割れ目もなかった。手が、岩の一部のように、そこから出ていた。
右の手だった。
手の甲が、熾火の色に光っていた。指の先まで、赤かった。
その人差し指の爪が、岩の表面を、ひっかいていた。
かり、かり。
爪が線を引く。岩の粉が、ぱらぱらと落ちる。線が、一本増える。手は、止まらなかった。線を引き終えると、すぐ隣に、また爪を当てた。かり、かり。
爪は、すり減っていた。爪の先が、割れて、ぎざぎざになっていた。それでも、手は、刻み続けていた。
「……三つ目だ」
後ろで、ナルカが言った。
「あれが、右の手だ」
「……手だけ」
背中の鞘の中で、戸の前の子の声がした。
「あの子、手だけしか、ないの」
「岩の中に、あるのよ。残りは」
姉の声が答えた。答えてから、姉は黙った。自分の言ったことに、自分で驚いたような黙り方だった。
スズは、岩に近づいた。
「ねえ」
手に、声をかけた。手は、止まらなかった。かり、かり。
スズは、刻まれた線に、指で触れた。岩は、温かかった。線の溝に、指先が沈んだ。ひときわ深い溝が、一本あった。上から下へ、まっすぐに、長く。岩の上のほうから、手の近くまで。何度も、何度も、なぞって刻んだ線だった。
何の線なのか、スズにはわからなかった。
「斬ってどかせ」
ナルカが言った。
「それが一番早い。どうせ、その岩を越えなければ先へは行けん」
スズは、岩の前に立っていた。
岩の上を越える道は、なかった。左右は、さらに大きな岩が積み重なって、壁になっていた。ここを通るには、この岩を越えるか、この岩をどかすしかなかった。
どかすなら、斬るしかない。
スズは、背中の剣に手をやった。
柄に触れただけで、腕の奥が、ずしりと重くなった。
かり、かり。
手は、スズのほうを向かなかった。岩に、何かを刻み続けていた。何を刻んでいるのか、スズには、まだわからなかった。
スズは、柄に手を置いたまま、動けなかった。
日が、岩の向こうへ傾きはじめた。
かり、かり。
小さな爪の音だけが、岩の斜面に響いていた。




