第十五話 剣の夢
夜になっても、手は刻むのをやめなかった。
スズは、岩の前に腰を下ろしていた。剣は、膝の上に横たえていた。抜かなかった。抜こうとすれば、また渋る気がした。
夕方、ナルカは、斬ってどかせと三度言った。スズは、三度とも答えなかった。
斬れば、この手は刀身の中に来る。五人目になる。野で倒れたときの、顔でないものが揺れる刀身を、スズは覚えていた。
斬らなければ、先へ行けない。
どちらも選べないまま、日が沈んだ。
かり、かり。
岩の斜面には、ほかに明かりがなかった。月は、今夜も出ていない。山の息に合わせて、岩と岩のあいだで小石が鳴る。遠い頂が、ときどき赤く膨らんで、しぼむ。そのたびに、岩の影が、斜面の上で伸び縮みした。
手の甲の赤い光が、岩の表面を照らしていた。光の届くところだけ、刻まれた線が浮かび上がって見えた。昼は、線が多すぎて、何も見えなかった。夜は、光の届く狭いところしか見えない。狭いところだけなら、線を一本ずつ追えた。
スズは、手のすぐそばの、いちばん新しい線を見た。
長い線が一本、上から下へ、まっすぐ引かれていた。昼に指でなぞった、あの深い溝と同じ形だった。線の上の端に、短い横棒が一本。その上に、小さな丸が一つ。
長い線の下の端に、小さなものが刻まれていた。
五本の、短い線だった。扇のように開いて、上を向いていた。
手だった。
小さな手が、上から降りてくる長い線に向かって、指を開いていた。
スズは、その隣を見た。同じ絵があった。長い線。横棒。丸。その下に、開いた手。
その隣にも。その上にも。重なって、少しずつずれて、同じ絵が、岩の表面を埋めつくしていた。昼に見た毛羽立ちは、全部、この絵だった。何百。何千。数えることは、できなかった。
かり、かり。
手は、いま、また一本、長い線を引いていた。
スズは、膝の上の剣を見た。
鞘。鍔。柄。柄の先の、小さな鈴。
長い線。横棒。丸。
スズは、剣から目をそらした。
「……剣だな」
ナルカが、岩の横に立っていた。刻まれた絵を、黙って見ていた。しばらくして、それだけ言った。
「剣と、手だ」
「あなたは、知ってるの」
スズは、ナルカを見上げた。
「あの日のこと。あなたは、あの日、この剣の血から生まれたって言った」
「生まれたばかりの赤子が、何を覚えている」
ナルカの声は、平らだった。
「おまえは、自分の生まれた日のことを覚えているか」
スズは、答えられなかった。
ナルカは、それ以上は言わなかった。スズの膝の剣を見て、岩の絵を見て、また剣を見た。それから、少し離れた岩の陰へ行って、腰を下ろした。
スズは、絵を見ていた。
降りてくる刃。それに向かって、開いた手。
払いのけようとしているのではなかった。受け止めようとしているのでもなかった。指が開いている。手のひらが、上を向いている。
何かを、もらおうとする手の形だった。
赤子が、母の顔に向かって手を伸ばすときの、形だった。
背中の鞘の中で、子どもたちの声がした。
「あの手、ずっと、かいてる」
野の子の声だった。野を出てから、この子が自分から何か言ったのは、はじめてだった。
「ぼくも、ずっと、たたいてた」
戸の前の子が言った。
「おなじ」
野の子は、少し考えてから、うん、と言った。
◇
いつのまにか、眠っていた。
目を覚ましたのは、声のせいだった。
「——いや」
刀身の中から、声がしていた。
「——いや、やめて、そっちへ——」
姉の声だった。
スズは、跳ね起きた。剣を、抜こうとした。渋った。両手で引いた。刃が、ずるりと半分出た。
刀身の中で、姉がうなされていた。
目を閉じて、身をよじっていた。膝の上から、二人の子が転げ落ちていた。老人が、姉の肩に手を伸ばしかけて、止めていた。
「姉さん」
スズは、刀身に顔を寄せた。
「姉さん。起きて」
姉の目が、開いた。
しばらく、姉はどこも見ていなかった。刃の中の、どこか遠くを見ていた。それから、ゆっくりと、スズに焦点が合った。
「……スズ」
「うなされてた」
「……夢」
姉は、両手で顔を覆った。
「夢を見た」
「どんな」
姉は、しばらく答えなかった。
「……火の中にいた」
手の隙間から、姉は言った。
「あたり一面、火だった。野も、空も、全部。わたしは、高いところにいて、下を見てた。下に、赤ちゃんがいた」
かり、かり。岩の手が、刻んでいた。
「燃えてた。赤ちゃんが。体じゅう、火でできてるみたいに。泣いてなかった。泣かないで、上を見てた。わたしのほうを」
姉の声が、かすれた。
「わたし、落ちていくの。上から、その子に向かって。止まれなくて。止まりたいのに、誰かに振り下ろされて——」
姉は、そこで言葉を切った。
「わたしじゃなかった。わたしは、刃だった」
スズは、息を止めていた。
「剣の夢よ」
姉は、顔から手を離した。
「わたしの夢じゃない。剣が、覚えてることを、見たの。剣の中にいると、ときどき、そういうのが、流れてくる。三年いて、こんなにはっきりしたのは、はじめて」
「……その赤ちゃんは」
「手を、伸ばしてきた」
姉は、岩のほうを見た。刀身の中から、岩の絵が見えるのかどうか、スズにはわからなかった。
「落ちてくる刃に、手を伸ばしてきた。逃げないで。こっちに。わたしに」
かり、かり。
「それで、どうなったの」
「わからない。そこで、目が覚めた」
「……三年前も、見たの。この夢」
「見なかった」
姉は、首を振った。
「ここまで、来なかったから」
戸の前で、姉は引き返した。この岩の手を、姉は見ていない。
姉は、転げ落ちた子どもたちのほうへ手を伸ばした。戸の前の子が、姉の袖にしがみついた。野の子は、姉と老人のあいだで、ぼんやりと座っていた。
老人が、刀身の奥で、姉を見ていた。
目を見開いていた。組んだ両手が、離れていた。何か言いかけた口が、開いたまま、止まっていた。
「……あんた、何か知ってるの」
姉が、老人を見返した。戸の前を発ってから、姉が老人に自分から口をきいたのは、はじめてだった。
老人は、口を閉じた。首を振った。
それきりだった。
◇
刀身の中が、静まった。
スズは、半分抜いた剣を、手に持ったままでいた。重かった。重いのに、鞘に戻せなかった。
そのとき、声がした。
「……かえしたい」
刀身の中からだった。
姉の声ではなかった。老人でも、二人の子でもなかった。聞いたことのない声だった。男とも女とも、子どもとも大人ともつかなかった。刃の、ずっと奥のほう。四つの顔の、さらに向こう。鋼の底のようなところから、細く、響いてきた。
「かえしたい」
もう一度、同じことを言った。
戸の前の子が、姉の袖の中に顔を埋めた。
「いまの、だれ?」
誰も答えなかった。
姉は、刀身の奥のほうを、じっと見ていた。見えないものを見ようとする目だった。老人は、また目を閉じていた。固く。瞼が、震えていた。
「……まだ、そこにおったか」
老人の唇が、そう動いたように見えた。声は、ほとんど聞こえなかった。スズが聞き返す前に、老人は唇を結んだ。
「……聞こえた?」
スズは、姉に聞いた。
「聞こえた」
「何を、返したいの」
「わからない」
「誰に」
「わからない」
返したい。
スズは、その言葉を、口の中で繰り返した。
三年前、姉を斬った夜から、何度も思ったことがあった。返してほしい、と。誰に言えばいいのかもわからないまま。姉を、あの杉の下の、目を閉じる前の姉に、返してほしいと。
剣も、何かを返してほしいのだろうか。それとも、剣が、何かを返したいのだろうか。
姉は、刀身の奥から目を離さなかった。
「でも、剣の声よ。さっきの夢と、同じところから来た」
スズは、手の中の剣を見た。
三年、この剣を振ってきた。火の粉を斬った。家に燃え移る火を斬った。姉を斬った。この剣が、何かを言うのを、聞いたことはなかった。
かり、かり。
音が、止まった。
スズは、岩を見た。
岩から突き出た小さな手が、刻むのをやめていた。すり減った爪を、岩から離していた。
手が、ゆっくりと、向きを変えた。
手首が回って、手のひらが、こちらを向いた。岩の絵と同じ形に、五本の指が、開いた。
スズの手の、剣のほうへ。
手の甲の赤い光が、刀身に映った。四つの顔の上を、赤が、ゆっくりと撫でていった。
剣の奥で、何かが、かすかに鳴った。鈴ではなかった。張りつめた弦を、指で弾いたような音だった。




