↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【完結】―火を斬る少女―  作者: 甕星 慶(ミカボシケイ)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
15/40

第十五話 剣の夢

 夜になっても、手は刻むのをやめなかった。


 スズは、岩の前に腰を下ろしていた。剣は、膝の上に横たえていた。抜かなかった。抜こうとすれば、また渋る気がした。


 夕方、ナルカは、斬ってどかせと三度言った。スズは、三度とも答えなかった。


 斬れば、この手は刀身の中に来る。五人目になる。野で倒れたときの、顔でないものが揺れる刀身を、スズは覚えていた。


 斬らなければ、先へ行けない。


 どちらも選べないまま、日が沈んだ。


 かり、かり。


 岩の斜面には、ほかに明かりがなかった。月は、今夜も出ていない。山の息に合わせて、岩と岩のあいだで小石が鳴る。遠い頂(いただき)が、ときどき赤く膨(ふく)らんで、しぼむ。そのたびに、岩の影が、斜面の上で伸び縮みした。


 手の甲の赤い光が、岩の表面を照らしていた。光の届くところだけ、刻まれた線が浮かび上がって見えた。昼は、線が多すぎて、何も見えなかった。夜は、光の届く狭いところしか見えない。狭いところだけなら、線を一本ずつ追えた。


 スズは、手のすぐそばの、いちばん新しい線を見た。


 長い線が一本、上から下へ、まっすぐ引かれていた。昼に指でなぞった、あの深い溝と同じ形だった。線の上の端に、短い横棒が一本。その上に、小さな丸が一つ。


 長い線の下の端に、小さなものが刻まれていた。


 五本の、短い線だった。扇のように開いて、上を向いていた。


 手だった。


 小さな手が、上から降りてくる長い線に向かって、指を開いていた。


 スズは、その隣を見た。同じ絵があった。長い線。横棒。丸。その下に、開いた手。


 その隣にも。その上にも。重なって、少しずつずれて、同じ絵が、岩の表面を埋めつくしていた。昼に見た毛羽立ちは、全部、この絵だった。何百。何千。数えることは、できなかった。


 かり、かり。


 手は、いま、また一本、長い線を引いていた。


 スズは、膝の上の剣を見た。


 鞘(さや)。鍔(つば)。柄(つか)。柄の先の、小さな鈴。


 長い線。横棒。丸。


 スズは、剣から目をそらした。


「……剣だな」


 ナルカが、岩の横に立っていた。刻まれた絵を、黙って見ていた。しばらくして、それだけ言った。


「剣と、手だ」


「あなたは、知ってるの」


 スズは、ナルカを見上げた。


「あの日のこと。あなたは、あの日、この剣の血から生まれたって言った」


「生まれたばかりの赤子(あかご)が、何を覚えている」


 ナルカの声は、平らだった。


「おまえは、自分の生まれた日のことを覚えているか」


 スズは、答えられなかった。


 ナルカは、それ以上は言わなかった。スズの膝の剣を見て、岩の絵を見て、また剣を見た。それから、少し離れた岩の陰へ行って、腰を下ろした。


 スズは、絵を見ていた。


 降りてくる刃。それに向かって、開いた手。


 払いのけようとしているのではなかった。受け止めようとしているのでもなかった。指が開いている。手のひらが、上を向いている。


 何かを、もらおうとする手の形だった。


 赤子が、母の顔に向かって手を伸ばすときの、形だった。


 背中の鞘の中で、子どもたちの声がした。


「あの手、ずっと、かいてる」


 野の子の声だった。野を出てから、この子が自分から何か言ったのは、はじめてだった。


「ぼくも、ずっと、たたいてた」


 戸の前の子が言った。


「おなじ」


 野の子は、少し考えてから、うん、と言った。



    ◇



 いつのまにか、眠っていた。


 目を覚ましたのは、声のせいだった。


「——いや」


 刀身の中から、声がしていた。


「——いや、やめて、そっちへ——」


 姉の声だった。


 スズは、跳ね起きた。剣を、抜こうとした。渋った。両手で引いた。刃が、ずるりと半分出た。


 刀身の中で、姉がうなされていた。


 目を閉じて、身をよじっていた。膝の上から、二人の子が転げ落ちていた。老人が、姉の肩に手を伸ばしかけて、止めていた。


「姉さん」


 スズは、刀身に顔を寄せた。


「姉さん。起きて」


 姉の目が、開いた。


 しばらく、姉はどこも見ていなかった。刃の中の、どこか遠くを見ていた。それから、ゆっくりと、スズに焦点が合った。


「……スズ」


「うなされてた」


「……夢」


 姉は、両手で顔を覆(おお)った。


「夢を見た」


「どんな」


 姉は、しばらく答えなかった。


「……火の中にいた」


 手の隙間(すきま)から、姉は言った。


「あたり一面、火だった。野も、空も、全部。わたしは、高いところにいて、下を見てた。下に、赤ちゃんがいた」


 かり、かり。岩の手が、刻んでいた。


「燃えてた。赤ちゃんが。体じゅう、火でできてるみたいに。泣いてなかった。泣かないで、上を見てた。わたしのほうを」


 姉の声が、かすれた。


「わたし、落ちていくの。上から、その子に向かって。止まれなくて。止まりたいのに、誰かに振り下ろされて——」


 姉は、そこで言葉を切った。


「わたしじゃなかった。わたしは、刃だった」


 スズは、息を止めていた。


「剣の夢よ」


 姉は、顔から手を離した。


「わたしの夢じゃない。剣が、覚えてることを、見たの。剣の中にいると、ときどき、そういうのが、流れてくる。三年いて、こんなにはっきりしたのは、はじめて」


「……その赤ちゃんは」


「手を、伸ばしてきた」


 姉は、岩のほうを見た。刀身の中から、岩の絵が見えるのかどうか、スズにはわからなかった。


「落ちてくる刃に、手を伸ばしてきた。逃げないで。こっちに。わたしに」


 かり、かり。


「それで、どうなったの」


「わからない。そこで、目が覚めた」


「……三年前も、見たの。この夢」


「見なかった」


 姉は、首を振った。


「ここまで、来なかったから」


 戸の前で、姉は引き返した。この岩の手を、姉は見ていない。


 姉は、転げ落ちた子どもたちのほうへ手を伸ばした。戸の前の子が、姉の袖にしがみついた。野の子は、姉と老人のあいだで、ぼんやりと座っていた。


 老人が、刀身の奥で、姉を見ていた。


 目を見開いていた。組んだ両手が、離れていた。何か言いかけた口が、開いたまま、止まっていた。


「……あんた、何か知ってるの」


 姉が、老人を見返した。戸の前を発ってから、姉が老人に自分から口をきいたのは、はじめてだった。


 老人は、口を閉じた。首を振った。


 それきりだった。



    ◇



 刀身の中が、静まった。


 スズは、半分抜いた剣を、手に持ったままでいた。重かった。重いのに、鞘に戻せなかった。


 そのとき、声がした。


「……かえしたい」


 刀身の中からだった。


 姉の声ではなかった。老人でも、二人の子でもなかった。聞いたことのない声だった。男とも女とも、子どもとも大人ともつかなかった。刃の、ずっと奥のほう。四つの顔の、さらに向こう。鋼の底のようなところから、細く、響いてきた。


「かえしたい」


 もう一度、同じことを言った。


 戸の前の子が、姉の袖の中に顔を埋めた。


「いまの、だれ?」


 誰も答えなかった。


 姉は、刀身の奥のほうを、じっと見ていた。見えないものを見ようとする目だった。老人は、また目を閉じていた。固く。瞼(まぶた)が、震えていた。


「……まだ、そこにおったか」


 老人の唇が、そう動いたように見えた。声は、ほとんど聞こえなかった。スズが聞き返す前に、老人は唇を結んだ。


「……聞こえた?」


 スズは、姉に聞いた。


「聞こえた」


「何を、返したいの」


「わからない」


「誰に」


「わからない」


 返したい。


 スズは、その言葉を、口の中で繰り返した。


 三年前、姉を斬った夜から、何度も思ったことがあった。返してほしい、と。誰に言えばいいのかもわからないまま。姉を、あの杉の下の、目を閉じる前の姉に、返してほしいと。


 剣も、何かを返してほしいのだろうか。それとも、剣が、何かを返したいのだろうか。


 姉は、刀身の奥から目を離さなかった。


「でも、剣の声よ。さっきの夢と、同じところから来た」


 スズは、手の中の剣を見た。


 三年、この剣を振ってきた。火の粉を斬った。家に燃え移る火を斬った。姉を斬った。この剣が、何かを言うのを、聞いたことはなかった。


 かり、かり。


 音が、止まった。


 スズは、岩を見た。


 岩から突き出た小さな手が、刻むのをやめていた。すり減った爪を、岩から離していた。


 手が、ゆっくりと、向きを変えた。


 手首が回って、手のひらが、こちらを向いた。岩の絵と同じ形に、五本の指が、開いた。


 スズの手の、剣のほうへ。


 手の甲の赤い光が、刀身に映った。四つの顔の上を、赤が、ゆっくりと撫でていった。


 剣の奥で、何かが、かすかに鳴った。鈴ではなかった。張りつめた弦(つる)を、指で弾いたような音だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。