第十六話 なまくら
夜明けまで、手は開いたままだった。
岩から突き出た小さな手が、手のひらをこちらへ向けて、五本の指を開いていた。スズは、半分抜いた剣を膝の上に置いたまま、その手を見ていた。手は、動かなかった。刻みもしなかった。ただ、開いていた。
東の空が白むと、手は、ゆっくりと向きを戻した。
すり減った爪が、また岩に当たった。
かり、かり。
スズは、息を吐いた。一晩、ほとんど息をしていなかった気がした。
「決めたか」
ナルカが、岩の陰から出てきた。
スズは、答えなかった。
「決めていないなら、決めてやる」
ナルカは、スズの前に立った。見下ろしていた。朝の光が、背中から差していて、顔がよく見えなかった。
「その剣は、一度しくじった」
スズは、顔を上げた。
「あの日、古き主は、その剣で火の子を斬った。斬ったはずだった。それで終わるはずだった。終わっていれば、火の子はいまごろ、どこにもいない。火も降らない。おまえの里も焼けない」
ナルカは、岩の絵を見た。降りてくる刃。開いた手。
「終わっていない。だから、火が降る。その剣が、しくじったからだ」
「……何を、しくじったの」
「知らん。だが、しくじった剣は、またしくじる」
ナルカの目が、スズの膝の剣に落ちた。
「頂でも、しくじる。おまえが持つかぎり」
「どうして」
「おまえが、その剣と同じ顔をしているからだ」
ナルカは言った。
「斬る前に迷う。斬っても、抱える。抱えて、重くなって、次に抜くときにまた迷う。一晩、あの手を見ていたな。夜のあいだに、里にいくつ火が落ちたか、数えたか」
スズは、数えていなかった。里のほうを、一度も見なかった。
スズは、振り返った。
岩の斜面の、ずっと下。草の海と、杉の森の向こう。里は、もう指先に載るくらいの大きさだった。煙が、四本上がっていた。昨日より、二本多かった。そのうちの一本は、里の真ん中から上がっていた。
母の社のあたりだった。
スズは、目をそらした。
「情けをかけるたびに、刃は鈍る。鈍った刃は、何も斬れん。なまくらだ」
「なまくらじゃない」
「なら、見せろ」
ナルカが、腰の剣を抜いた。
細身の刃のまわりで、光が、ぱちりと弾けた。
「抜け。その剣が、まだ斬れる剣かどうか、おれが見てやる」
◇
スズは、立ち上がった。
半分抜いたままの剣を、握り直した。両手で、引いた。刃が、ずるりと残りの半分を出した。腕が、下へ引かれた。四人ぶん。切っ先が、膝の高さまで下がった。
鈴は、鳴らなかった。
「やめて」
刀身の中で、姉が言った。
「スズ、やめて。あの人と、やり合っちゃだめ」
「斬らない」
「そういうことじゃない。あんた、いまその剣、振れないでしょう」
スズは、答えなかった。
ナルカが、踏みこんできた。
速かった。光が、弧を描いた。スズは、切っ先を上げた。上がりきらなかった。刃と刃が、胸の前でぶつかった。
雷が鳴った。
腕が、肩まで痺れた。足が、岩の上を半歩すべった。刀身の中で、子どもたちが悲鳴を上げた。
「かみなり、やだ!」
「マチ、こっち!」
姉の声が、子どもの悲鳴に重なった。老人の声が、何か低く言っていた。声が混じった。誰が何を言っているのか、わからなくなった。
ナルカの刃が、離れた。
スズは、足を踏み直した。岩の上は、丸くて、足場が悪かった。草鞋の底が、焦げて薄くなっていた。
剣の重さが、腕ではなく、腰に来た。スズは、腕で持ち上げるのをやめた。腰を落として、重さを、足もとの岩に預けた。
ナルカが、また来た。
スズは、剣を振らなかった。重さに任せて、刃を横へ倒した。倒れる刃が、ナルカの刃の軌道の上に、壁のように立った。ぶつかった。雷が鳴った。今度は、足がすべらなかった。
「……ほう」
ナルカが、わずかに目を細めた。
すぐに、また来た。今度は、横から。スズは、剣を立てて受けた。受けた刃が、重さで下へ流れた。ナルカの刃が、その上をすべって、スズの肩口で止まった。
止まった。
ナルカの刃は、スズの肩の布に、触れるか触れないかのところで、止まっていた。刃のまわりで、光が弾けて、継いだ袖の藍の布を、焦がさずに照らしていた。
「遅い」
ナルカは言った。
「いまので、おまえは三度死んでいる」
スズは、息を吸った。
肩の刃を、剣で払った。払ったというより、重さで押しのけた。ナルカは、逆らわずに退いた。
スズは、剣を振りかぶった。
上がった。両腕が震えた。それでも、上がった。頭の上で、切っ先が朝の空を指した。
ナルカは、構えていなかった。細身の剣を、下げたままだった。脇腹が、あいていた。
振り下ろせば、届く。
スズの腕が、止まった。
振りかぶったまま、止まった。刃は、頭の上にあった。重さで、腕がきしんだ。
三年前、杉の下で、スズは同じように振りかぶった。姉は、膝をついて、目を閉じていた。長が、早くしろと言った。
あのとき、スズの腕は止まらなかった。
「なぜ止めた」
ナルカが言った。
「振り下ろせば、届いた」
「……斬る理由が、ない」
「理由がなければ、斬らんのか」
「斬らない」
なんのために斬るの。戸の前の子の声が、耳の奥で鳴った。答えられなかった問いだった。答えられないまま、刃を下ろすことだけは、もうできなかった。
ナルカは、下げた剣を、ゆっくりと鞘に納めた。
「それが、なまくらだ」
スズは、振りかぶった剣を、下ろした。下ろすというより、落ちた。切っ先が、岩を打った。
ナルカは、しばらくスズを見ていた。
怒った顔ではなかった。井戸端で、はじめて会った夜の顔だった。何度も見てきたものを、また見ている顔。
「おれも、斬らなかった」
ナルカは言った。
「おまえの肩で、止めた。おれには理由があった。おまえを斬れば、その剣を持つ者がいなくなる。火の子を斬れる者が、いなくなる」
「……それだけ」
「それだけだ」
ナルカは、そう言って、目をそらした。
スズは、ナルカの横顔を見ていた。それだけではない気がした。何がそれだけではないのか、わからなかった。
弟も、妹も、ひとり残らず看取ってきた。井戸端で、ナルカはそう言った。
看取るより前に、この男は、何人の肩の上で、刃を止めてきたのだろう。
「頂で、おまえは同じ顔をする」
ナルカは、岩の上の空を見上げた。
「振りかぶって、止まる。斬る理由がないと言う。そのあいだに、里が焼ける。そのときは、おれが止める。止めるのは、おまえの肩じゃない」
スズは、答えなかった。
ナルカは、岩の陰へ戻っていった。
◇
刀身の中が、静まっていった。
戸の前の子が、姉の袖の中で、しゃくりあげていた。野の子は、老人の膝にしがみついていた。老人が、その背中を、とん、とん、と叩いていた。叩きながら、刀身の奥から、スズを見ていた。帰れ、とは、言わなかった。
「……スズ」
姉の声は、震えていた。
「あんた、死ぬかと思った」
「死なない」
「死ぬかと思ったの」
姉は、それ以上言わなかった。スズの顔を見ていた。刀身のふちで、姉の顔が、隣の老人の白髪と、少し混じっていた。
「……あの人の言うこと」
しばらくして、姉は言った。
「半分は、正しいよ」
スズは、姉を見た。
「あんた、一晩、里を見なかったでしょう。わたしは見てた。刃の中から。火が、四つ落ちた」
姉の声は、責めてはいなかった。
「迷ってるあいだにも、火は落ちる。それは、本当のこと」
「……残りの半分は」
姉は、答えなかった。
かり、かり。
岩の手は、刻んでいた。いまの雷にも、止まらなかった。
「あの手の子も、なかに、くる?」
戸の前の子が、涙のあとの残る顔で聞いた。
スズは、答えなかった。
スズは、岩の前に立った。
降りてくる刃。開いた手。何百。何千。
その剣は、一度しくじった。
ナルカの声が、耳の奥に残っていた。しくじった剣が、ここに刻まれている。刻んでいるのは、しくじられた手だ。
しくじられた手が、しくじった剣に、指を開いている。
なぜ、なのか。
スズは、剣の柄を握り直した。
抜いたままの刃を、岩に向けた。
「いま、そっちへ行く」
スズは、手に向かって言った。手は、かり、と一度だけ刻んで、止まった。
剣が、ふっと軽く上がった。
重さは、変わっていなかった。四人ぶん、そのままだった。けれど、昨日から渋っていた刃が、今は、スズの腕の先へ、自分から伸びていくようだった。
鈴が、鳴った。
ちり、と。岩の斜面に、澄んだ音が響いた。




