第十七話 里
刃が、岩に入った。
手応えは、水だった。固いはずの岩が、刃の前で、水面のように割れた。切っ先が、刻まれた線の中でいちばん深い一本、上から下へまっすぐに引かれたあの溝を、なぞるように下りていった。
岩が、二つに分かれた。
重い音はしなかった。息を吐くような音だった。割れた岩の片方が、ゆっくりと傾いて、斜面の下へ転がっていった。
小さな手が、宙にあった。
手首から先だけではなかった。細い腕が、肘のあたりまで、岩の中から抜け出していた。腕の先の手が、赤く光りながら、スズのほうへ伸びていた。
剣へ。
五本の指が開いて、刃をつかんだ。
スズは、息をのんだ。刃は、止まらなかった。つかんだ小さな手を、上から下へ、抜けていった。
手の形が暗くなり、光が、刃を滑って上ってきた。
◇
腕が、落ちた。
剣ごと、スズの両腕が、岩の上に引き下ろされた。膝が、岩を打った。倒れはしなかった。倒れる前に、膝が岩についた。
刀身を見た。
顔が、五つあった。
姉。老人。戸の前の子。野の子。そして、新しい顔。頬の丸い、目の細い子。
五つの顔の、ふちが揺れていた。それだけではなかった。
「——ここ、どこ」
新しい子の声がした。
動いたのは、野の子の口だった。
スズは、目をこすった。見直した。新しい子が、口を動かしていた。声は、もう聞こえなかった。声のあとから、口が動いていた。
声と顔が、ずれていた。
スズは、柄を握り直した。重さが、手首の骨にまで食いこんでいた。
ナルカが、割れた岩の前に立っていた。スズのほうではなく、岩の割れ目を見ていた。
「……見ろ」
スズは、剣を杖にして、立ち上がった。
割れた岩の、内側の面だった。
外の面と同じように、絵が刻まれていた。けれど、外の面のように、何百も重なってはいなかった。たった一つだった。大きく、深く、はっきりと刻まれていた。岩が閉じていたあいだ、誰の目にも触れなかった、いちばん古い絵だった。
大きな人の形があった。長い髪。腕を広げていた。
その腕の中に、小さな人の形があった。赤子だった。
大きな人と赤子のあいだに、一本の線が引かれていた。細い、曲がった線。へその緒のようにも、二人をつなぐ糸のようにも見えた。
上から、刃が降りてきていた。
長い線。横棒。丸。
刃は、赤子の上で、曲がっていた。
まっすぐ降りてきた長い線が、赤子の頭の手前で、ぐにゃりと横へ逸れていた。逸れた刃が断っていたのは、赤子ではなかった。大きな人と赤子をつなぐ、細い線だった。
赤子の手が、刃に向かって開いていた。
刃は、その手を斬らなかった。
「……きらなかった」
刀身の中で、新しい子が言った。今度は、口と声が合っていた。
「ぼくが、手を、のばしたの。そしたら、よけた」
子どもの声は、不思議そうだった。
「ぼくを、よけて。かわりに、ぼくと母さんのあいだを、きった」
スズは、手の中の剣を見た。
あの日、古き主は、この剣で火の子を斬ろうとした。剣は、しくじった。
しくじったのではなかった。
斬らなかったのだ。
燃えながら手を伸ばしてきた赤子を、剣は斬れなかった。斬るかわりに、赤子と母のあいだを断った。
「……それが、しくじりか」
ナルカが、低く言った。絵から、目を離さなかった。
しばらくして、ナルカは絵に背を向けた。
「斬らなかったのだとしても、同じことだ。火は、いまも降っている」
それきり、何も言わなかった。
刀身の奥で、老人が目を閉じていた。この絵を、老人は知っていたのだと、スズは思った。聞かなかった。
「あたらしい子、きた」
戸の前の子が、新しい子の顔をのぞきこんでいた。
「ぼく、マチ。こっちが、アユ。あっちが、じいちゃん。こっちが、おねえちゃんのおねえちゃん」
新しい子は、目をぱちぱちさせて、ひとりずつ顔を見た。野の子が、黙って、新しい子の手を握った。岩を刻み続けて、爪の割れた手だった。
かえしたい、と剣の奥の声が言ったのを、スズは思い出していた。
◇
夜になった。
割れた岩の向こうに、次の斜面が続いていた。ナルカは、岩の陰で、背を向けて座っていた。
スズは、割れた岩の内側の絵の前に座っていた。剣を、膝の上で抜いていた。
刀身の中は、静かだった。子どもたちは、姉と老人のあいだで、固まって眠っていた。新しい子は、野の子の肩に頭を載せていた。
姉は、起きていた。絵を見ていた。
「姉さん」
スズは言った。
「剣は、斬らなかった。子どもだったから」
姉は、答えなかった。
「わたしは、斬った」
スズは、刀身の中の姉を見た。
「姉さんを」
姉が、スズを見た。
三年、スズはこれを言わなかった。誰にも。姉にも。拝殿で長の前に立ったときも。社の石段でウメ婆に、わたしが斬った、と言ったときも。斬ったことは言えた。言えなかったのは、その前のことだった。
「姉さんが、拝殿で、あれは子どもだって言ったとき」
声が、かすれた。
「わたしは、姉さんを信じなかった」
姉は、動かなかった。
「長が、サヤは火に呑まれたって言った。里のみんなが、姉さんから離れていった。わたしも、離れた。姉さんが、火に呑まれて、火の言葉をしゃべってるんだと思った。そう思うほうが、楽だった」
膝の上の剣が、重かった。
「わたしは、里を選んだ」
スズは、目をそらさなかった。
「それでも、姉さんを失くしたくなかった。長は、作法で斬れって言った。宿さずに。何も残さずに。わたしは、できなかった。切り捨てずに、中へ斬った。姉さんを、剣の中に置いた」
スズは、息を吸った。
「償いだと思ってた。姉さんを、ここに置いておくことが。三年、ずっと」
刀身の中で、姉は、長いこと黙っていた。
「……あんたは」
ようやく、姉は言った。
「わたしに、聞かなかった」
スズは、息を止めた。
「杉の下で。わたしは、目を閉じて、待ってた。何か聞かれたら、答えようと思って。あんたは、何も聞かなかった。わたしを信じるかどうかも。わたしが、どうしたいかも」
姉の声は、静かだった。怒ってはいなかった。
「聞かないで、斬って。聞かないで、ここに置いた」
スズは、何も言えなかった。
三年前、スズは、聞かなかった。聞けば、姉は答えた。答えを聞けば、斬れなくなると、わかっていた。
「……ごめん」
声になったのは、それだけだった。
杉の下で斬った夜のことを、スズは覚えている。
家に戻って、炉端で、震える手で剣を抜いた。刀身に、姉の顔が映っていた。目を閉じていた。スズが名を呼ぶと、姉は、目を開けた。
「……スズ」
それを聞いたとき、スズは、声を上げて泣いた。姉を斬ってから、はじめて泣いた。それきり、泣いていない。
あの夜、スズは、姉を失わずに済んだと思った。
姉は、何も言わなかった。赦すとも、赦さないとも。
スズは、剣を見た。
燃える赤子を斬れなかった剣。斬るかわりに、母と子を断った剣。そのせいで、火が降り続けている。
姉を信じずに、斬った自分。斬ったのに、手放せなかった自分。
「剣のしくじりも」
スズは言った。
「わたしのしくじりも、わたしが持っていく。頂まで」
姉は、スズを見ていた。
そのとき、刀身の奥で、老人が目を開けた。
眠る子どもたちを、見下ろしていた。姉を見た。スズを見た。
「……里だな」
老人が、ぽつりと言った。
「ここは」
姉が、老人を振り向いた。
戸の前の子が、目をこすって顔を上げた。
「さと?」
「さと」
野の子が、寝ぼけた声で繰り返した。新しい子も、わけもわからずに、さと、と言った。
「……うん」
姉が言った。老人に向けて、ではなかった。けれど、老人の言葉に、答えていた。
「里だね。ここは」
姉は、新しい子の髪に、そっと手を置いた。
「あんたは、ホリ。岩を、ずっと掘ってたから」
「ホリ」
新しい子は、口の中で繰り返した。
スズは、刀身の中の顔を、一つずつ見た。
「……ホリ」
スズは言った。
姉が、顔を上げた。
「マチ。アユ」
門の名でも、戸の前の子でも、野の子でもなく。
呼ばれた子どもたちが、スズを見上げた。マチが、ぱっと顔を明るくした。
「おねえちゃん、ぼくのなまえ、よんだ!」
笑う声がした。
笑ったのは、マチの顔だった。けれど、声は、ホリの口から出ていた。
スズの手首の骨に、重さが、もう一つ沈んだ。刀身の顔のふちが、互いの頬へ溶けていた。五つの顔が、灯のゆらめきのように、並んだり、重なったりしていた。
笑い声は、止まなかった。
スズは、剣を握っていた。重かった。里の重さだった。




