↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【完結】―火を斬る少女―  作者: 甕星 慶(ミカボシケイ)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
17/40

第十七話 里

 刃が、岩に入った。


 手応えは、水だった。固いはずの岩が、刃の前で、水面のように割れた。切っ先が、刻まれた線の中でいちばん深い一本、上から下へまっすぐに引かれたあの溝を、なぞるように下りていった。


 岩が、二つに分かれた。


 重い音はしなかった。息を吐くような音だった。割れた岩の片方が、ゆっくりと傾いて、斜面の下へ転がっていった。


 小さな手が、宙にあった。


 手首から先だけではなかった。細い腕が、肘のあたりまで、岩の中から抜け出していた。腕の先の手が、赤く光りながら、スズのほうへ伸びていた。


 剣へ。


 五本の指が開いて、刃をつかんだ。


 スズは、息をのんだ。刃は、止まらなかった。つかんだ小さな手を、上から下へ、抜けていった。


 手の形が暗くなり、光が、刃を滑って上ってきた。



    ◇



 腕が、落ちた。


 剣ごと、スズの両腕が、岩の上に引き下ろされた。膝が、岩を打った。倒れはしなかった。倒れる前に、膝が岩についた。


 刀身を見た。


 顔が、五つあった。


 姉。老人。戸の前の子。野の子。そして、新しい顔。頬(ほお)の丸い、目の細い子。


 五つの顔の、ふちが揺れていた。それだけではなかった。


「——ここ、どこ」


 新しい子の声がした。


 動いたのは、野の子の口だった。


 スズは、目をこすった。見直した。新しい子が、口を動かしていた。声は、もう聞こえなかった。声のあとから、口が動いていた。


 声と顔が、ずれていた。


 スズは、柄(つか)を握り直した。重さが、手首の骨にまで食いこんでいた。


 ナルカが、割れた岩の前に立っていた。スズのほうではなく、岩の割れ目を見ていた。


「……見ろ」


 スズは、剣を杖(つえ)にして、立ち上がった。


 割れた岩の、内側の面だった。


 外の面と同じように、絵が刻まれていた。けれど、外の面のように、何百も重なってはいなかった。たった一つだった。大きく、深く、はっきりと刻まれていた。岩が閉じていたあいだ、誰の目にも触れなかった、いちばん古い絵だった。


 大きな人の形があった。長い髪。腕を広げていた。


 その腕の中に、小さな人の形があった。赤子(あかご)だった。


 大きな人と赤子のあいだに、一本の線が引かれていた。細い、曲がった線。へその緒のようにも、二人をつなぐ糸のようにも見えた。


 上から、刃が降りてきていた。


 長い線。横棒。丸。


 刃は、赤子の上で、曲がっていた。


 まっすぐ降りてきた長い線が、赤子の頭の手前で、ぐにゃりと横へ逸(そ)れていた。逸れた刃が断っていたのは、赤子ではなかった。大きな人と赤子をつなぐ、細い線だった。


 赤子の手が、刃に向かって開いていた。


 刃は、その手を斬らなかった。


「……きらなかった」


 刀身の中で、新しい子が言った。今度は、口と声が合っていた。


「ぼくが、手を、のばしたの。そしたら、よけた」


 子どもの声は、不思議そうだった。


「ぼくを、よけて。かわりに、ぼくと母さんのあいだを、きった」


 スズは、手の中の剣を見た。


 あの日、古き主は、この剣で火の子を斬ろうとした。剣は、しくじった。


 しくじったのではなかった。


 斬らなかったのだ。


 燃えながら手を伸ばしてきた赤子を、剣は斬れなかった。斬るかわりに、赤子と母のあいだを断った。


「……それが、しくじりか」


 ナルカが、低く言った。絵から、目を離さなかった。


 しばらくして、ナルカは絵に背を向けた。


「斬らなかったのだとしても、同じことだ。火は、いまも降っている」


 それきり、何も言わなかった。


 刀身の奥で、老人が目を閉じていた。この絵を、老人は知っていたのだと、スズは思った。聞かなかった。


「あたらしい子、きた」


 戸の前の子が、新しい子の顔をのぞきこんでいた。


「ぼく、マチ。こっちが、アユ。あっちが、じいちゃん。こっちが、おねえちゃんのおねえちゃん」


 新しい子は、目をぱちぱちさせて、ひとりずつ顔を見た。野の子が、黙って、新しい子の手を握った。岩を刻み続けて、爪の割れた手だった。


 かえしたい、と剣の奥の声が言ったのを、スズは思い出していた。



    ◇



 夜になった。


 割れた岩の向こうに、次の斜面が続いていた。ナルカは、岩の陰で、背を向けて座っていた。


 スズは、割れた岩の内側の絵の前に座っていた。剣を、膝の上で抜いていた。


 刀身の中は、静かだった。子どもたちは、姉と老人のあいだで、固まって眠っていた。新しい子は、野の子の肩に頭を載せていた。


 姉は、起きていた。絵を見ていた。


「姉さん」


 スズは言った。


「剣は、斬らなかった。子どもだったから」


 姉は、答えなかった。


「わたしは、斬った」


 スズは、刀身の中の姉を見た。


「姉さんを」


 姉が、スズを見た。


 三年、スズはこれを言わなかった。誰にも。姉にも。拝殿(はいでん)で長の前に立ったときも。社(やしろ)の石段でウメ婆に、わたしが斬った、と言ったときも。斬ったことは言えた。言えなかったのは、その前のことだった。


「姉さんが、拝殿で、あれは子どもだって言ったとき」


 声が、かすれた。


「わたしは、姉さんを信じなかった」


 姉は、動かなかった。


「長が、サヤは火に呑まれたって言った。里のみんなが、姉さんから離れていった。わたしも、離れた。姉さんが、火に呑まれて、火の言葉をしゃべってるんだと思った。そう思うほうが、楽だった」


 膝の上の剣が、重かった。


「わたしは、里を選んだ」


 スズは、目をそらさなかった。


「それでも、姉さんを失くしたくなかった。長は、作法で斬れって言った。宿さずに。何も残さずに。わたしは、できなかった。切り捨てずに、中へ斬った。姉さんを、剣の中に置いた」


 スズは、息を吸った。


「償(つぐな)いだと思ってた。姉さんを、ここに置いておくことが。三年、ずっと」


 刀身の中で、姉は、長いこと黙っていた。


「……あんたは」


 ようやく、姉は言った。


「わたしに、聞かなかった」


 スズは、息を止めた。


「杉の下で。わたしは、目を閉じて、待ってた。何か聞かれたら、答えようと思って。あんたは、何も聞かなかった。わたしを信じるかどうかも。わたしが、どうしたいかも」


 姉の声は、静かだった。怒ってはいなかった。


「聞かないで、斬って。聞かないで、ここに置いた」


 スズは、何も言えなかった。


 三年前、スズは、聞かなかった。聞けば、姉は答えた。答えを聞けば、斬れなくなると、わかっていた。


「……ごめん」


 声になったのは、それだけだった。


 杉の下で斬った夜のことを、スズは覚えている。


 家に戻って、炉端(ろばた)で、震える手で剣を抜いた。刀身に、姉の顔が映っていた。目を閉じていた。スズが名を呼ぶと、姉は、目を開けた。


「……スズ」


 それを聞いたとき、スズは、声を上げて泣いた。姉を斬ってから、はじめて泣いた。それきり、泣いていない。


 あの夜、スズは、姉を失わずに済んだと思った。


 姉は、何も言わなかった。赦(ゆる)すとも、赦さないとも。


 スズは、剣を見た。


 燃える赤子を斬れなかった剣。斬るかわりに、母と子を断った剣。そのせいで、火が降り続けている。


 姉を信じずに、斬った自分。斬ったのに、手放せなかった自分。


「剣のしくじりも」


 スズは言った。


「わたしのしくじりも、わたしが持っていく。頂(いただき)まで」


 姉は、スズを見ていた。


 そのとき、刀身の奥で、老人が目を開けた。


 眠る子どもたちを、見下ろしていた。姉を見た。スズを見た。


「……里だな」


 老人が、ぽつりと言った。


「ここは」


 姉が、老人を振り向いた。


 戸の前の子が、目をこすって顔を上げた。


「さと?」


「さと」


 野の子が、寝ぼけた声で繰り返した。新しい子も、わけもわからずに、さと、と言った。


「……うん」


 姉が言った。老人に向けて、ではなかった。けれど、老人の言葉に、答えていた。


「里だね。ここは」


 姉は、新しい子の髪に、そっと手を置いた。


「あんたは、ホリ。岩を、ずっと掘ってたから」


「ホリ」


 新しい子は、口の中で繰り返した。


 スズは、刀身の中の顔を、一つずつ見た。


「……ホリ」


 スズは言った。


 姉が、顔を上げた。


「マチ。アユ」


 門の名でも、戸の前の子でも、野の子でもなく。


 呼ばれた子どもたちが、スズを見上げた。マチが、ぱっと顔を明るくした。


「おねえちゃん、ぼくのなまえ、よんだ!」


 笑う声がした。


 笑ったのは、マチの顔だった。けれど、声は、ホリの口から出ていた。


 スズの手首の骨に、重さが、もう一つ沈んだ。刀身の顔のふちが、互いの頬へ溶けていた。五つの顔が、灯のゆらめきのように、並んだり、重なったりしていた。


 笑い声は、止まなかった。


 スズは、剣を握っていた。重かった。里の重さだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。