第十八話 冷えた棚田
岩の斜面を越えると、段があった。
はじめは、崩れた石垣だと思った。斜面を横切って、膝の高さくらいの石積みが、一本、長く続いている。その上に、また一本。その上にも。細長い平らな段が、山の肩をめぐって、上へ、上へと重なっていた。
棚田だった。
スズは、いちばん下の段の石垣に手をかけて、その上をのぞいた。
水はなかった。土が、ひび割れて乾いていた。ところどころに、枯れた草の株が、黒く縮んで残っている。稲の株なのか、ただの草なのか、見分けがつかなかった。
里の田と、同じ形だった。畦の幅も、石垣の積み方も。
誰が、こんなところに田を作ったのか。
スズは、石垣を這い上がった。
足が、重かった。
石垣は、膝の高さしかなかった。里の田の石垣なら、子どものころから飛び越えていた。いまは、片足を上げるのに、息を一つ止めなければならなかった。背中の剣が、上げた足と反対のほうへ、スズの体を引いた。
一段、上がった。
乾いた田を横切って、次の石垣まで歩いた。また、片足を上げた。
「五人ぶんだ」
後ろで、ナルカが言った。
「わかってる」
「まだ、四つ目の門だ」
「わかってる」
スズは、二段目の石垣の上に、膝をついた。
膝の先の土に、何か埋まっていた。指で掘り出すと、鎌だった。刃が錆びて、ぼろぼろに欠けていた。柄は腐って、なくなっていた。
里の鎌と、同じ形だった。
スズは、錆びた鎌を、しばらく手の中で眺めていた。それから、畦の上に、そっと置いた。
◇
三段目で、スズは足を止めた。
田の端に、石の箱があった。
腰の高さくらいの、四角い石の囲いだった。上が開いていて、中が黒かった。スズは、中をのぞいた。
煤だった。
石の内側が、びっしりと煤で黒くなっていた。底に、白い灰が、固まって残っていた。灰の上に、燃え残った薪の端が、炭になって転がっていた。
火床だった。
スズは、田を見渡した。
石の箱は、一つではなかった。どの段にも、田の端に、同じ石の箱が並んでいた。十、二十。数えきれない。上の段にも、その上の段にも。
箱の脇から、細い溝が、田のほうへ延びていた。溝の底にも、煤がこびりついていた。
「……火を、焚いてた」
スズは言った。
「田の横で。どうして」
剣の中から、老人の声がした。
「田を、温めるためだ」
スズは、剣を背から下ろした。わずかに抜いた。刃は、渋りながら出てきた。
刀身の中で、老人が、刃の外の棚田を見ていた。
「この高さでは、夏でも水が冷たい。冷たい水では、稲は育たん。だから、火を焚いた。焚いた火で石を温め、温まった石の上を、水を通した。ぬるんだ水が、田に入る」
老人は、目を細めていた。
「昔は、この田に、山の火を分けてもらっていた」
「山の火」
「山から湧く、温かい火だ。人は、その火を、ここで焚いて、守っていた。火が消えないように。燃えすぎないように」
老人は、そこで口を閉じた。
スズは、石の箱の縁に、手を当てた。
縁の石に、何か刻んであった。
指でなぞった。丸の中に、三本の線。一本は長く、二本は短い。
スズは、懐に手を入れた。
ウメ婆に押しつけられた、檜皮のかけらを出した。焼け残った、母の社の屋根の檜皮。裏に、墨で書きつけられた印。
丸の中に、三本の線。一本は長く、二本は短い。
同じ印だった。
スズは、しばらく、檜皮と、石の縁の印とを見比べていた。
「……母の社の印」
「火守の印だ」
老人は言った。
「おまえたちの、ずっと前の祖が、ここで火を守っていた。火を守る者で、火守だ」
スズは、口を開きかけて、閉じた。
火守は、火を斬る者だ。山からこぼれる火を斬る者だ。語りでは、そうなっている。剣は火守に預けられ、火守は、山からこぼれる火を斬る者になった。子どものころから、何百回と唱えてきた。
火を、斬る者。
火を、守る者。
「……いつから」
スズの声が、かすれた。
「いつから、ここは冷えてるの」
老人は、答えなかった。
「どうして、やめたの。火を守るのを」
老人は、長いこと黙っていた。
「……火を、怖がるようになったからだ」
それだけ言って、老人は目を閉じた。組んだ両手が、白くなっていた。誰が怖がらせたのか、スズは聞かなかった。聞いても、老人は答えない気がした。
「火を焚いて守るなど、天つ座の作法にはない」
ナルカが言った。
「火は、斬るものだ。守れば、いずれ燃え広がる」
スズは、田を見渡した。ひび割れた土。黒く縮んだ株。煤だけが残った石の箱。火の消えた火床が、段ごとに、墓石のように並んでいた。
里の者は、この田のことを知らない。
スズも知らなかった。長も、ウメ婆も、祖母も、誰も言わなかった。知らなかったのか、知っていて言わなかったのか。火守が火を守っていたことも、ここに田があったことも、語りのどこにも出てこない。
忘れたのだ。
焼けてもいない野のことは、何百年も語り継いだ。ここで火を守っていたことは、忘れた。
母の社には、火を入れない。灯明さえ置かない。火は母の仇だからだ。
その社の屋根に、火を守る者の印が書いてある。
スズは、懐の上から、檜皮のかけらを押さえた。薄い木のかけらが、胸の上で、急に重くなった気がした。
「火の粉は、斬れば消える」
後ろで、ナルカが言った。棚田を見てもいなかった。
「冷えた田を見て、何になる。おまえが斬るべきものは、上にいる」
「……わかってる」
スズは、檜皮を懐に戻した。
棚田の端から、下が見えた。岩の斜面、草の海、杉の森。その果ての里は、もう、米粒ひとつくらいの大きさにしか見えなかった。遠くなったのだと、スズは思った。
煙は、三本だった。
昨日より、一本少なかった。燃えるものが燃えつきたのか、誰かが消したのか。ここからでは、わからなかった。
◇
四段目の石垣の前で、スズの足は、上がらなくなった。
上げようとした。膝が、少し持ち上がって、落ちた。もう一度。持ち上がって、落ちた。
背中の剣が、重かった。五人ぶん。それに、いま見たものの重さが、どこかに乗っていた。
スズは、石垣にもたれて、座りこんだ。
日が陰ると、風が冷たくなった。棚田の段を、下から上へ、冷えた風が這い上がっていく。枯れた株が、かさかさと鳴った。
乾いた田の土は、冷たかった。岩の斜面の岩は、温かかった。戸の前の板も、温かかった。この田だけが、冷えていた。山の息が、ここまで届いていないようだった。
「スズ」
刀身の中で、姉が言った。
「休みなよ」
「休んでも、軽くならない」
「知ってる。でも、休みなよ」
スズは、剣を膝の上に置いた。刀身をのぞいた。
五つの顔が、並んでいた。ふちが揺れて、隣と混じる。マチが、ホリに何か話しかけていた。口が動いているのは、アユだった。
「ここ、つめたい」
ホリの声がした。岩の中の温かさしか、知らない子だった。
「おねえちゃんの里も、田んぼ、ある?」
マチの声が、アユの口から聞こえた。
「……ある」
「あったかい?」
スズは、答えられなかった。
里の田は、冷たかった。春先に灰を鋤きこんで、水を引いて、それでも冷たい年は、実りが悪かった。祖母は、山に近いからだと言った。山のせいだと。
ここの田は、山の火で温まっていた。
「姉さんは、知ってたの」
スズは言った。
「ここのこと」
「知らない」
姉は、首を振った。
「わたしは、戸の前までしか来てない。……でも、祖母ちゃんが一度だけ言ってた。火守の火は、昔はもっとやさしかった、って。何のことか、わからなかった」
姉は、棚田を見ていた。刃の中から。
「こういうことだったんだね」
姉は、少し笑った。笑ったのに、目は笑っていなかった。
「祖母ちゃん、たぶん、祖母ちゃんの祖母ちゃんから、それだけ聞いたんだよ。意味は、もう、誰にもわからなくなってて。やさしかった、っていう言葉だけが、残ってた」
スズは、黙っていた。
日が傾いてきた。棚田の石垣の影が、段ごとに長く伸びていった。
スズは、上の段を見上げた。
いちばん上の石垣の上に、何かがいた。
小さなものだった。石垣の縁に、しがみついていた。赤い光が、ぽつりと見えた。
それは、動かなかった。石垣の縁を、握っていた。
「明日には、上がれ」
ナルカが言った。石垣に背をあずけて、腕を組んでいた。
「上がれないなら、軽くなる方法は、教えてある」
スズは、答えなかった。
スズの足は、まだ上がらなかった。




