第十九話 離さない手
夜のあいだに、それは下りてきた。
スズは、石垣にもたれて、うとうとしていた。眠ったのかどうか、わからなかった。何かに袖を引かれて、目を開けた。
左の袖だった。
小さな手が、袖口を握っていた。
子どもだった。スズの脇に、うずくまっていた。痩せて、髪が短くて、ぼろ布を体に巻きつけていた。マチやアユと、同じくらいの年に見えた。右の手を、胸に抱えこんでいた。左の手だけを伸ばして、スズの袖をつかんでいた。
左の手が、赤く光っていた。
熾火の色だった。指の一本一本が、中から照らされたように赤かった。その赤い指が、袖の布を、きつく握りしめていた。
布が、焦げていた。
継いだ袖だった。機屋の女が、藍の濃い端切れで継いだ袖口。握られたところから、細い煙が上がっていた。藍の布が、握られた指の形に、茶色く縮れていた。
スズは、袖を引いた。
手は、離れなかった。
「……離して」
子どもは、スズを見なかった。うつむいたまま、首を振った。
「はなさない」
細い声だった。
「はなしたら、いなくなる」
スズは、上の段を見上げた。いちばん上の石垣の縁に、昨日、何かがしがみついていた。もう、いなかった。夜のうちに、石垣を一段ずつ下りてきたのだ。握っては離し、握っては離して。
「……四つ目だ」
ナルカが、石垣の陰から立ち上がった。
「左の手だ。しがみついて、離さない手だ」
◇
日が昇った。
子どもは、まだ袖を握っていた。
夜のあいだは気づかなかったが、明るいところで見ると、子どもの左の腕は、肘のあたりまで透けていた。透けた腕の向こうに、乾いた田の土が見えた。赤い光は、指先から、手首へ、腕へと、じわじわ這い上がっていた。
握られた袖は、焦げ続けていた。藍の布は、もう、握られた形に黒く抜けていた。穴の縁から、スズの腕の肌が見えた。肌に、指の赤が映っていた。
熱くは、なかった。
機屋の軒で、十度目の火を斬ったときに焦がした袖だった。左の袖口が黒く縮れて、スズは手のひらで叩いて消した。その袖を、機屋の女が切り落として、継いでくれた。
継いだところが、また焦げている。
不思議だった。布を焦がすくらいの火なのに、肌には、ぬるい湯くらいの温かさしか来なかった。
「おねえちゃん、その子も」
剣の中から、マチの声がした。
「その子も、いれてあげて」
「マチ」
姉の声が、マチを止めた。
「いまは、だめ」
「なんで」
「スズが、立てなくなる」
マチは、黙った。
スズは、剣を膝の上で抜いた。渋った。両手で引いた。刃が、半分出た。
刀身に、五つの顔があった。ふちが溶けて、隣と混じっていた。姉の目が、老人の額の上にあった。マチの口が、アユの頬の横で動いていた。まばたきをしても、すぐには分かれなかった。
姉が、スズを見ていた。
「スズ」
姉は、それだけ言った。行けとも、やめろとも、言わなかった。
老人は、刀身の奥で、袖を握る子どもを見ていた。目を細めていた。
「宿せば」
ナルカが言った。石垣の上に、腰を下ろしていた。
「おまえは、ここから一歩も上がれん。いまでさえ、石垣ひとつ越えられない。六人目を入れれば、立つこともできなくなる。ここで、剣を抱いて座ったまま、潰れる。中の者も、全員、一緒に散る」
スズは、答えなかった。
「置いていけば、あれは燃えつきる」
ナルカは、子どもを見た。
「今日のうちか、明日か。燃えつきれば、火の子は左の手を失う。永久に」
「……それでいいって、あなたは言うんでしょう」
「言う。だが、おまえは、それでいいと思えない顔をしている」
ナルカの声は、嘲ってはいなかった。
「どっちにしろ、選べ。選ばないのが、いちばん悪い。選ばないあいだに、あれは燃え、おまえは座りこみ、里は焼ける」
ナルカは、少し間を置いた。
「もう一つ、道はある」
スズは、ナルカを見た。
「中に、いちばん重いのがいる」
ナルカの目は、スズの膝の刀身に向いていた。刀身の奥の、白髪の顔に。
「そいつを、作法で斬り直せ。そうすれば、その子ひとりぶんの空きができる。おまえは、その子を宿しても、立てる」
刀身の中が、しんとした。
マチが、老人の袖をつかんだ。
「……しない」
スズは言った。
「そうか」
ナルカは、それ以上は言わなかった。言わなくても、言ったことは、そこに残った。
老人は、目を閉じていた。何も言わなかった。組んだ両手は、白くならなかった。静かに、膝の上に置かれていた。
姉が、老人を見ていた。長いあいだ、見ていた。何を考えているのか、スズには、わからなかった。
◇
スズは、立とうとした。
剣を杖にして、膝を立てた。子どもが、袖を握ったまま、引きずられるようについてきた。膝が、伸びなかった。半分まで上がって、止まった。背中の剣の重さと、袖を握る子どもの重さが、スズを地面に縫いつけていた。
子どもは、軽かった。袖にかかる重さは、ほとんどなかった。
それなのに、立てなかった。
スズは、また座りこんだ。
「……スズ」
姉が、低く言った。
「ここで、止まってもいいんだよ」
スズは、刀身を見た。
「上がれないなら、上がらなくていい。下りればいい。その子を連れて。戸まで下りて、里まで下りて」
姉の声は、行くなと言った夜の声に、少し似ていた。
「……その子を宿したら、下りることも、できなくなる」
「わかってる」
姉は、それきり黙った。自分の言ったことが、どこにも行き着かないことを、姉もわかっているようだった。
懐に、与平の小刀があった。
スズは、それを取り出した。欠けた刃を見た。
袖を、切ればいい。
握られているのは、袖だ。この子の手ではない。袖を、肘のところで切り落とせば、手は離れる。スズは、自由になる。上がれるかどうかはわからないが、少なくとも、ここに縫いつけられてはいない。
スズは、小刀の刃を、袖の付け根に当てた。
機屋の女の縫い目が、刃の下にあった。糸を噛み切るまで、ひと言もしゃべらなかった女の、細かい縫い目だった。
子どもが、顔を上げた。
はじめて、スズを見た。
目が、大きかった。泣いてはいなかった。泣くのを、こらえてもいなかった。ただ、スズの顔を見て、それから、自分の握っている袖を見た。
「……はなさない」
子どもは言った。
「母さんのゆび、にぎってた。ずっと、にぎってた。はなしたら、いなくなった」
スズの手が、止まった。
「だから、はなさない」
子どもの左の手が、袖を、いっそう強く握った。焦げた布が、ちりちりと鳴った。
スズは、小刀を下ろした。
下ろしたまま、動けなかった。
袖を切れば、この子は、また握るものを失う。宿せば、スズは立てなくなる。置いていけば、この子は燃えつきる。
どれも、選べなかった。
◇
昼が過ぎた。
子どもの赤は、肩まで這い上がっていた。左の腕は、もう、透けたところのほうが多かった。
それでも、指だけは、袖を離さなかった。透けた指が、焦げた布を、形のないまま握っていた。握っている指の向こうに、スズの肌が見えた。
子どもは、目を閉じていた。眠っているのではなかった。握ることだけに、残った力を使っているようだった。
刀身の中は、静かだった。マチも、何も言わなかった。アユは、姉の袖を握っていた。ホリが、アユの手の上に、自分の手を重ねていた。
「ぼくも、あるいて、いなくなりかけた」
アユが、ぽつりと言った。
「あの子も、いなくなりかけてる」
誰も、答えなかった。
スズは、剣を膝に横たえて、座っていた。
左の袖を、子どもが握っていた。右の手で、剣の柄を握っていた。
両方とも、離せなかった。
日が傾いた。
頂が、赤くなりはじめた。頂からこぼれた火が、今夜も、麓へ流れていく。そのうちのいくつかが、棚田のいちばん上の段に、ぱらぱらと落ちた。
乾いた株に、火がついた。
細い煙が、上の段から、立ちのぼった。
スズは、それを見ていた。立てなかった。
煙は、一本ではなかった。二本、三本。乾いた株から株へ、火は、ゆっくりと田を渡っていた。上の段の石垣の縁から、細い赤い舌が、下の段をのぞいていた。
「来るぞ」
ナルカが、石垣の上で立ち上がった。
「今夜のうちに、ここまで来る」
刀身の奥で、老人が目を開けた。上の段の火を見て、それから、スズを見た。何か言いかけて、やめた。
なんのために斬るの。
戸の前の子の問いが、また聞こえた気がした。いまのスズには、斬ることさえ、できなかった。
子どもが、袖を握っていた。




