第二十話 混ざる声
夜になって、火は二段下りてきた。
乾いた株から株へ、赤い舌が這っていく。一段下りるたびに、石垣の縁で、しばらく止まる。止まって、下の段をのぞく。それから、石垣の割れ目に残った枯れ草を伝って、ゆっくりと下りてくる。
スズのいる段まで、あと一段だった。
熱が、顔に来た。煙の匂いがした。野の輪の赤とは違った。これは、ただ燃えている火だった。山から落ちた火が、乾いた株に移って、ただの火になったものだった。
ただの火なら、水で消える。この田には、水がなかった。
斬れば、消える火もある。株の根もとに、山から落ちた火の粒が、まだ残っているのが見えた。あれを斬れば、少なくとも、燃え広がる勢いは弱まる。
スズは、剣の柄を握った。
左の袖を、子どもが握っていた。赤は、もう首のところまで来ていた。子どもは目を閉じて、袖を握ることだけをしていた。
「……立つよ」
スズは、子どもに言った。子どもは、答えなかった。
剣を杖にして、膝を立てた。
膝が、半分まで上がった。そこから、歯を食いしばった。背中が、剣の重さで反った。子どもが、袖ごと引き上げられた。
立った。
立てた、とスズは思った。
剣を、抜いた。渋った。両手で引いた。刃が、鞘を離れた。重さが、腕から肩へ、肩から背骨へ、落ちてきた。
上の段の石垣の縁で、火が、こちらをのぞいていた。
スズは、剣を振りかぶった。
振りかぶりきる前に、世界が傾いた。
◇
顔が、冷たい土に当たっていた。
乾いてひび割れた、田の土だった。頬の下で、土が、かすかに持ち上がって、下がった。山の息だった。この冷えた田にも、息だけは届いていた。
手が、柄を握っていた。剣は、スズの体の横に、倒れていた。刃が、鞘から抜けたまま、田の土の上に横たわっていた。
左の袖を、まだ、子どもが握っていた。
起き上がろうとした。
体が、どこにあるのか、わからなかった。手を動かそうとすると、足が動いた気がした。足を動かそうとすると、何も動かなかった。
声が、聞こえた。
刀身の中からではなかった。スズの頭の中からだった。
「——母さん、まだ?」
マチの声だった。マチの声が、スズの頭の内側で、戸を叩いていた。とん、とん。
「——どっち。どっちが、あっち——」
アユの声が、その上に重なった。
「——きらなかった。よけた。よけて、きった——」
ホリの声が。
「——ゆび。母さんのゆび。はなさない。はなさない——」
袖を握る子の声まで、混じっていた。まだ宿してもいない子の声が。
声だけではなかった。
戸が見えた。黒い、両開きの戸。すり減って白く光る板。それを、下から見上げていた。マチの目の高さで。
赤い輪が見えた。踏み固めた土。どちらへ行っても戻ってくる道。アユの目で。
降りてくる刃が見えた。長い線。横棒。丸。燃える指を、そこへ伸ばしていた。ホリの目で。
刀身の中の者たちの心が、スズの中へ、滲み出していた。スズの心の縁から、隣へ、また隣へ。混ざって、溶けて、誰の心なのか、わからなくなっていた。
「——スズ。聞いて。聞いて。聞いて——」
姉の声がした。
同じ言葉を、繰り返していた。杉の下で、目を閉じる前に、言わなかった言葉のように。
そして、その下から、もう一つの声が滲み出してきた。
しわがれた、よく通る声だった。
◇
道が見えた。
知らない道だった。山の麓の、細い道。杉の並木。その先に、里があった。
里の家々は、スズの知っている里の家々に似ていた。似ていたが、違っていた。屋根が、もっと低く、もっと少なかった。母の社が、新しかった。檜皮が、明るい色をしていた。
社の前に、子どもたちが集まっていた。
その前に、老人が立っていた。
白髪を後ろでひとつに束ね、裾の長い衣を着た老人だった。いまより、少しだけ若かった。
足に、草鞋を履いていた。大人の草鞋だった。縄で縛りつけて、マチの小さな足に履かせてあった、あの草鞋と同じ編み方だった。旅の埃で、白くなっていた。
老人が、子どもたちに言っていた。節をつけて。歌うように、唱えるように。
「——あの日、野が焼けた」
子どもたちが、繰り返した。
「七日七晩、野が焼けた。山の麓から、川の端まで」
老人が、うなずいた。子どもたちが、繰り返した。
「火の子は、母を殺した」
子どもたちが、声をそろえた。
「だから、あの山に近づいてはならない」
老人は、子どもたちの顔を、一つずつ見た。
「一段目にさえ、足をかけてはならない」
スズの喉の奥から、息が漏れた。
一段目にさえ足をかけるなと、スズは、子どものころから言われてきた。祖母から。祖母は、祖母の祖母から。
その、ずっと前に。
この老人から。
道が、消えた。
冷たい田の土が、また、頬の下にあった。
◇
足音がした。
ナルカが、スズの横に膝をついていた。スズの顔をのぞきこんで、それから、上の段の火を見た。
「二度目だ」
ナルカは、それだけ言った。
「……わしだ」
声がした。
今度は、スズの頭の中からではなかった。倒れた剣の、刀身の中からだった。
「子が、母を殺したと。そう言い広めたのは、わしだ」
刀身の中が、しんと静まった。
スズは、目だけを動かした。倒れた刃の上に、顔が並んでいた。ふちが溶けて、混ざっていた。それでも、老人の白髪だけは、見分けられた。
老人は、目を開けていた。誰の顔も、見ていなかった。刃の外の、どこでもないところを見ていた。
「里を回った。いくつも。何代も。あの日、野が焼けた。火の子は母を殺した。山に近づくな。そう言って回った」
老人の声は、平らだった。
「わしだ」
「……戸の番が、語り部だったか」
ナルカが、低く言った。驚いた声ではなかった。
「……じいちゃん」
マチの声が、震えた。
「じいちゃん、うそ、ついたの?」
老人は、答えなかった。
「母さん、ころしてないよ。ぼく、ころしてない。母さん、叩いて、待ってくれたもん」
マチが、泣き出した。
アユが、ホリにしがみついた。ホリは、アユを抱えて、老人から離れるように、刀身の端へ身を寄せた。
「なんで」
スズは、声を絞り出した。土に向かって。
「なんで、そんなこと」
老人は、答えなかった。
スズの胸の底で、何かが、冷たく固まっていった。
この老人を、宿したのは、スズだった。消えるのはいやだと言って。子どもに泣かれて。戸の前で、この老人は、額を石につけた。子どもを頼むと言った。その同じ口で、何代も、何代も、嘘を唱えてきた。
老人は、口を結んでいた。組んだ両手が、白くなっていた。唇が、一度だけ、何か言いかけるように動いた。それから、固く閉じた。
訳は、言わなかった。
「じいちゃん、なんで。なんで」
マチが、泣きながら繰り返した。老人は、マチのほうを見なかった。見られないようだった。
スズは、姉を探した。
溶けて混ざった顔のあいだに、姉の顔があった。
姉は、老人を見ていた。
顔が、凍っていた。
怒っているのではなかった。泣いているのでもなかった。何かを見て、そのまま、すべてが止まってしまった顔だった。
三年前、拝殿で。
サヤは、火に呑まれた。長は、そう言った。火に呑まれた者は、火の言葉をしゃべる。火の子をかばう。だから、切り捨てる。
火の子は、母を殺した。里の誰もが、そう信じていた。だから、あれは子どもだと言った姉を、誰も信じなかった。
その語りの、口が。
ここにあった。姉と同じ刃の中に。何日も、姉の隣に。
「……あんた、だったの」
姉が、ささやいた。
老人は、答えなかった。
姉は、それきり、何も言わなかった。凍った顔のまま、老人を見ていた。
子どものころ、拝殿でこの語りをいちばん大きな声で唱えていたのは、姉だった。スズの手を握って、節の切れ目ごとに、その手を振った。あの日、野が焼けた、のところでは、決まって握る手に力がこもった。
その節を、姉に教えたのは、祖母だった。祖母に教えたのは、祖母の祖母だった。
いちばんはじめに教えたのは、この老人だった。
熱が、顔に来た。
スズは、目を上げた。
上の段の石垣の縁から、火が、スズのいる段へ、下りてきていた。
石垣の割れ目の枯れ草が、ぱちぱちと鳴って、赤くなった。煙が、スズの顔の上を流れた。袖を握る子どもの赤と、下りてくる火の赤が、同じ色に見えた。
スズは、指を動かそうとした。柄を握った指は、動かなかった。




