第二十一話 トキワ
火が、石垣を越えた。
スズのいる段の端の株に、赤が移った。乾いた株が、ぱっと明るくなって、隣の株へ、また隣の株へ。田の上を、火の帯が、ゆっくりとこちらへ渡ってくる。
スズは、倒れたままだった。
頬の下の土が、温かくなりはじめていた。山の息ではなかった。火の熱だった。
左の袖を、子どもが握っていた。子どもの赤は、もう顔まで来ていた。頬が、透けていた。子どもは目を閉じて、袖を握っていた。逃げようとはしなかった。
「立て」
ナルカが言った。
スズは、指を動かそうとした。動かなかった。柄を握った指も、土についた膝も、自分のものではないように重かった。
「立てないか」
ナルカは、火のほうを見た。火の帯は、スズの足もとまで、あと十歩のところにあった。
「なら、聞け。一度しか言わん」
ナルカは、スズの顔の横に、膝をついた。
「このままなら、火がおまえを呑む。おまえが呑まれれば、剣も呑まれる。中の者も、一緒に散る。子どもたちも、先の妹も。全員だ」
スズは、目だけでナルカを見た。
「一人でいい」
ナルカの声は、低かった。
「一人を切り捨てれば、おまえは立てる。立てば、火を斬れる。その子も、宿せる。ほかの全員が、助かる」
ナルカの目が、倒れた刀身に落ちた。
白髪の顔に。
「今だ。でなければ、全員が一緒に散る」
◇
刀身の中は、静かだった。
マチが、姉の袖にしがみついていた。泣きやんでいなかった。しゃくりあげる声だけが、刃の中で鳴っていた。アユとホリは、刀身の端で、身を寄せ合っていた。
姉は、凍った顔のまま、老人を見ていた。
老人は、目を開けていた。スズを見ていた。
何も言わなかった。
「……なんで」
スズは言った。声が、土にこすれて、かすれた。
「なんで、あんな嘘を」
老人は、答えなかった。
「あなたの嘘で、姉さんは死んだ」
スズの声が、震えた。
「火の子は母を殺した。あなたがそう言って回ったから、里のみんなが信じた。だから、姉さんが本当のことを言っても、誰も信じなかった。火に呑まれたって言われた。だから、わたしが——」
言葉が、続かなかった。
「言って。なんで」
老人の唇が、動いた。
動いて、止まった。
固く、閉じた。
老人は、目をそらさなかった。スズを見たまま、何も言わなかった。組んだ両手が、膝の上で、白くなっていた。
言わないのだ、とスズは思った。
言えないのではない。言わないのだ。何代も嘘を唱えてきた口で、最後まで、訳を言わない。
火の帯が、足もとまで来ていた。草鞋の先が、熱くなった。火の粉が一つ、倒れたスズの髪に落ちた。ナルカが、それを指で払った。
「やり方は、教えてある」
ナルカが言った。
「刃を立てろ。そいつの顔を、刃に見ろ。そして、斬れ。抱えずに。手放すのではない。無かったことにするんだ」
スズの指が、柄の上で、わずかに動いた。
動いた。
スズは、残った力を、全部、指に集めた。柄を握った。剣を、土の上で、ずるずると引き寄せた。刃を、顔の前に立てた。
刀身に、顔が並んでいた。
老人の顔が、いちばん近くにあった。
老人は、スズを見ていた。刃の向こうから。怯えてはいなかった。怒ってもいなかった。何かを、待っている顔だった。
戸の前で、額を石につけた顔だった。
「……じいちゃん」
マチが、顔を上げた。
「おねえちゃん、なにするの」
スズは、答えなかった。
姉を見た。
姉は、老人を見ていた。凍った顔のまま。止めなかった。やめて、とも、スズ、とも、言わなかった。
老人の目が、一度だけ、マチのほうへ動いた。泣き腫らした顔を、しばらく見ていた。それから、スズに戻った。
抱えずに。
刃を入れるときに、斬る相手を、自分の中へ迎えない。
スズは、刀身の中の老人の顔を見た。見て、胸の中から、締め出した。戸の前の顔も、草鞋を拾った手も、子どもの背中を叩いていた手も。全部、締め出した。
締め出すのは、戸を閉めるのに似ていた。戸の前で一晩叩き続けた、あの黒い戸。今度は、スズが、内側から閉めていた。閂までかけて。
嘘を唱えた口だけを、見た。
剣を、振り下ろした。
鈴は、鳴らなかった。
刃は、何も斬らなかった。空を切って、田の土を打った。
刀身の中で、老人の顔が、消えた。
灯が吹き消されるのではなかった。暗くなって、光が流れこんでくるのでもなかった。
ただ、無くなった。
そこに顔があったことさえ、はじめからなかったように。
◇
体が、軽くなった。
背中から、何かが外れた。肩に食いこんでいた重さが、一度に抜けた。腕が、上がった。柄を握った指が、自分の指になった。
スズは、立ち上がった。
立てた。膝が伸びた。背中が伸びた。剣が、手の中で持ち上がった。四人ぶん。軽い、と思った。
一歩、踏み出した。鞘の先が、腿の裏を打たなかった。二歩。足が、地面から素直に離れた。
軽かった。
息が、胸の底まで入った。何日ぶりかわからなかった。冷えた夜の空気が、喉を通って、肺を満たした。気持ちよかった。山に入って、はじめて、こんなに息が吸えた。
体が、その軽さを喜んでいた。
口の端が、ゆるみかけていた。スズは、それに気づいて、唇を噛んだ。
スズは、剣を振った。足もとの火の帯に、刃を入れた。株の根もとの、山から落ちた火の粒を、次々に斬った。刃が、思うところへ行った。速かった。鈴が、澄んだ音で鳴り続けた。火の帯が、途切れた。途切れたところから、ただの火は、燃えるものを失って、しぼんでいった。
十も斬らないうちに、火は、スズの段から退いていった。
スズは、息を吐いた。
左の袖が、まだ引かれていた。
子どもが、袖を握っていた。赤は、額まで来ていた。スズが立ったとき、子どもの体は、袖ごと引き上げられて、地面から浮いていた。それでも、手は離れなかった。
いまなら、宿せる。
スズは、そう思った。思ってから、自分が何を勘定したのか、気づいた。
「……立てたな」
ナルカが言った。
よくやった、とは言わなかった。スズから目をそらして、上の段の、しぼんでいく火を見ていた。何度も見てきたものを、また見ている顔だった。
刀身を見た。
顔が、澄んでいた。
姉と、マチと、アユと、ホリ。四つの顔が、くっきりと並んでいた。ふちが溶けていなかった。混じっていなかった。戸の前を発ってから、こんなにはっきり映ったことはなかった。
老人の顔は、どこにもなかった。白髪の一筋さえ。
「……じいちゃん」
マチが、刀身の中を見回していた。
「じいちゃん?」
姉の袖から離れて、刀身の奥へ這っていった。老人のいたところへ。そこには、何もなかった。
「じいちゃん、どこ」
マチは、刀身の奥の、何もないところを叩いた。とん、とん。叩いて、待った。
「じいちゃん」
とん、とん。
何も、返ってこなかった。
マチが、声を上げて泣き出した。
「じいちゃん、かえってきて。じいちゃん。ぼく、おこってないから。うそでも、いいから」
泣き声が、刃の中で、どこにも行き場がないように響いた。
アユが、ホリの胸に顔を埋めた。
「じいちゃん、もう、いないの」
くぐもった声だった。誰も答えなかった。
ホリは、アユを抱えたまま、スズを見上げていた。怖がる目だった。
「……きった」
ホリが、小さく言った。
「よけないで、きった」
岩の中の絵の、逸れた刃のことを言っているのだと、スズにはわかった。
スズは、剣を下げた。足もとで、焦げた株が、まだくすぶっていた。
軽かった。まだ、軽かった。体は、まだ、その軽さを喜んでいた。泣き声を聞きながら。
その喜びが、スズの胃の底を、冷たく掴んだ。
三年前、長が命じたのは、これだった。宿さずに。何も残さずに。十四のスズの手は、それができなかった。
いま、できた。
何も残らなかった。重さも。顔も。訳も。
腰に、何かが下がっていた。
大人の草鞋だった。戸の前で拾って、腰に結びつけた。縄をからめたまま。老人が、マチの足に縛ってやっていた草鞋。
草鞋は、そのままそこにあった。重さは、ほとんどなかった。
持ち主は、どこにもいなかった。
「スズ」
姉の声がした。
姉は、泣き叫ぶマチを、膝に抱き寄せていた。マチの泣き声が、姉の胸の中で、くぐもっていた。凍った顔は、もう凍っていなかった。目は、乾いていた。
スズを見ていた。
「あんたは」
姉は言った。
「あの日の里と、同じことをした」




