第二十二話 勘定
火が退いたあとの棚田は、焦げた匂いがした。
上の三段が、黒くなっていた。株が燃えて、灰になって、夜風に少しずつ舞い上がっていた。灰だ、とスズは思った。野では、どれだけ掘っても出てこなかった灰が、いま、足もとに積もっている。
焼ければ、一晩で、これだけの灰が残る。七日七晩焼けた野に、灰の筋が一本もないはずがなかった。
子どもが、袖を握っていた。
額まで、赤かった。赤いところは、ほとんど透けていた。子どもの顔の向こうに、焦げた石垣が見えた。目を閉じて、唇を結んで、子どもは袖を握っていた。握る力だけが、まだ残っていた。
スズは、剣を見た。
四人ぶん。軽かった。まだ、軽かった。
老人ひとりぶんが、空いていた。
その空いたところに、この子が入る。
スズは、そう勘定した。
勘定してから、自分の胸の中で、何かがぞっと冷えた。一人を消して、空けたところに、もう一人を入れる。桶の水を替えるように。米櫃に米を足すように。
それでも、勘定は合っていた。
「空いたところに、入れろ」
ナルカが言った。焦げた石垣の上に、腰を下ろしていた。
「勘定は合う。いちばん重いのが抜けた。そのかわりに、軽いのを一人入れる。それでも、おまえは今朝より軽い」
ナルカの声は、畑の広さを測る男の声のようだった。
「それで頂まで持つかもしれん。持たないかもしれん。だが、少なくとも、ここで座りこんで焼けることはない」
正しかった。スズは、それが正しいことを知っていた。
この子を宿しても、立てる。宿さなければ、この子は今夜のうちに燃えつきる。
「……ごめん」
スズは、子どもに言った。誰に何を謝っているのか、自分でもわからなかった。
剣を、抜いた。すっと抜けた。渋らなかった。鈴が鳴った。
子どもの胸の前に、刃を当てた。
「……はなさない」
子どもが、目を閉じたまま言った。
「うん」
スズは言った。
「離さなくていい」
なぞった。
子どもの形が暗くなり、光が、刃を滑って上ってきた。
袖が、軽くなった。
焦げて穴のあいた藍の布が、スズの腕に垂れ下がった。握っていた指の形に、黒く抜けていた。
◇
剣が、重くなった。
抜けていた重さが、半分戻ってきた。腕が、わずかに下がった。膝は、折れなかった。スズは、立っていた。
刀身を見た。
五つの顔。姉、マチ、アユ、ホリ、そして新しい子。
さっきまで澄んでいた刀身が、また曇っていた。ふちが溶けて、隣へ滲んでいた。澄んだぶんだけ、また曇った。
新しい子は、刀身の中で、姉の手を握っていた。刃の中に入ると、その手の赤は消えていた。透けてもいなかった。小さな、ふつうの子どもの手だった。
スズは、それを見て、少しだけ息ができた。
その子は、姉の指を一本、小さな手で、しっかりと握りしめていた。
姉は、その手を払わなかった。膝の上で泣き続けるマチを抱えたまま、新しい子に指を握らせていた。
「……なまえ」
マチが、しゃくりあげながら言った。
「その子の、なまえ」
姉を見上げていた。
姉は、答えなかった。
唇が、動いた。声は、出なかった。二つの音の形に、唇が動いて、閉じた。
「……ニギ?」
マチが、姉の唇を読んだ。
姉は、小さくうなずいた。
「ニギ。にぎってるから」
マチは、涙を手の甲で拭いながら、新しい子に言った。
「ニギ。ぼく、マチ」
新しい子は、姉の指を握ったまま、マチを見た。何も言わなかった。握る指に、少し力をこめた。
スズは、刀身の中の姉を見ていた。
「姉さん」
姉は、スズを見なかった。
顔を、刀身の奥へ向けていた。スズのいる、刃の外とは反対のほうへ。
「姉さん」
答えは、なかった。
「何か言って」
スズは、刀身に顔を寄せた。
「怒ってもいい。何を言ってもいい。黙らないで」
姉の肩が、刃の奥で、わずかに動いた。振り向くかと思った。
振り向かなかった。
あの日の里と、同じことをした。
姉の最後の言葉が、スズの耳の中に残っていた。拝殿で、姉を見ずに、サヤは火に呑まれたと言った長の顔が、浮かんだ。訳を聞かなかった顔。聞かずに、裁いた顔。
スズは、老人に訳を聞いた。老人は、言わなかった。言わないから、斬った。
聞いたのと、聞かなかったのと、何が違ったのか。スズには、もう、わからなかった。
◇
夜のうちに、スズは棚田を上がった。
石垣を、越えた。片足を上げると、上がった。四段目。五段目。昨日から膝ひとつ上がらなかった石垣が、いまは、息を止めずに越えられた。
一つ越えるたびに、胸の底が冷えた。
足が、この軽さを覚えてしまったのがわかった。次に重くなったとき、足は、いまの軽さを思い出す。思い出して、また欲しがる。スズには、それがわかった。
楽だった。
その楽さが、どこから来たのか、スズは知っていた。
上の段の、焦げた火床の石の箱のそばを通った。縁に、火守の印が刻んであった。丸の中に、三本の線。スズは、目をそらした。
「……じいちゃん」
背中の鞘の中から、マチの声がした。
泣きやんでいなかった。泣き声は小さくなっていたが、やまなかった。
「じいちゃん。じいちゃん」
とん、とん。
刀身の奥の、何もないところを、叩いているのだとわかった。
とん、とん。
叩いて、待っていた。戸の前で、母を待っていたのと同じように。叩いては、首をかしげて、耳を澄ませているのがわかった。
「マチ」
スズは、背中に向かって言った。
「……もう、いないの」
「いるもん」
マチは言った。
「叩いたら、来るもん。母さんも、叩いたら、来てくれた。じいちゃんも」
とん、とん。
スズは、何も言えなかった。
腰で、大人の草鞋が揺れていた。縄をからめたまま。歩くたびに、スズの腿に当たった。重さは、ほとんどなかった。当たるたびに、そこにあることがわかった。
外そうかと思った。
石垣の上で、立ち止まった。腰の縄に、指をかけた。
「……じいちゃんの、わらじ」
鞘の中から、マチの声がした。刃の中から、見えているのだった。
「それ、じいちゃんが、ぼくに、はかせてくれた」
スズの指が、縄の上で止まった。
「すてないで」
マチの声は、泣いていなかった。泣き疲れた声だった。
「すてない」
スズは、縄から指を離した。結び目を、固く結び直した。
外せなかった。
◇
夜明け前に、棚田のいちばん上に着いた。
上には、また斜面が続いていた。暗い森だった。黒々とした木々が、山の肩を覆っていた。
森の入口から、冷たい風が吹いてきた。棚田の冷たさとは違った。湿って、重くて、苔と土の匂いがした。木々の奥は、夜明け前の空よりも暗かった。山の息が、森の奥から、ゆっくりと吐き出されていた。
スズは、最後の石垣の上で、振り返った。
棚田が、下へ広がっていた。焦げた上の三段と、冷えた下の段。石の箱が、段ごとに並んでいた。その下に、岩の斜面。草の海。杉の森。
里は、見えなかった。夜明け前の霧が、麓を覆っていた。霧の上に、火封山の肩だけが、黒く浮いていた。東の空の端が、灰を溶かしたような色に変わりはじめていた。
「楽になったろう」
ナルカが、隣に立っていた。
スズは、答えなかった。
「一度やれば、二度目は迷わん」
ナルカは、暗い森のほうを見ていた。
「弟も、妹も、一度目は泣いた。二度目は、泣かなかった。三度目には、斬る前から勘定をしていた」
ナルカは、少し黙った。
「それで長く持った者もいる。持たなかった者もいる。どちらにしても、楽にはなった」
「次は、楽になる」
責める声ではなかった。慰める声でもなかった。弟や妹にも、同じ声で言ったのだろうと、スズは思った。
ナルカは、それだけ言うと、暗い森の中へ先に入っていった。白い衣が、木々のあいだに、すぐ見えなくなった。雷の匂いだけが、しばらく残っていた。
スズは、剣を背から下ろした。わずかに抜いた。
五つの顔が、曇った刀身の中に並んでいた。マチは、刀身の奥を叩いていた。ニギは、姉の指を握っていた。アユとホリは、身を寄せて、眠ったふりをしていた。
「じいちゃん、ぼくの手、なでてくれた」
ホリが、目を閉じたまま、アユにささやいた。
「われた爪のとこ。いたくないか、って」
アユは、うん、とだけ言った。
姉は、顔を背けていた。
スズは、刀身に、指を当てた。冷たい鋼だった。姉の頬のあるところに、指先が触れた。
姉は、振り向かなかった。
とん、とん。
マチが、何もないところを、叩き続けていた。




