第二十三話 奥山
森の中には、朝が来なかった。
木々が、高すぎた。幹は、大人が五人手をつないでも囲めないくらい太く、枝は、はるか上で重なり合って、空をふさいでいた。日が昇ったはずなのに、足もとは、夕暮れのように薄暗かった。
地面は、苔だった。
ところどころ、倒れた木の上に、白い茸が生えていた。薄暗がりの中で、茸の傘だけが、ぼんやりと青白く光っていた。
厚い苔が、根も、石も、倒れた木も、区別なく覆っていた。踏むと、草鞋が沈んだ。沈んで、音がしなかった。
何の音もしなかった。
鳥も、虫も、風も。草の海では、草の擦れる音が寄せては返していた。岩の斜面では、小石が鳴った。棚田では、枯れた株が鳴った。ここでは、何も鳴らなかった。山の息だけが、苔の下から、ゆっくりと、上がって、下がっていた。
スズは、歩いた。
足は、上がった。棚田を越えたときのまま、軽かった。息を止めなくても、倒れた木をまたげた。
座りこみたいとは、思わなかった。座りこむ理由が、なくなっていた。
軽いのに、どこへ向かって歩いているのか、わからなかった。
上だ、とスズは自分に言った。アユに、そう約束した。上だ、と覚えていると。
上へ行って、何をするのか。
頂の火を、斬る。母の仇を討つ。スズは、口の中で、その言葉を探した。母の仇。言葉は、あった。けれど、それを言うとき、足もとが定まるあの感じは、もう来なかった。野は焼けていなかった。語りは嘘だった。嘘を広めた口は、スズが消した。
消して、軽くなった。
静かすぎて、耳の奥で、声がした。
帰れ。
しわがれた、よく通る声。戸の前で、何度も聞いた。岩の斜面で、背中の鞘の中から聞いた。まだ間に合う。この上には、何もない。
もう、誰も、帰れとは言わなかった。
スズは、歩いた。
◇
剣は、静かだった。
夜明け前まで、マチは刀身の奥を叩いていた。とん、とん。空が白むころ、その音がやんだ。泣き疲れて、眠ったのだとわかった。
それから、剣の中からは、何の声もしなかった。
スズは、一度だけ、歩きながら剣をわずかに抜いた。
刀身に、五つの顔があった。ふちが溶けて、隣と混じっていた。マチは、ニギと並んで、丸くなって眠っていた。ニギは、眠りながらも、マチの指を握っていた。アユとホリは、身を寄せて、目を閉じていた。
姉は、背を向けていた。
ゆうべから、ずっと、背を向けていた。刀身の奥のほう、刃の外とは反対のほうへ。
スズは、何も言わずに、剣を納めた。鈴が、苔に吸われて、ほとんど聞こえなかった。
ナルカは、先を歩いていた。ときどき、木の陰で立ち止まって、スズが追いつくのを待っていた。スズが追いつくと、また先へ行った。何も言わなかった。
誰も、何も言わなかった。
大きな倒木の前で、ナルカが待っていた。スズが追いつくと、ナルカは倒木に腰を下ろした。スズも、少し離れて座った。
「……弟や、妹は」
スズが言うと、ナルカは顔を上げた。スズのほうから、ナルカ自身のことを聞いたのは、はじめてだった。
「どんな人たちだったの」
ナルカは、しばらく黙っていた。
「頂の手前で、話してやる」
「どうして、いまじゃないの」
「いま話せば、おまえは、また重くなる」
ナルカは、立ち上がった。
「軽いうちに、歩け」
それだけ言って、また先へ行った。
スズの中も、静かだった。
三年、刀身の中には姉がいた。姉が黙っていても、姉がいることは、わかっていた。重さで。気配で。いまも、重さはある。気配もある。けれど、スズの中の、何かが抜けていた。
抜けたところに、何も入ってこなかった。
空っぽだった。
軽いのは、そのせいかもしれなかった。
◇
昼を過ぎたころ、森の奥に、ほのかな赤が見えた。
苔の上に、光が落ちていた。木々のあいだから、ぼうっと、熾火のような赤が滲んでいた。
スズは、苔を踏んで、そちらへ近づいた。
大きな木の、根もとだった。根が、地面から持ち上がって、洞をつくっていた。人がひとり、しゃがんで入れるくらいの洞だった。
その中に、子どもが座っていた。
膝を抱えていた。マチやアユより、少し大きかった。痩せていた。腕も脚も、枝のように細かった。
腹だけが、光っていた。
ぼろ布を巻いた腹の、布の下から、赤い光が漏れていた。息をするたびに、光が、明るくなったり、暗くなったりした。
子どもは、苔をむしって、口に入れていた。
噛んでいた。飲みこんでいた。それから、またむしって、口に入れた。
「……何を、してるの」
スズが言うと、子どもは、顔を上げた。
頬がこけて、目が落ちくぼんでいた。唇が、苔の緑で汚れていた。
「おなか、すいた」
子どもは言った。
「ずっと、すいてる。たべても、たべても、すいてる」
スズは、懐から、干し飯の包みを出した。残り少なかった。山に入ってから、スズ自身は、ほとんど食べていなかった。腹が減っていることに、いま、子どもの言葉で気づいた。
一握り、出して、子どもの前に差し出した。
子どもは、スズの手のひらを見た。それから、干し飯をつまんで、口に入れた。
噛んだ。飲みこんだ。
干し飯が、子どもの喉を通って、腹の赤い光の中へ落ちていくのが、見えた。
そして、腹の光を抜けて、背中から、苔の上に、ぱらりと落ちた。
干し飯の粒が、苔の上に散らばっていた。濡れてもいなかった。噛まれた跡さえ、なかった。
子どもは、自分の背中の下に落ちた粒を、見もしなかった。
スズは、苔の上の粒を、一つずつ拾い集めて、包みに戻した。指が、震えていた。
「すいてる」
子どもは言った。また、苔をむしった。
「したから、なにか、くるの」
子どもは、苔を噛みながら言った。
「あったかいの。ときどき、くる。おなかの、ここに。でも、たりない。ずっと、たりない」
子どもは、腹の赤い光を、両手で押さえた。
背中の鞘の中で、誰かが目を覚ました気配がした。
「……おなか、すいてるの?」
マチの声だった。眠そうな声だった。
「ぼく、まえ、すいてなかった。まってた」
「ぼくは、あるいてた」
アユの声がした。
「ぼくは、かいてた」
ホリが言った。ニギは、何も言わなかった。握っている手に、力をこめたのだろうと、スズは思った。
洞の中の子どもは、鞘の中の声には、顔を上げなかった。
姉の声だけが、しなかった。姉は、いまも背を向けているのだろうと、スズは思った。
「……五つ目だ」
ナルカが、スズの後ろに立っていた。
「腹だ」
ナルカは、洞の子どもを見下ろした。
「宿すか。六人目だ。いまのおまえなら、立っていられる」
スズは、答えなかった。いまのおまえなら。その言葉が、どこから来たのか、スズは知っていた。
スズは、子どもの腹を見た。
赤い光の、真ん中あたり。ぼろ布の結び目の下から、何かが垂れていた。
紐だった。
細い、白っぽい紐が、子どもの腹から垂れて、洞の底の地面に落ちていた。落ちたところで、苔の下へ潜っていた。苔の下の、土の下へ。
スズは、しゃがんだ。
紐の先を、目でたどった。紐は、洞の底の土に潜り、木の根と根のあいだを縫って、見えなくなっていた。地面の下へ。ずっと、下へ。
紐は、かすかに光っていた。子どもの腹と同じ赤が、紐の中を、ゆっくりと下へ流れていた。
スズは、紐に、指を触れた。
温かかった。
温かくて、指先に、何かが伝わってきた。
とくん。
スズは、指を離さなかった。
とくん。
間があって、また、とくん。
山の息より、ずっと速かった。胸の奥で、誰かの心の臓が打つような。
この打ち方を、スズは知っていた。
戸の前で、一晩叩き続けた夜明け。額をつけた板の温かさが、一度だけ、強くなった。胸を叩かれたように、どくん、と。あのとき、戸の奥から返ってきたのと、同じ打ち方だった。
「それ、さわると、あったかいでしょ」
洞の子どもが言った。苔を噛む口を、止めていた。
紐の中を、ずっと下のほうから、何かが、上ってきていた。
「……これ、なに」
スズは、子どもに聞いた。
子どもは、苔を噛みながら、自分の腹の紐を見下ろした。
「わかんない」
子どもは言った。
「うまれたときから、ついてる」
スズは、自分の腹に、手を当てた。へその上に。そこにも、昔は、同じものがついていたはずだった。誰につながっていたのかは、覚えていない。
ナルカが、紐を見て、目を細めた。何も言わなかった。
とくん。
スズの指の下で、紐が、また打った。




