第二十四話 へその緒
「この先に、何があるの」
スズは、紐を指でつまんだまま聞いた。
洞の子どもは、苔を噛むのをやめていた。自分の腹から垂れる紐を、じっと見下ろしていた。
「……母さん」
子どもは言った。
「緒のさきに、母さん、いる」
スズの指が、紐の上で止まった。
「どうして、わかるの」
「あったかいの、そこから、くるもん」
子どもは、紐を両手で包んだ。
「ずっと、した。ずっと、ずっと、した。ぼく、いきたい。でも、ここから、うごけない。緒が、みじかいの」
子どもは、紐を引いてみせた。紐は、洞の底の土に潜ったまま、ぴんと張って、それ以上は伸びなかった。
とくん。
紐が、打った。
背中の鞘の中で、マチの声がした。
「……母さん、いるの?」
眠そうな声が、急に、はっきりした。
「母さん、いるの? した?」
「死んだ」
ナルカが言った。
「語りでは、そうなっている。火の子が、母を殺した」
「語りは、嘘だった」
スズは言った。自分の声が、思ったより強く出た。
「野は、焼けてなかった」
ナルカは、答えなかった。
スズは、立ち上がった。紐が、洞の底の土に潜るところを見た。根と根のあいだ。土の割れ目。スズは、剣を背から下ろして、割れ目の縁の根に手をかけた。
根が、動いた。
山の息に合わせて、根と根のあいだが、ゆっくりと広がった。広がって、また狭まる。広がったとき、割れ目の奥に、暗い穴が見えた。温かい風が、そこから吹き上がってきた。
人が、這って入れるくらいの穴だった。
「行くのか」
ナルカが言った。
「行く」
「上へ行くんじゃなかったのか。上だと、覚えておくと、野の子に約束したろう」
スズは、ナルカを見た。
「上へ行く。その前に、下を見る」
洞の子どもが、スズの袖を見上げていた。焦げて穴のあいた、藍の袖を。
「つれてって」
「……あなたは、動けないんでしょう」
「うん」
子どもは、うつむいた。
「見てくる」
スズは言った。
「下に何があるか、見て、戻ってくる。戻ってきたら、話す」
子どもは、しばらくスズの顔を見ていた。それから、こくりとうなずいて、また苔をむしった。
ナルカは、しばらくスズを見ていた。それから、黙って、穴の縁にしゃがんだ。
◇
穴の中は、温かかった。
這って進んだ。紐が、スズの顔の横を、先へ先へと続いていた。かすかな赤い光が、紐の中を下へ流れていて、それが、ただ一つの明かりだった。
穴は、狭かった。背中の剣が、天井の土をこすった。スズは、剣を体の前に抱えて、肘で這った。
後ろで、ナルカも這っていた。白い衣の裾が、土で黒くなっていた。
「天つ座の者が、山の腹を這うとはな」
ナルカは、ひとりごとのように言った。それきり、黙って這った。
壁が、ふくらんで、しぼむ。天井が、下りてきて、上がる。息をする体の中を、這っているのだった。
やがて、穴が広がった。
立てるくらいの高さになった。スズは、剣を背に戻して、立ち上がった。
道は、下っていた。急だった。足もとの土は、湿っていて、ところどころ、つるつるとすべった。壁に手をついて、下りた。
壁が、温かかった。温かさが、下へ行くにつれて、強くなった。
一度、足がすべった。
体が、前へ投げ出された。背中の剣が、重さで、スズをさらに前へ引いた。暗い下り坂が、目の前に迫った。
腕を、つかまれた。
ナルカだった。スズの二の腕を、片手でつかんで、引き戻した。剣には、触れなかった。
「……ありがとう」
「下を見るんだろう。落ちて見るな」
ナルカは、手を離した。
紐は、太くなっていた。
洞の子どもの腹から出たときは、指くらいの細さだった。いまは、スズの手首くらいの太さがあった。赤い光も、強くなっていた。紐の中を流れる赤が、ゆっくりと、下から上へ、上から下へ、行き来していた。
とくん。
音が、していた。
紐に触れなくても、聞こえた。壁から。足もとから。下のほうから。
とくん。とくん。
「……おねえちゃん」
背中の鞘の中で、マチがささやいた。
「これ、しってる」
スズは、足を止めた。
「母さんの、おと」
マチの声は、震えていなかった。確かめるような声だった。
「叩いて、待ってたとき。母さんの、なかで。ずっと、きこえてた。このおと」
スズは、息をのんだ。
母さんは、叩いて、待ってくれた。戸の前で、マチはそう言った。ぼくが、とん、って返すまで。
スズは、そのとき、何の話なのかわからなかった。
母の腹の中で、心の臓の音を聞いていた子が、腹の外から叩かれて、とん、と返していたのだ。
とくん。
◇
道が、終わった。
足もとが、なくなっていた。スズは、壁に手をついたまま、縁から下をのぞいた。
穴だった。
縦に、まっすぐ、下へ落ちていた。底は、見えなかった。暗かった。どこまでも、暗かった。その暗さの中を、紐が、まっすぐに下りていた。太く、赤く光りながら。光は、下へ行くにつれて小さくなり、やがて、暗さに溶けて見えなくなった。
温かい風が、穴の底から吹き上がってきた。
とくん。
音は、底からだった。
「……山の、底」
スズは言った。
ナルカが、スズの後ろから、穴をのぞいた。何も言わなかった。
「……母さん」
スズは、穴に向かって言った。自分でも、なぜそう呼んだのか、わからなかった。
声が、穴の壁に当たって、下へ落ちていった。何度も、何度も、小さくなりながら。やがて、聞こえなくなった。
答えは、なかった。とくん、という音だけが、変わらずに打っていた。
「母さーん」
背中の鞘の中で、マチが叫んだ。
「マチだよ! 叩いたら、来てくれるんでしょ!」
とくん。
音は、変わらなかった。
スズは、紐を見ていた。洞の子どもの腹から、ここまで。そして、ここから、底まで。
緒の先に、母さん、いる。
底で、何かが生きていた。心の臓を打って。温かさを、この紐に流して。腹を空かせた子どもに、足りないながらも、あったかいのを送って。
母は、死んでいなかった。
母は、山を降りたのだ。
山の底へ。
スズは、縁に膝をついた。
語りでは、母は死んだ。火の子が、母を焼き殺した。里の者は、みな、母の末を名乗る。母の社に、火を入れない。火は、母の仇だから。
スズは、母の仇を討ちに来た。
その母が、ここにいた。
この子どもたちの、母が。マチが叩いて待った、アユが歩いて探した、ホリが刻みながら手を伸ばした、ニギが指を握っていた、洞の子が紐でつながっている、母が。
里の、母が。
同じ母だった。
なら、火の子は、母を殺していない。
なら、頂で火の子の首を落とせと言った長の言葉は、何のためのものだったのか。
あれは子どもだ、と言った姉は。
スズは、そこで考えるのをやめなかった。やめられなかった。もう、どこにも逃げる言い訳が、残っていなかった。
「母さん、いるって、いったでしょ」
背中で、マチが言った。泣いていなかった。怒ってもいなかった。当たり前のことを、もう一度教えるような声だった。戸の前で、母さんは、死んでないよ、と言ったときと、同じ声だった。
「……うん」
スズは言った。
「言ってた」
スズは、剣を背から下ろした。わずかに抜いた。
刀身の中で、マチが、刃のふちまで身を乗り出していた。アユも、ホリも、ニギも。穴の底を、刃の中から、のぞきこもうとしていた。
姉は、背を向けていた。
けれど、その肩が、わずかに、こちらへ傾いているように見えた。姉の片手が、口もとを押さえていた。
「母が生きていても」
ナルカが言った。穴の縁に立って、底を見下ろしていた。
「火は降る。里は焼ける。それは変わらん」
「変わる」
スズは言った。
「わたしは、仇を討ちに来た。討つ仇は、いなかった」
仇討ちではなかった。
迎えに行くのだ。
スズは、そう思った。思ってから、その言葉の重さに、胸が詰まった。
迎えに行って、どうするのか。わからなかった。母がなぜ山の底にいるのかも。なぜ火が降るのかも。わからないことばかりだった。
それでも、戸の前を発ってから、はじめて、足もとが定まった気がした。
穴の底から、風が吹き上がってきた。温かい風だった。
その風の中に、スズは、別の音を聞いた。
とくん、という音の、ずっと下。
水の音だった。
ちょろちょろと、細く。どこか遠くで、水が、流れこんでいるような音だった。
スズは、耳を澄ませた。とくん。その下で、ちょろちょろ。
母の心の臓の音のそばで、水が、何かを確かめるように鳴っていた。




