第二十五話 知っていた者
穴を這い上がるのに、下りるときの倍かかった。森に出ると、薄暗がりは、夜の暗さに変わっていた。木々のあいだで、白い茸だけが、ぼんやりと光っていた。
洞に戻ると、子どもは、まだ苔を噛んでいた。
スズが穴から這い出してくるのを見て、口を止めた。苔の緑で汚れた唇が、何か聞きたそうに、開いたまま止まった。
「いた」
スズは言った。膝が、土で黒くなっていた。
「母さん、いた。下に。ずっと、下に」
子どもの目が、大きくなった。
「……いた?」
「音が、聞こえた。とくん、って。あなたの紐の先で」
子どもは、自分の腹から垂れる紐を、両手で握った。
「母さん、いきてる?」
「生きてる」
スズが言うと、子どもは、紐を握ったまま、洞の底に額をつけた。肩が、震えていた。泣いているのか、笑っているのか、わからなかった。
背中の鞘の中で、子どもたちの声が重なった。
「いきてるって!」
「……いきてる」
「いきてた」
マチと、アユと、ホリ。ニギの声は、しなかった。握っている手に、力をこめたのだろう。
◇
スズは、洞の前の苔の上に、腰を下ろした。
山の底に、母がいる。生きて、心の臓を打っている。子どもたちに、温かいものを送っている。
なら、なぜ、誰もそれを知らなかったのか。
知らなかったのではない。
スズは、背中の剣の重さを感じながら、それを考えた。
帰れ。
戸の前で、老人は、何度もそう言った。この先には、何もない。火の子は母を殺した。殺したものが、この山にいる。それだけの山だ。帰れ。
戸が開いた朝、山が息をしていた。老人は、封ではない、と言った。眠りだ。起こすな。
岩の斜面で、背中の鞘の中から言った。まだ間に合う。帰れ。この上には、何もない。
棚田で、火守がなぜ火を守るのをやめたのかと聞いたとき、老人は言った。火を、怖がるようになったからだ。
そして、嘘を言い広めたのは、わしだ、と。
老人は、知っていた。
母が、死んでいないことを。山の底で、眠っていることを。眠りだ、起こすな。あの言葉は、母のことだったのだ。
知っていて、誰も近づけないように、帰れと言い続けた。何代も。里を回って、あの山に近づくなと、子どもたちに唱えさせた。
なぜ。
わからなかった。
わかる者は、もう、いなかった。
スズは、腰の草鞋に手を当てた。縄をからめたまま。重さは、ほとんどなかった。
「……わたしが、消した」
声に出すと、苔に吸われて、ほとんど聞こえなかった。
「知ってた人を。わたしが」
答えを持っていた者を、スズは、嘘つきとして消した。訳を言わないから、斬った。言わない訳を、確かめもしないで。
聞くには、聞いた。なんで、と。一度だけ。
聞いて、待たなかった。
戸の前で、一晩、叩いて待った。叩いて、待って、夜明けに戸が開いた。あの老人の前で、スズは、それを覚えたはずだった。棚田では、火が来ていた。待てなかった。待たなかった。
姉には、聞かなかった。老人には、聞いて、待たなかった。
スズは、剣を背から下ろした。わずかに抜いた。
刀身の奥の、老人のいたところを見た。何もなかった。マチが、叩いていたところ。ただの鋼だった。
最後に、老人は、スズを見ていた。刃の向こうから。怯えてもいなかった。怒ってもいなかった。何かを、待っている顔だった。
何を待っていたのか。
スズが、もう一度、なぜと聞くのを。それとも、斬られるのを。それとも、訳を言わなくても、いつかスズが自分で見つけるのを。
わからなかった。どれも、もう、確かめようがなかった。
「姉さんは」
スズは、刀身の奥の、背中に向かって言った。
「知ってたの。母さんが、生きてること」
姉の背中は、動かなかった。
答えは、なかった。
◇
「じいちゃん、しってたの?」
マチが、刀身の中で、スズを見上げていた。
「母さん、いきてるって、しってたの?」
「……たぶん」
「でも、じいちゃん、ぼくに、いった」
マチの声が、小さくなった。
「おまえの母は、しんだ。おまえが、ころしたって。なんども、いった」
スズは、息を止めた。
戸の前で、老人は子どもの背中に言った。来ん。何度言えばわかる。おまえの母は、死んだ。おまえが殺した。スズに言ったときより、少しだけ低い声で。
子どもにまで。
知っていて、あの子にまで、そう言い続けた。叩くのをやめさせるためなのか。待つのをやめさせるためなのか。
それなのに、夜の火に焼かれるこの子を、額を石につけて、頼むと言った。
「なんで、じいちゃん、うそ、いったの」
マチが聞いた。
スズは、答えられなかった。
答えを知っている者は、スズが、無かったことにした。
「あなたは、知ってたの」
スズは、ナルカに聞いた。
「母が、生きてること。天つ座は」
「知らん」
ナルカは、少しも迷わずに言った。
「天つ座では、火の子は斬るものだ。母は、死んだものだ。それで足りた。誰も、それ以上は問わなかった」
ナルカは、苔の上の、洞の子どもを見た。
「おれも、問わなかった」
その声が、ほんのわずかに、低かった。
「消えた者の訳は、消えた者と一緒に消える」
ナルカは、洞の横の木に背をあずけた。
「それが、作法だ」
スズは、ナルカを見た。
「後悔するな」
ナルカの声は、平らだった。
「後悔も、重さになる。おまえの剣は、それも量る」
正しかった。スズは、それが正しいことを、もう知っていた。
姉は、背を向けていた。
けれど、背を向けたまま、耳を澄ませているのがわかった。刀身の奥で、姉の肩が、じっと動かなかった。
◇
洞の子どもが、顔を上げた。
額に、苔がついていた。腹の赤い光が、さっきより強くなっていた。強くなって、ぼろ布の結び目のあたりが、透けはじめていた。
「……おなか、あつい」
子どもは言った。
「あったかいのが、きても、あつい。たりないのに、あつい」
子どもの腹から、紐を伝って、赤が、上へ上へと、這い上がってきていた。胸へ。肩へ。
漏れた火が、この子を焼いていた。
洞の中の苔が、子どもの腹の熱で、ちりちりと縮れはじめていた。白い茸が一つ、赤い光に照らされて、しおれていった。
スズは、立ち上がった。
剣を、抜いた。すっと抜けた。鈴が鳴った。苔に吸われて、小さな音だった。
「宿すのか」
ナルカが言った。
「宿す」
スズは言った。
「母さんのところへ、連れていく。あなたも」
子どもは、紐を握ったまま、スズを見上げた。
「……いたい?」
「いたくない」
子どもは、うなずいた。
「母さん、あったかい?」
子どもが聞いた。
「……たぶん」
スズは言った。とくん、という音を思い出していた。温かい風を。
「うん。あったかいと思う」
スズは、刃を、子どもの胸の前に当てた。なぞった。
子どもの形が暗くなり、光が、刃を滑って上ってきた。
洞の底の紐が、ふっと暗くなった。
赤い光が消えて、白っぽい、ただの紐になった。紐は、しばらく、洞の底に横たわっていた。それから、ゆっくりと、土の中へ引いていった。根と根のあいだへ。下へ。やがて、見えなくなった。
スズは、思わず手を伸ばした。指先に、紐の端がかすめた。冷たかった。つかむ前に、土の中へ消えた。
◇
剣が、重くなった。
腕が、下がった。膝が、少しだけ沈んだ。倒れはしなかった。
岩の手を宿したときと、同じくらいの重さだった。
刀身を見た。
六つの顔。ふちが溶けて、混じっていた。姉の目が、ホリの額の上にあった。アユの声で、誰かが笑った。口を動かしているのは、ニギだった。
新しい子が、刀身の中で、自分の腹を押さえていた。
「……すいてない」
新しい子は、不思議そうに言った。
「おなか、すいてない。あったかい」
「なまえ」
マチが、姉の袖を引いた。
「このこの、なまえ」
姉は、背を向けたまま、少しだけ振り向いた。スズのほうではなく、新しい子のほうへ。
唇が、声を出さずに、二つの音の形に動いた。
「……クウ?」
マチが読んだ。
「たべてばっかり、だったから?」
姉は、小さくうなずいた。それから、また、背を向けた。
「クウ。ぼく、マチ」
新しい子は、マチの顔を見て、それから、自分の腹を、もう一度押さえた。
「六人目だ」
ナルカが言った。
「頂までに、門はあと三つ。あと三人、宿すつもりか」
スズは、答えなかった。
スズは、剣を納めた。重かった。
腰で、草鞋が揺れた。
知っていた者は、もう、どこにもいなかった。




