第二十六話 闇の水
森の奥で、道は、山の中へ入っていった。
大きな岩の割れ目だった。苔の地面が、割れ目の前で途切れて、その先は、黒い口を開けていた。冷たい風が、そこから吹き出していた。棚田の冷たさとも、森の湿った冷たさとも違った。石の奥から来る、底のない冷たさだった。
「六つ目の門だ」
ナルカが言った。
スズは、割れ目の中へ踏みこんだ。
三歩で、光がなくなった。
振り返ると、割れ目の口が、ぼんやりと灰色に見えた。前を向くと、何も見えなかった。目を開けても、閉じても、同じだった。
スズは、左手を岩の壁に当てた。右手で、剣の柄を握った。一歩ずつ、足で地面を探りながら、進んだ。
ぽた、と音がした。
水の音だった。どこか上のほうから、雫が落ちている。ぽた。しばらくして、また、ぽた。
岩の壁は、濡れていた。指の下を、冷たい水が、細く伝っていた。
「……くらい」
背中の鞘の中で、マチの声がした。
「おねえちゃん、くらい」
「うん」
「こわい」
「……うん」
スズも、怖かった。言わなかった。
剣を、わずかに抜いてみた。刀身が、光るかと思った。光らなかった。刃の中の顔も、見えなかった。鈴の音だけが、闇の中で、ちりと鳴った。
「みんな、いる?」
スズは、闇に向かって聞いた。
「いる」
「いる」
「……いる」
「いる。おなか、すいてない」
マチ、アユ、ホリ、クウ。ニギは、いつものように、何も言わなかった。
姉の声は、しなかった。
スズは、剣を納めた。
◇
どれくらい歩いたのか、わからなかった。
闇の中では、時がたつのもわからなかった。足の数を数えようとして、百を過ぎたところで、わからなくなった。岩の壁は、指の下で、ときどき、ゆっくりとふくらんで、しぼんだ。山の息は、ここにも届いていた。鉄のような、湿った匂いがした。
足もとが、濡れてきた。草鞋の底から、水がしみた。やがて、水が、踝まで来た。冷たかった。流れていなかった。溜まった水だった。
スズは、足を止めた。
前のほうで、水が鳴っていた。
ぽた、という雫の音ではなかった。もっと大きな、何かが水の中で身じろぎするような音だった。水面が、揺れていた。揺れが、スズの踝のところまで、波になって寄せてきた。
闇の中に、何かが立ち上がった。
見えなかった。けれど、わかった。水が、盛り上がって、人の背丈くらいの高さまで立ち上がる音がした。水が、形を持つ音。二つ。
ほのかに、光った。
水そのものが、青白く光っていた。立ち上がった二つの水の柱が、それぞれ、人の形になっていた。髪の長い、細い体。水でできていた。顔の輪郭が、ゆらゆらと揺れて、定まらなかった。
二つとも、同じ顔をしていた。
「——兄上」
右の形が言った。声が、水の底から響くように、低く、くぐもっていた。
「兄上が、人の子を連れて、山の腹にいる」
左の形が言った。こちらは、少し高い声だった。
スズの後ろで、ナルカが、息を吐いた。
「クラセ。アメツ」
ナルカは、二つの名を、一つずつ言った。
「……久しいな」
「久しい」
「久しい」
二つの形が、同じように首をかしげた。
スズは、ナルカを振り返った。闇の中で、ナルカの顔は、水の光に青白く照らされていた。
「同じ刃の血から生まれたのは、おれだけではないと言ったろう」
ナルカは、スズを見ずに言った。
「これが、おれの弟妹だ」
「……弟妹」
スズは、ナルカの横顔を見た。
「看取ってきたって、言ったのは」
「あれは、剣の弟妹だ。継ぎ手たちだ」
ナルカは、水の形から目を離さなかった。
「こいつらは、剣を持たん。潰れもしない。水は、潰れようがない」
◇
「火を斬る者」
右の形が、スズに顔を向けた。クラセ、とナルカが呼んだほうだった。顔の輪郭は、定まらないのに、見られているのがわかった。
「おまえに、頼みがある」
「頼み」
「火を、消したい」
左の形が、アメツが、言った。
「われらは、水だ。水は、火を消す。あの日から、ずっと、そうしたかった」
「われらも、あの日、生まれた」
クラセが言った。
「刃についた血から。燃える小屋の、床の上で。生まれてはじめて見たのが、火だった。熱かった。水は、火を消すために生まれた。そう思った」
水の形の輪郭が、わずかに震えた。
「だが、底への道が、ふさがっている」
クラセが言った。
「火の子の体が、底への道をふさいでいる。われらの水では、火の子の体を割れない。割れるのは、その剣だけだ」
スズの手が、柄の上で止まった。
「その剣で、道を斬れ。ひと太刀でいい。われらが、そこから、水を流しこむ。山の底まで」
「底まで満ちれば、火は消える」
アメツが言った。
「頂の火も、麓へ降る火も。今夜のうちに、すべて」
「里は、今夜から、焼けない」
クラセが言った。
スズは、息を止めた。
今夜から。
与平の家。機屋の軒。母の社。火の粉、やませてね、と言った子の声。
ひと太刀で、終わる。
「……底には」
スズは、言った。声が、闇の中で、かすれた。
「母さんがいる」
二つの形が、同時に、スズを見た。
「底にあるものは、すべて沈む」
クラセが言った。
「火と一緒に」
アメツが言った。
二つの声に、ためらいはなかった。怒りも、憐れみもなかった。水が低いところへ流れるのと同じくらい、当たり前のことを言う声だった。
「母さんも、消える」
「底にあるものは、すべて」
背中の鞘の中で、マチが、息をのむ音がした。
「……だめ」
マチの声が、震えた。
「母さん、しずめないで。母さん、いるの。とくんって、いってるの」
水の形たちは、鞘の中の声には、顔を向けなかった。聞こえているのか、いないのか、わからなかった。
スズは、ナルカを見た。
ナルカは、腕を組んでいた。
「悪い取引ではない」
ナルカは言った。
「火の子は消え、火は止み、里は救われる。おまえは、これ以上、誰も宿さなくていい。頂まで登らなくていい。ひと太刀で、終わる」
「母さんが、消える」
「母は、とうに死んだものとされていた。死んだものが、死んだままになるだけだ」
ナルカの声は、平らだった。
「決めるのは、おまえだ」
スズは、刀身の中の姉のことを思った。闇の中で、顔は見えない。姉は、何も言わなかった。背を向けたままなのか、こちらを見ているのか、わからなかった。
スズは、闇の中の水の光を見ていた。
今夜から、里は焼けない。
それは、嘘ではなかった。水の形たちの声に、嘘はなかった。ひと太刀で、火の粉はやむ。スズが山へ登ってきたのは、それのためだった。はじめは。
スズは、背中の剣に手をやった。
六人ぶんの重さが、そこにあった。
マチ。アユ。ホリ。ニギ。クウ。緒の先に、母さん、いる。そう言った子の声。
姉。
「……断る」
スズは言った。
水の形たちが、揺れた。
「断る。母さんを、迎えに行く。沈めさせない」
言ってから、胸の底が冷えた。
今夜も、火は降る。里の誰かの家が、焼ける。スズが断ったから。ひと太刀で止められた火を、止めなかったから。機屋の子は、今夜も戸の隙間から空を見るのだろう。スズ姉ちゃん、火の粉、やませてね。
それでも、言ったことは、取り消せなかった。取り消したくなかった。
しばらく、誰も何も言わなかった。
ぽた、と、どこかで雫が落ちた。
「迎えに行って、どうする」
クラセが言った。
「底を騒がせれば、火は、なおさら荒れる。里は、なおさら焼ける」
「わからない」
スズは言った。
「わからないけど、沈めない」
二つの形が、顔を見合わせた。
「では、おまえのやり方で、やってみるがいい」
アメツが言った。
「間に合えばな」
水の形が、崩れた。
音もなく、足もとの水へ、還っていった。青白い光が、水面に広がって、薄れて、消えた。
闇が、戻った。
踝の水が、冷たかった。さっきより、少しだけ、深くなっている気がした。スズは、足を持ち上げて、また下ろした。水は、脛の下のところで、静かに揺れていた。
「……愚かだ」
ナルカが言った。怒った声ではなかった。
「だが、剣を継いだ弟妹の中で、あいつらに断ったのは、おまえがはじめてだ」
スズは、答えなかった。
闇の奥で、何かが動いた。
水の音ではなかった。もっと小さな、布の擦れるような音だった。
「……だれ?」
細い声が、闇の奥からした。
子どもの声だった。闇に慣れた者の、光を知らない声だった。
スズの背中で、剣が、かすかに震えた。刃の中の誰かが、その声に、身じろぎしたのだった。




