第二十七話 生まれた日
「……だれ?」
もう一度、声がした。
闇の奥の、すぐそこからだった。水の音も、雫の音もしない、闇のいちばん濃いところ。
「スズ」
スズは言った。
「火守の里の、スズ」
「ひもり」
声が、繰り返した。舌の上で、転がすように。
「しってる。ひを、まもるひと」
スズは、息を止めた。
ひを、まもるひと。棚田の石の箱。火守の印。
「……あなたは」
「ぼく、くらいところに、いる」
声が、近づいてきた。布の擦れる音。小さな足が、水を踏む音。
「あかるいところ、しらない。あかるいと、はなせない。くらいと、はなせる」
スズの左手に、何かが触れた。
小さな手だった。
温かかった。ほかの子たちの手のように、熾火の熱ではなかった。もっとやわらかい、湯のような温かさだった。
「六つ目だ」
後ろで、ナルカの声がした。見えていないはずなのに、わかるらしかった。
「陰だ。生まれるところの」
小さな手が、スズの手を握った。
「ぼく、しってる」
声が言った。
「うまれた日のこと。ぜんぶ」
スズの手を、ぎゅっと握った。
「みせてあげる」
◇
闇が、ひらいた。
野だった。
草の海と、同じ野だった。けれど、草は青く、背が低く、ねじれた木は、まだ若木だった。空が、夕焼けだった。
野の真ん中に、小屋があった。
粗末な、萱葺きの小屋だった。戸口に、若い男が立っていた。白髪ではなく、黒い髪を後ろでひとつに束ねていた。裾の長い衣を着ていた。落ち着かない様子で、何度も小屋の中を振り返っていた。
トキワだった。
若いトキワが、戸口の外で、両手を組み合わせていた。白くなるくらい、強く。
小屋の中から、声がした。
女の声だった。痛みをこらえる声。それから、長い、長い息。
赤子の泣き声は、しなかった。
かわりに、小屋の中が、明るくなった。
戸口から、光があふれた。夕焼けよりも赤い光だった。トキワが、顔を覆って、後ずさった。
スズは、小屋の中を見ていた。見ているのは、自分の目ではなかった。手を握る子の、目だった。子どもは、そこにいた。生まれたばかりの、そこに。
女が、横たわっていた。
長い髪が、汗で頬に貼りついていた。その胸に、赤子を抱いていた。
赤子は、燃えていた。
体じゅうが、火だった。火で、できているようだった。泣いていなかった。泣かずに、母の顔を見上げていた。
女の腕が、焼けていた。胸が、焼けていた。
女は、赤子を離さなかった。
「……熱いねえ」
女は、笑った。焼ける胸に、赤子を抱き寄せた。
「熱い子だねえ。元気な子だ」
女は、赤子の胸を、指で、とん、とん、と叩いた。
赤子の足が、とん、と、女の腹を蹴り返した。
女は、また笑った。
外で、足音がした。
◇
男が、入ってきた。
背の高い男だった。顔は、よく見えなかった。光が、強すぎた。ただ、腰に、剣を下げていた。
長い刃。鍔。柄の先に、小さな鈴。
スズの手の中の剣と、同じ剣だった。
「ミオさま」
トキワの声が、戸口からした。
「ミオさま、主さまが」
男は、女を見た。女の焼けた腕を見た。燃える赤子を見た。
「これは、災いだ」
男の声は、低かった。
「このままでは、おまえが焼け死ぬ。野が焼ける。天が焼ける」
「死にません」
女は言った。
「わたしは、焼けません。この子を、抱いているかぎり」
「斬る」
男は、剣を抜いた。
鈴が、鳴った。
女が、赤子を胸に抱えこんだ。男が、剣を振り上げた。トキワが、戸口で、声にならない声を上げた。
刃が、降りてきた。
赤子が、手を伸ばした。
燃える小さな手を、刃に向かって。逃げずに。開いて。
刃が、曲がった。
まっすぐ降りてきた刃が、赤子の手の前で、ぐにゃりと横へ逸れた。逸れた刃が、女と赤子のあいだを、通り抜けた。
何かが、切れた。
目に見えない、細い糸のようなものが。
赤子の泣き声が、はじめて、上がった。
女が、叫んだ。
刃から、血が滴った。赤子の血ではなかった。女の血でもなかった。刃そのものから、赤い雫が、ぽたぽたと、小屋の床に落ちた。
落ちた雫が、光った。
一つは、白く、ぱちりと弾けた。二つは、青く、水のように揺れた。
男は、曲がった刃を見下ろしていた。長いこと、見下ろしていた。それから、剣を、床に投げ捨てた。鈴が、床の上で、一度だけ鳴った。
赤子の火が、燃え上がった。
母との糸を切られた火が、行き場をなくして、赤子の体から噴き出した。小屋の屋根が、燃えた。赤子の体が、火に押し広げられるように、大きく、大きく——
◇
場面が、飛んだ。
夜だった。野の上に、山があった。
さっきまでなかった山だった。赤子が横たわっていたところに、山が、横たわっていた。
足を麓に、頭を頂に。
山の麓に、女がいた。
焼けた腕で、何かを抱いていた。火だった。赤い、丸い、火。赤子の体から噴き出した火を、女が、両腕で、胸に抱えこんでいた。
女の足もとで、野が燃えかけていた。女が火を胸に抱き寄せるたびに、燃えかけた草が、しぼんで、元の青に戻った。
野は、燃えなかった。
男は、いなかった。
トキワが、女の前に、膝をついていた。
「ミオさま。どうか、その火を。主さまに。天つ座に」
「渡したら、斬られる」
女は言った。
「あの人は、もう一度、斬る。今度は、あの剣でなくても。天の、別の剣で。この子を。何も残さずに」
女は、胸の火を見下ろした。
「誰にも、斬らせない」
女は、山のほうを向いた。山の麓の、地面の割れ目のほうを。
「わたしが、抱いて眠る。山の底で。この子の体の、いちばん下で。わたしが抱いているかぎり、この火は、誰も焼かない」
「ミオさま——」
「トキワ」
女は、振り向いた。
顔は、焼けていた。焼けて、それでも、やさしかった。
「戸の番をして。誰も、来させないで」
トキワが、顔を上げた。
「誰も、山に近づけないで。この子を斬りに来る者も。わたしを起こしに来る者も。誰も」
女は、火を抱いて、地面の割れ目へ、降りていった。
トキワは、膝をついたまま、動かなかった。
長いこと、動かなかった。
それから、立ち上がって、自分の草鞋の紐を、結び直した。
◇
闇が、戻った。
スズは、膝をついていた。脛まで、冷たい水に浸かっていた。水の冷たさが、いまは、ありがたかった。
左手を、小さな手が、まだ握っていた。
「……みた?」
子どもが言った。
スズは、答えられなかった。
「とうさんは、そらへ、かえった」
子どもが、闇の中で言った。
「かえるまえに、はなしを、つくった。ぼくが、母さんを、ころしたって。あの日、野が、やけたって」
母殺しの日。
里で、何百年も唱えてきた日。
あの日は、この子の、生まれた日だった。
母は、自ら抱いた。
誰にも斬らせないために。火の子の火を、自分の胸に抱いて、山の底で眠った。
そして、戸の番に言い残した。誰も来させないで。
帰れ。
この上には、何もない。火の子は母を殺した。山に近づくな。一段目にさえ、足をかけるな。
老人は、それを、何代も、言い続けた。里を回って。子どもたちに唱えさせて。自分が嘘つきになっても。語りの口になっても。
母の、願いを守るために。
嘘は、願いだった。
その嘘のせいで、姉は、火に呑まれたと言われた。その嘘のおかげで、何百年も、誰も母の眠りを乱さなかった。
どちらも、本当のことだった。
「……わたしが」
スズの声が、闇の中で、割れた。
「わたしが、消した」
背中の鞘の中で、マチが泣いていた。
「じいちゃん」
しゃくりあげながら、言っていた。
「じいちゃん、母さんの、おねがい、まもってたの。ぼくに、うそ、ついたのも。ぼくが、叩くのやめたら、だれも、戸のまえに、こないから」
とん、とん。
マチが、刀身の奥を、叩いていた。
何もないところを。
スズの腰で、大人の草鞋が、水に浸かっていた。あの夜、紐を結び直した草鞋だった。
「何を見た」
ナルカの声がした。
スズは、しばらく答えられなかった。それから、見たことを、言った。刃が曲がったこと。刃から、血が滴ったこと。一つは白く弾け、二つは青く揺れたこと。
ナルカは、長いこと、黙っていた。
「……そうか」
闇の中で、ナルカが言った。
「おれは、あの雫か」
それきり、ナルカは、何も言わなかった。
闇の中で、刀身の中の誰かが、身じろぎした。
姉だった。見えなかった。それでも、わかった。ずっと背を向けていた姉の気配が、いま、こちらを向いていた。




