第二十八話 満ちる
水が、鳴りはじめた。
はじめは、遠かった。闇のずっと下のほうで、何かが崩れるような、低い音がした。それから、ごう、と、風の吹き抜けるような音が続いた。
風ではなかった。
スズの脛のまわりで、水が動いた。溜まっていただけの水が、ゆっくりと、一つの向きへ、流れはじめていた。奥へ。下へ。
流れながら、嵩が増していった。
脛から、膝へ。
「……クラセ」
ナルカが、闇に向かって言った。
答えは、水の中から来た。
「道は、斬ってもらえなかった」
低い、くぐもった声だった。足もとの水が、声に合わせて震えた。
「だから、隙間から入る。火の子の体の、ひび。割れ目。根の下。どこからでも。少しずつ」
「時はかかる」
高い声が、続けた。アメツだった。
「だが、水は、待てる」
「底が満ちるまで、何日か。何十日か」
「そのあいだに、おまえのやり方が、間に合えばいい」
声が、水に溶けて、消えた。
ごう、という音だけが、残った。闇の下のほうで、ずっと鳴り続けていた。
スズは、膝まで水に浸かって、立っていた。
山の底へ。母のところへ。水が、流れこんでいく。
とくん、という音を、スズは思い出していた。緒の先で打っていた、あの音。その横で、ちょろちょろと鳴っていた、細い水の音。
あれは、はじまりだったのだ。
「急げ」
ナルカが言った。
「水は、止まらん。あいつらは、止まらない。おれが言っても」
「……あなたの、弟妹なんでしょう」
「同じ日に、同じ刃から落ちた。それだけだ」
ナルカの声は、闇の中で、いつもより少しだけ、ざらついていた。
「あいつらは水になった。おれは雷になった。火を消したい水と、火を斬りたい雷だ。どちらも、火の子を終わらせたい。あの日から、ずっと」
ナルカは、少し黙った。
「さっきまで、おれは、それが自分の考えだと思っていた」
◇
スズの左手を、小さな手が、まだ握っていた。
「……みず、くる」
闇の中の子どもが言った。怯えた声ではなかった。
「くらいところに、みず、くる。ぼくのところ、なくなる」
この子が、見せてくれた。
母の焼けた腕を。曲がった刃を。紐を結び直す、若いトキワの手を。スズが、自分では、一生たどり着けなかったものを。
「……見せてくれて、ありがとう」
スズは言った。声が、かすれた。
「一緒に、来る?」
子どもの手が、ぴくりと動いた。
「上へ行く。明るいところへ。そのあとで、下へ行く。母さんのところへ」
「あかるいところ、いや」
子どもの手が、スズの手を、ぎゅっと握った。
「あかるいと、はなせない。みえない。こわい」
スズは、背中の剣を、右手で探った。
「この中は、暗いよ」
スズは言った。
「剣の中。暗くて、あったかい。みんな、いる。マチも、アユも、ホリも、ニギも、クウも」
「……くらい?」
「暗い」
スズは、剣を抜いた。闇の中で、鈴が鳴った。重かった。両手で引いた。刃が、ずるりと出た。
刃は、光らなかった。何も見えなかった。
刀身の中から、声が重なった。
「くらいよ」
「くらい」
「あったかい」
「おなか、すいてない」
「くらいとこ、ぼくが、おしえてあげる」
マチの声だった。
子どもの手が、少しだけ、ゆるんだ。
「……いく」
スズは、刃を、手を握る子どものほうへ向けた。見えなかった。手の温かさで、子どもがどこにいるのかがわかった。
「いたい?」
「いたくない」
子どもの手が、スズの左手を、最後に一度だけ、強く握った。
スズは、刃を、なぞった。
左手の中の温かさが、ふっと消えた。
闇の中を、何かが、刃のほうへ流れていった。見えなかった。けれど、わかった。
◇
剣が、重くなった。
スズは、水の中に、膝をついた。膝まで浸かっていた水が、胸まで来た。冷たかった。息が、止まった。
剣が、水の底に沈んでいた。握った柄ごと、スズの両腕が、水の中へ引かれていた。
腕に、力をこめた。
上がらなかった。
上がらないのに、倒れはしなかった。膝をついたまま、胸まで水に浸かったまま、スズは、剣を握っていた。
「……立て」
ナルカの声がした。
「水が来る。ここにいれば、おまえが先に沈む」
スズは、息を吸った。
水の流れが、背中を押していた。奥へ。下へ。
スズは、流れに逆らって、膝を立てた。片方ずつ。剣を、水の底から、引きずり上げた。水が、刃から滝のように落ちた。
立った。
ナルカが、スズの肘をつかんで、流れと反対のほうへ引いた。剣には、触れなかった。
「七人目だ」
ナルカは、前を向いたまま言った。
「それで、よく立った」
褒める声ではなかった。数を読み上げる声だった。それでも、スズには、少しだけ違って聞こえた。
スズは、何も言わずに、うなずいた。うなずくだけで、首が重かった。
スズは、歩いた。一歩ごとに、水が脚を引いた。一歩ごとに、剣が腕を引いた。
どれくらい歩いたか、わからなかった。
ごう、という音が、背中から追ってきた。一度、流れに足をとられた。体が、奥のほうへ持っていかれかけた。ナルカの手が、また肘をつかんだ。スズは、水を吐きながら、また歩いた。
水が、腰まで下がった。膝まで下がった。脛まで。踝まで。
前のほうが、灰色になった。
光だった。
握った剣の中で、新しい子が、身を縮めるのがわかった。
◇
洞窟の口を出ると、白かった。
霧だった。
どこもかしこも、白い霧に包まれていた。三歩先が、見えなかった。闇の中から出てきた目には、その白さが、痛かった。
スズは、岩の上に座りこんだ。
体じゅうから、水が滴っていた。唇が、震えていた。小袖の裾を絞った。水が、岩の上に音を立てて落ちた。懐の干し飯の包みが、ぐっしょりと濡れていた。檜皮のかけらは、無事だった。油紙に包んでおいたのは、姉の教えだった。
上からは、火が降る。下からは、水が満ちる。
里が焼けるのと、母が沈むのと。どちらが先なのか、スズにはわからなかった。どちらも、止まらなかった。
洞窟の奥から、ごう、という音が、まだ聞こえていた。
スズは、剣を見た。抜いたまま、握っていた。
刀身に、顔が並んでいた。
七つ。
「しろい」
ホリが、刃の外の霧を見て言った。
「まっしろ」
「くも?」
「くもの、なか?」
アユとクウが、顔を見合わせた。子どもたちの声が、少しだけ、明るかった。
姉。マチ。アユ。ホリ。ニギ。クウ。そして、新しい子。
新しい子は、目を閉じていた。まぶしいのだと、スズにはわかった。刃の中でも、光が、わかるのだ。新しい子は、ほかの子たちの陰に、身を隠そうとしていた。クウの腹のうしろに、顔を埋めていた。
ふちが、溶けていた。七つの顔が、互いの頬へ、額へ、滲んでいた。誰の目が誰の顔にあるのか、じっと見ないとわからなかった。
「なまえ」
マチが言った。姉の袖を、引いていた。
「このこの、なまえ」
姉は、もう、背を向けていなかった。
新しい子のほうを、見ていた。それから、一度だけ、刃の外のスズを見た。すぐに、目をそらした。
唇が、声を出さずに、動いた。
「……ネネ?」
マチが読んだ。
「くらいとこで、ねてたから?」
姉は、うなずいた。
「ネネ。ぼく、マチ。ここ、くらいとこも、あるよ。おくのほう」
マチが、新しい子の手を引いて、刀身の奥のほうへ連れていった。ネネは、目を閉じたまま、ついていった。
スズは、刀身を見ていた。
何かが、おかしかった。
七つの顔のほかに、刀身には、もう一つ、映っているはずのものがあった。刃をのぞきこむ者の顔。いまは、スズの顔。三年間、姉の顔の横に、いつも映っていた。
その顔が、薄かった。
当たり前すぎて、見ていなかった。刃をのぞけば、自分の顔が映る。そのことを、スズは、一度も考えたことがなかった。
霧のせいかと思った。スズは、刃を顔に近づけた。
姉の顔は、はっきりしていた。マチも、アユも。溶けてはいるが、そこにいた。
スズの顔だけが、薄かった。
刃の向こうの霧が、スズの頬を透かして見えた。目のところが、白くかすんでいた。唇の形が、よくわからなかった。
スズは、刃の上に、指を当てた。自分の頬のあるところに。
冷たい鋼しか、なかった。
「……姉さん」
スズは言った。
姉は、答えなかった。
けれど、姉の目が、刃の上の、スズの薄い顔を、じっと見ていた。
唇が、一度、開いた。
声は、出なかった。何かの形になりかけて、閉じた。
霧が、流れた。刃の上のスズの顔が、また少し、白くかすんだ。




