第二十九話 姉の声
霧の中を、登った。
道は、なかった。濡れた岩と、背の低い草と、また岩。足もとだけが、かろうじて見えた。三歩先は、白かった。上も、下も、横も、白かった。
ナルカの背中が、ときどき、霧の中に浮かんで、また消えた。
里は、見えなかった。頂も、見えなかった。上から火が降っているのか、下で水が満ちているのか、霧の中では、何もわからなかった。わからないまま、登るしかなかった。
スズは、剣を背に負っていた。七人ぶん。一歩ごとに、紐が肩に食いこんだ。息が、すぐに切れた。切れた息が、白い霧に溶けて、どれが自分の息なのか、わからなかった。
声が、していた。
背中の鞘の中からだった。子どもたちが、何か話していた。はじめは、それが誰の声なのか、わかった。マチ。アユ。ホリ。
登るにつれて、わからなくなった。
「——しろい——」
「——くらいとこ——」
「——あっち——」
「——おなか——」
「——はなさない——」
声が、重なった。重なって、よじれて、一つの声のようになった。誰が何を言っているのか、わからなかった。霧の中で、声だけが、あちこちから聞こえた。背中からなのか、前からなのか、自分の頭の中からなのか。
スズは、立ち止まった。
剣を、背から下ろした。抜いた。重かった。両手で引いた。
刀身は、霧の色をしていた。
白く曇っていた。顔が、あった。七つ。いや、もっと多いのか、少ないのか。ふちが溶けて、隣へ滲んで、どこからどこまでが一つの顔なのか、わからなかった。目があった。口があった。どれも、誰かのものだった。
スズは、自分の顔を探した。
刃をのぞきこむ者の顔。刃の上に、映っているはずの顔。
見つからなかった。
白い霧と、溶けた顔のあいだに、スズの顔は、どこにもなかった。目を凝らした。刃を傾けた。霧の光が、刃の上を滑った。滑った光の中に、誰かの目があった。それが自分の目なのか、ホリの目なのか、わからなかった。
「……わたし、どこ」
声に出した。
声が、霧に吸われた。
背中の鞘から、ではなく、手の中の刀身から、声が重なって返ってきた。わたし、どこ。わたし。どこ。
誰の声なのか、わからなかった。
スズは、膝をついた。濡れた岩が、冷たかった。刃を握った手だけが、自分のものだとわかった。
◇
「スズ」
声がした。
重なった声の中から、一つだけ、抜け出して聞こえた。
「スズ。ここ」
姉の声だった。
スズは、刀身を見た。溶けた顔のあいだで、一つの顔が、こちらを向いていた。刃の外の、スズのほうを。
姉だった。
はっきりとは見えなかった。ふちが、マチの髪に溶けていた。それでも、目だけは、姉の目だった。目尻の、わずかに下がった目。
「……姉さん」
「うん」
姉は言った。
棚田で、あの日の里と同じことをした、と言ってから。何日も、背を向けていた。唇の形だけで、子どもたちに名を付けていた。
その姉が、声で、スズを呼んでいた。
「あんたの顔、見えないよ」
姉は言った。
「さっきから、探してる。見つからない」
「わたしも」
「うん。だから、声、出した」
姉は、少し黙った。
「……声でなら、わかるでしょう。わたしが、どこにいるか」
スズは、刀身を握った。
「わかる」
「なら、いい」
霧の中で、二人とも、しばらく何も言わなかった。
重なった声が、少しずつ、静まっていった。子どもたちの声が、散るのではなく、一つずつ、眠るように、小さくなっていった。
「話す」
姉が言った。
「三年前のこと。言わなかったこと」
スズは、息を止めた。
◇
「あの日、戸の前まで行った」
姉は、ゆっくりと言った。一つずつ、言葉を置いていくように。
「長に言われて。首を落としてこいって。あんたと同じ」
「……うん」
「戸の前に、子どもがいた。戸を叩いてた。とん、とんって。わたし、剣を抜いて、近づいた。子どもが振り向いた。おねえちゃん、母さん、見なかった、って」
スズは、目を閉じた。
同じだった。スズが聞かれたのと、同じ言葉だった。
「斬れなかった」
姉の声は、平らだった。
「剣を下ろして、子どもの横に座った。一晩。子どもは、ずっと叩いてた。叩いて、待って、また叩いて。わたし、横で、それを聞いてた。聞いてるうちに、わかった。これは、子どもだ。母さんを待ってる、ただの子どもだ。怪物の足なんかじゃない」
姉は、そこで、少し息を吸った。
「戸の番が、帰れって言った。何度も。わたし、あの人のこと、知らなかった。帰れって言うだけの、怖い爺さんだと思ってた」
刀身の中で、姉の顔が、老人のいたところのほうへ、一瞬だけ動いた。何もないところへ。
「朝になって、山を下りた。里に着いたのは、その日の夕方。拝殿に、みんないた。あんたも、いちばん後ろの柱のところにいた」
「……いた」
「わたし、言った。あれは子どもだって。見たとおりに」
姉の声が、わずかに、かすれた。
「長が、杖で床を打った。サヤは火に呑まれた。そう言った。みんなが、わたしから離れていった。一歩ずつ。わたし、みんなの顔を見た。誰も、わたしを見てなかった。あんたも」
スズは、何も言えなかった。
覚えていた。拝殿の、いちばん後ろの柱のそばで。姉が長の前に立っていたとき、スズは、床の板の節を見ていた。長が杖を打ったとき、顔を上げられなかった。里の者たちが離れていくのと一緒に、スズも、柱の陰へ、半歩下がった。
姉は、それを見ていたのだ。
「本当のことを言ったら、殺された」
姉は言った。
「それで、言えなくなった」
霧が、流れた。
「剣の中で目を開けて、あんたが泣いてるのを見た。わたし、何か言おうとした。本当のことを。あれは子どもだって。わたしは火に呑まれてなんかいないって。……言えなかった」
「どうして」
「怖かったから」
姉は、すぐに答えた。
「本当のことを言ったら、また何かが無くなる気がした。一度、それで、全部無くなったから。わたしの体も。わたしの居場所も。……それに」
姉は、そこで、言葉を切った。
長いこと、黙っていた。
「わたしが本当のことを言ったら、あんたは、何のためにわたしを斬ったのか、わからなくなる」
スズの手が、柄の上で、震えた。
「斬ったあんたが、斬った意味を、なくす。それが、いちばん怖かった。だから、黙ってた。三年。あんたが山に行くって言ったとき、行くなって言ったのも、それ。山に行けば、あんたは、全部、見ちゃうから」
姉の声が、消え入りそうになった。
「……見ちゃったね」
「見た」
スズは言った。声が、自分のものではないように、かすれていた。
「全部」
スズは、息を吸った。
「姉さんは、火に呑まれてなかった」
姉の目が、刃の中で、わずかに揺れた。
「……うん」
「あれは、子どもだった。姉さんの言ったとおりだった」
「うん」
姉は、それだけ言った。
「あの爺さんのことも、聞いた」
スズは言った。
「母さんの、お願いを守ってたって」
「聞いてた。刃の中から」
姉は、また、老人のいたところを見た。
「……わたしを殺した嘘は、母さんを守った嘘だった。わたし、それを、どこに置いたらいいのか、わからない」
スズは、答えられなかった。スズにも、わからなかった。その嘘を唱えた口を、スズは、無かったことにしたのだった。
姉は、それ以上、何も言わなかった。
赦すとも、赦さないとも、言わなかった。スズも、赦してとは、言わなかった。
霧の中で、二人とも、黙っていた。
黙っているあいだ、スズは、刀身の中の姉の目だけを見ていた。自分の顔は、まだ、どこにも映っていなかった。それでも、姉の目がこちらを見ているのは、わかった。
「……上まで、行くんでしょう」
しばらくして、姉が言った。
「行く」
「わたし、戸の前までしか、行ったことない」
姉は、少しだけ笑った。声だけで、わかった。
「ここから先は、わたしも、はじめて見る」
「おねえちゃんのおねえちゃん、しゃべった!」
刀身の奥で、マチが目を覚ましていた。
「しゃべった。こえ、でた」
「……うるさい」
姉は言った。怒った声ではなかった。
スズは、剣を背に負い直した。立ち上がった。膝が、震えた。
霧の中から、ナルカの背中が浮かび上がった。岩の上で、スズを待っていた。
「話は、済んだか」
「……済んでない」
「そうか」
ナルカは、それ以上聞かずに、また霧の中へ歩きだした。
霧の上のほうで、誰かが、細い声で歌っていた。




