第三十話 子守唄
歌は、霧の上から降りてきた。
細い声だった。子どもの声だった。言葉は、はっきりしなかった。節だけが、霧の中を、ゆっくりと、揺れながら流れてきた。
上がって、下がる。上がって、下がる。
山の息と、同じ調子だった。
スズは、足を止めた。
どこかで、聞いたことのある節だった。どこで聞いたのか、思い出せなかった。子どものころ。祖母の膝の上で。違う。もっと前。もっと、ずっと前。
背中の鞘の中で、誰かが、身じろぎした。
「……それ」
マチの声だった。
「それ、しってる」
スズは、剣を背から下ろして、わずかに抜いた。白く曇った刀身の中で、マチが、刃のふちに身を乗り出していた。霧の上のほうへ、耳を向けていた。
「しってる。それ、しってる」
「……ぼくも」
アユが言った。
「ぼくも」
「しってる」
ホリが。クウが。ニギは、何も言わずに、姉の指を握ったまま、上を見上げていた。ネネは、刀身の奥の暗いほうで、目を閉じて、節に合わせて、小さく体を揺らしていた。
子どもたちが、口を動かしていた。
声には、なっていなかった。息だけで、節をなぞっていた。上がって、下がる。上がって、下がる。
姉が、子どもたちを見ていた。唇が、わずかに開いていた。
「……わたしも、どこかで」
姉が、つぶやいた。
「どこかで、聞いた。祖母ちゃんの歌じゃなくて。もっと、遠いところで」
姉は、眉を寄せた。
「剣の夢、かもしれない。燃える赤ちゃんを抱いた人が、歌ってた。……ような気がする」
スズは、剣を背に負い直して、霧の中を、歌のほうへ登った。
◇
霧の中に、子どもが座っていた。
平たい岩の上だった。膝を抱えて、座っていた。マチやアユと、同じくらいの年に見えた。髪が長く、肩まで垂れていた。
胸が、光っていた。
ぼろ布の、胸のところから、赤い光が漏れていた。熾火の色。ほかの子たちの光より、深い赤だった。息をするたびに、光が、明るくなったり、暗くなったりした。
子どもは、歌っていた。
目を閉じて、胸の光に手を当てて。
「……ほど、ほど」
子どもの唇から、その音が出た。
「あったかい、ほど
かあの、むねの、ほど
ねむれ、ねむれ、ほど
とん、とん、ほど」
節が、霧の中を、上がって、下がった。
ほど。
スズは、その音を、口の中で繰り返した。
聞いたことのない言葉だった。
聞いたことのない言葉なのに、胸の奥の、どこかが、それを知っていた。
節を、知っていたのだ。
祖母の膝の上だった。熱を出した夜、祖母は、スズの胸を、とん、とん、と叩きながら歌った。ねんね、ねんね、とん、とん。上がって、下がる。この節だった。言葉だけが、違っていた。
姉も、同じ歌で寝かされたはずだった。祖母も、祖母の祖母に。
節だけが、里に残っていた。言葉は、どこかで、落ちていた。
「七つ目だ」
ナルカが、霧の中から現れた。岩の子どもを見下ろしていた。
「胸だ」
子どもは、歌うのをやめなかった。
胸の赤が、歌うたびに、少しずつ広がっていた。肩のほうへ。喉のほうへ。胸の真ん中のところが、かすかに透けて、向こうの岩の肌が見えていた。
「ほど、ほど。とん、とん」
歌い終えると、子どもは、また、はじめから歌いだした。
スズは、岩の前にしゃがんだ。
「……その歌、誰に教わったの」
子どもが、目を開けた。
黒い、大きな目だった。スズの顔を見た。怖がりもせず、驚きもせず。
「母さん」
子どもは言った。
「母さんが、うたってくれた。ずっと。まいにち。とん、とんって、むね、たたいて」
「母さんは、いま、どこにいるか、知ってる?」
「した」
子どもは、すぐに答えた。
「ずっと、した。うた、したから、きこえる。ときどき」
子どもは、自分の胸を、指で、とん、とん、と叩いた。
スズは、息をのんだ。
闇の洞窟で見た。焼けた腕で赤子を抱いた女が、赤子の胸を、指で、とん、とん、と叩いていた。熱い子だねえ。元気な子だ。
「ほど、って、何」
スズは聞いた。
子どもは、首をかしげた。そんなことも知らないのか、という顔だった。戸の前で、マチが同じ顔をした。
「なまえ」
子どもは言った。
「母さんが、よんだ、なまえ」
「……あなたの?」
「ぼくの、じゃない」
子どもは、首を振った。
「ぼくたちの」
「……火処、か」
ナルカが、低く言った。
「古い言葉だ。火を置くところ。炉のことだ。火を焚いて、守るところ」
ナルカは、岩の子どもの胸の光を、じっと見ていた。
「天つ座では、誰も、その名を口にしなかった」
ナルカは、スズの手の刀身に目を移した。歌う子どもたちの顔の上に。
「八つに斬られた子が、剣の中で、一つに寄っている」
ナルカの声は、平らだった。平らなまま、ほんのわずかに、揺れた。
「おまえは、斬って、集めた。おれは、斬って、消してきた。この山のものも、そうでないものも」
◇
スズは、しばらく、動けなかった。
ぼくたちの。
背中の鞘の中で、子どもたちが、声を出していた。今度は、息だけではなかった。
「ほど」
マチが言った。
「……ほど」
アユが言った。
「ほど」
「ほど」
ホリ。クウ。ニギの小さな声。ネネの、暗がりの声。
「ほど、ほど。あったかい、ほど」
子どもたちが、歌っていた。岩の子どもと、同じ節で。同じ言葉で。はじめて覚えた歌のようではなかった。ずっと前から知っていて、忘れていた歌を、思い出したように。
スズは、剣を背から下ろした。抜いた。
刀身の中で、子どもたちが、一つに寄り集まって、歌っていた。
マチは、右の足が裸足だった子。アユは、左の足で輪を歩き続けた子。ホリは、右の手で岩を刻み続けた子。ニギは、左の手で袖を離さなかった子。クウは、腹を空かせて、へその緒を垂らしていた子。ネネは、生まれるところの闇にいた子。
右の足。左の足。右の手。左の手。腹。腰。
そして、岩の上の子は、胸。
古き主は、火の子を八つに斬った。右の足、左の足、右の手、左の手、腹、腰、胸、頭。
子どものころから、何百回と唱えてきた。
スズは、門ごとに、火の子の手足を斬り落としていくつもりで、山を登ってきた。怪物の足を。怪物の手を。
斬って、宿した。
刀身の中に、並んでいた。
足と、足と、手と、手と、腹と、腰と。
ばらばらに斬られた、一つの子の体が。
「……わたし」
スズの声が、震えた。
「わたし、集めてた」
火の子を斬りに来た。首を落としに来た。そのために、門を一つずつ越えて、門ごとに守を斬って。
斬るたびに、その子を、刀身の中へ引き取っていた。燃えつきかけた、火の子の体の、一つ一つを。
斬りに来た相手の体を、ずっと、運んでいた。
刀身の中で、子どもたちが、歌い続けていた。ほど、ほど。とん、とん。
「ぼくら、おなじ子?」
マチが、アユの顔をのぞきこんでいた。
「おなじ子」
アユが、うなずいた。ホリが、ニギの手を握った。クウが、ネネの背中に寄りかかった。子どもたちは、互いの顔を見て、何かを確かめるように、笑った。
姉が、子どもたちの真ん中にいた。膝の上に、マチとニギを抱えて。その横に、アユとホリ。後ろに、クウとネネ。
姉は、歌っていなかった。
子どもたちを、見下ろしていた。
「……ほど」
姉が、つぶやいた。
「この子たち、みんな、ほど、なんだね」
姉の目から、何かが、刃の上をこぼれた。
スズは、刀身の上の自分の顔を探した。見つからなかった。霧と、歌う子どもたちの顔しか、映っていなかった。
刀身に、六つ。岩の上の子で、七つ。八つのうちの、七つ。
残りは、一つ。頂の、頭。
長は、頂で、火の子の首を落とせと言った。その首は、体の残りを、全部、失ったまま、頂で待っているのだ。
「タギ、じゃないの」
スズは、岩の子どもに聞いた。
「里では、タギさまって呼んでる。頂の火のこと」
子どもは、首をかしげた。
「たぎ?」
黒い目が、ぱちぱちと瞬いた。
「しらない。そんななまえ、しらない」
子どもは、また、胸に手を当てた。
「ほど、だよ」
霧が、少し、薄くなった。
上のほうに、黒い影が見えた。岩の峰だった。その先に、赤い光が、空を焦がしていた。
頂だった。
ナルカが、その光を見上げていた。
「今夜は、ここで休む」
ナルカは言った。
「頂の、手前だ。弟妹の話をしてやると、言ったな」
スズは、うなずいた。
岩の上で、子どもが、また歌いはじめた。ほど、ほど。胸の赤が、霧の中で、少しずつ、広がっていた。




