第三十一話 兄の夜
夜になると、霧が下へ沈んだ。
平たい岩の上から見下ろすと、霧は、白い海のようだった。山の肩から下を、すっかり覆っていた。里も、棚田も、奥山も、その下に沈んでいた。
上には、星が出ていた。里で見るより、ずっと多かった。星と星のあいだに、黒いところが、ほとんどなかった。
そして、頂が赤かった。
岩の峰の向こうから、火が、ゆっくりと昇っていた。昇って、崩れて、火の粒になって、霧の海の上に降っていく。霧の中へ落ちた粒が、どこへ行くのか、ここからは見えなかった。
岩の子どもは、眠っていた。
歌いながら、いつのまにか、眠っていた。膝を抱えて、胸に手を当てて。胸の赤が、寝息に合わせて、明るくなったり、暗くなったりしていた。赤いところが、夕方より、また広がっていた。
スズは、子どもの横に座っていた。剣を、膝の上に横たえていた。
ナルカが、少し離れた岩に腰を下ろした。
「話すと言ったな」
スズは、うなずいた。
ナルカは、しばらく、頂の火を見ていた。
「おれが、はじめて看取った妹は、よく笑う娘だった」
ナルカは言った。
「火の粉を斬るたびに、笑った。斬った相手に、礼を言った。宿すたびに、剣の中の者と、夜通ししゃべっていた。五人目を宿した冬に、雪の中で、座りこんだ。笑ったまま、動かなくなった」
スズは、黙って聞いていた。
「次の弟は、泣き虫だった。一人目で泣き、二人目で泣き、三人目を宿したあとは、泣かなくなった。泣くかわりに、数えるようになった。何人。どれだけ重い。あと何人で潰れる。数えて、数えて、七人目の前で、数えるのをやめた。それきり、立たなかった」
ナルカの声は、平らだった。
「作法を教えた妹もいた。覚えかけた。一度だけ、使った。使ったあとで、剣を抱いて、三日、泣いた。二度と使わなかった。九人目で、潰れた」
スズは、一人ずつ、その顔を思い浮かべようとした。見たこともない顔だった。それでも、みんな、スズと同じ剣を握っていた。
頂の火が、ひときわ大きく昇った。ナルカの横顔が、赤く照らされた。
「看取ったのは、十一人だ。十九の弟のことは、話したな。自分の声が、聞こえなくなった。剣を抱いて、山道に座りこんで、それきりだ。中にいた者も、一緒に消えた」
ナルカは、自分の両手を見下ろした。
「おれは、そのたびに、そばにいた。いつも、あと一歩のところにいた。切り捨てろ、と言った。そうすれば、軽くなる。助かる。何度も、そう言った」
「……でも、あなたは、斬らなかった」
「斬れなかった」
ナルカは言った。
「中の者を切り捨てられるのは、継ぎ手だけだ。おれが何を言っても、決めるのは、あいつらだった。あいつらは、一人も、切り捨てなかった。一人も」
ナルカは、顔を上げた。
「おまえが、はじめてだ」
「……どうして、そこまでするの」
スズは聞いた。井戸端で、一度、聞いたことだった。
ナルカは、すぐには答えなかった。
「おれは、あの雫だ」
しばらくして、ナルカは言った。
「曲がった刃から落ちた。斬れなかった刃の、血だ。だから、斬らせたいのかもしれん。あの刃が、斬れなかったものを。弟妹たちに。……わからん。洞窟で、はじめて、そう思った」
◇
スズは、膝の上の剣を握った。
「棚田で、おまえは切り捨てた。おれは、ほっとした。はじめて、弟妹の一人が、生き延びる道を選んだと思った」
ナルカは、スズを見た。
「だから、言う。頂で、切り捨てろ」
スズは、息を止めた。
「頂の火を。そして、剣の中の、守たちを。作法で。宿さずに。何も残さずに」
「……守たちも」
「重さの大半は、守たちだ。あれを切り捨てれば、おまえは軽くなる。頂の火も消える。里は救われる」
ナルカは、少し間を置いた。
「姉は、残せる」
スズの手が、柄の上で止まった。
「先の妹は、切り捨てなくていい。一人ぶんなら、おまえは、この先も持てる。三年、持ってきたように。姉と二人で、山を下りろ。里へ帰れ」
ナルカの声が、わずかに、低くなった。
「おまえは、生きろ」
スズは、答えなかった。
答えられなかった。
ナルカは、間違っていなかった。スズは、それを知っていた。重さは、本当だった。潰れた弟妹たちは、本当にいた。火の粉は、本当に里を焼いていた。
姉は、残せる。
その言葉が、胸の底に、落ちた。
姉と二人で、山を下りる。火の粉の降らなくなった里へ。与平の家を、みんなで建て直す。機屋の子が、スズ姉ちゃん、と駆けてくる。夜は、炉端で、刀身の姉と話す。三年、そうしてきたように。
スズは、その絵を、振り払えなかった。
刀身を見た。
姉は、スズを見ていなかった。星のほうを見ていた。残せる、と言われた者の顔ではなかった。何を考えているのか、わからない顔だった。
◇
岩の上の子どもが、目を開けた。
「……あつい」
小さな声だった。
胸の赤が、喉まで上がっていた。胸の真ん中が、大きく透けていた。子どもは、胸に当てた手に、力をこめた。
「うた、うたえない」
子どもは言った。
「のどが、あつくて。うた、でない」
スズは、子どもを見た。
「宿すな」
ナルカが言った。
「それを宿せば、おまえは頂に立てん。あれは、名を抱えている。守の中で、いちばん重い」
スズは、剣を抜いた。
重かった。両手で引いた。刃が、ずるりと出た。
「スズ」
刀身の中で、姉が言った。止める声ではなかった。
「……うん」
スズは、子どもの前に、刃を向けた。
「いれてあげて」
刀身の中で、マチが言った。
「うた、ききたい。ちゃんと、ききたい」
「うた、うたいたい?」
「うたいたい」
「中で、みんなと、うたえばいい」
子どもは、刃の中の顔を見た。マチ。アユ。ホリ。ニギ。クウ。ネネ。みんなが、子どもを見ていた。
「……いく」
スズは、なぞった。
子どもの形が暗くなり、光が、刃を滑って上ってきた。
◇
スズは、岩の上に、倒れかけた。
腕が、落ちた。剣ごと、岩を打った。膝が、崩れた。
肩で、岩に、もたれた。
息が、できなかった。重さが、胸の上に乗っていた。背骨の一つ一つに、乗っていた。
刀身を見た。
白かった。
霧が、刃の中に入りこんだように、白く濁っていた。顔が、あった。八つ。姉と、七人の子。ふちが溶けて、混ざって、白い濁りの中に、揺れていた。
スズの顔は、なかった。
薄いのでも、かすんでいるのでもなかった。どこにも、なかった。刃をのぞきこんでいるのに、刃は、スズを映していなかった。
「……ウタ」
姉の声がした。新しい子の頭を、撫でていた。
「あんたは、ウタ。歌う子だから」
「ウタ。ぼく、マチ」
「アユ」
「ホリ」
子どもたちが、次々に名を言った。新しい子は、一人ずつに、うなずいた。
新しい子が、刀身の中で、小さく歌いはじめた。ほど、ほど。子どもたちが、それに声を重ねた。
スズは、岩に手をついた。
膝を、立てた。
立った。
ふらついた。岩に手をついた。もう一度、立った。一歩、歩いた。二歩。
歩けた。
足の裏が、岩をつかんでいた。膝は、震えていた。震えながら、伸びていた。
八人ぶん。守のうちでいちばん重い子を宿して。刀身が白く濁って、自分の顔が消えて。
それでも、歩けた。
スズは、足を止めた。
棚田で、スズは倒れていた。立てなかった。だから、切り捨てた。一人でいい、とナルカが言った。いちばん重いのを。
あの老人を残したまま、ニギを宿していても。
いまより、軽かった。
いまのスズが歩けるなら、あのときのスズも、歩けたのだ。
立てなかったのではない。
立とうとするより、切り捨てるほうが、楽だった。
「……必要じゃ、なかった」
スズは言った。
声が、星の下に、細く散った。
「あれは、楽だったんだ」
ナルカは、長いこと、答えなかった。
「……そうだ」
やがて、ナルカは言った。
「楽だった。おれが、今だと言った。楽な道を、指さした」
ナルカは、スズを見た。目をそらさなかった。
「楽を選ぶのは、悪いことじゃない。生き延びるとは、そういうことだ。おれは、それを、何度も見てきた。選ばなかった者は、みんな、潰れた」
正しかった。いまも、ナルカは、正しかった。
「じいちゃん、いたら」
刀身の中で、マチが言った。歌をやめて。
「じいちゃん、いたら、いっしょに、うたった」
誰も、答えなかった。
腰で、大人の草鞋が揺れていた。スズは、それを、握った。
刀身の中で、子どもたちが、歌っていた。ほど、ほど。とん、とん。




