第三十二話 名のない顔
夜明けに、最後の峰を登った。
岩は、黒かった。登るにつれて、足もとの岩が、熱くなった。草鞋の底が、焦げる匂いがした。与平の編んだ三足目の草鞋だった。一足目は野の輪で焦げ、二足目は棚田で破れた。
空気が、揺れていた。
熱が、岩から立ちのぼって、目の前の景色を、水の底のように揺らしていた。灰が、降っていた。白い灰が、雪のように、音もなく、肩に積もった。
スズは、一歩ずつ、登った。
背中の剣は、八人ぶんだった。一歩ごとに、背骨がきしんだ。立ち止まると、そのまま座りこみそうになった。座りこまなかった。
昨夜、歩けたのだ。
なら、今日も、歩ける。
「スズ」
背中の鞘の中から、姉の声がした。
「頂で、何を見ても」
姉は、そこで言葉を切った。
「……なに」
「なんでもない」
姉は、それきり黙った。寄り合いのあと、粟畑のほとりで、鈴に紛れて聞き取れなかった、三つか四つの音。あのときと同じ、言いかけて、やめる声だった。
刀身の中で、子どもたちが、小さく歌っていた。ほど、ほど。歌が、背中の重さの中から、かすかに聞こえた。
ナルカが、峰の縁で、足を止めていた。白い衣が、灰で、まだらに灰色になっていた。
スズは、その横に並んだ。
◇
頂だった。
目の前に、大きな窪みがあった。
山の頭のてっぺんが、大きな椀のように、えぐれていた。椀の縁は、黒い岩が、ぐるりと取り巻いていた。向こう側の縁は、遠くて、熱の揺らぎの中に、かすんでいた。
椀の底から、火が、昇っていた。
一本の、太い柱だった。赤く、白く、ゆらゆらと、空へ向かって伸びていた。伸びて、崩れて、火の粒になって、四方へ降っていく。山の肩を越えて、霧の海の上へ。その下の、里のほうへ。
里で見上げていた、頂の赤。九度目、十度目と数えてきた、火の粉のもと。
「……あれ、あったかいの?」
背中の鞘の中で、マチが聞いた。
「あったかい。でも、あつい」
ウタが答えた。
「ぼくの、むねと、おなじ」
子どもたちが、黙りこんだ。刃の中から、火の柱を見上げているのがわかった。
それが、ここだった。
音が、していた。
火の柱の根もとから、低い、腹の底に響くような音。山の息ではなかった。もっと、苦しげな音だった。息を吸おうとして、吸えないでいるような。
スズは、振り返った。
霧の海が、下に広がっていた。朝の光で、白く輝いていた。その端のほう、霧が薄れたところに、小さな里が見えた。
煙が、五本、上がっていた。
山に入ってから、煙が三本より少なくなったことは、一度もなかった。
「……間に合うのか」
ナルカが、ひとりごとのように言った。
スズは、答えなかった。答えを、持っていなかった。
下では、水が満ちている。上では、里が焼けている。どちらも、止まっていなかった。
◇
椀の縁の、スズの立っている岩のすぐ下に、子どもが座っていた。
椀の内側へ張り出した岩の上に、膝を抱えて。火の柱のほうを向いて。
スズは、岩を伝って、そちらへ下りた。熱が、顔を打った。まつげが、ちりちりと縮むのがわかった。剣の柄が、手のひらの汗ですべった。スズは、柄巻きに指を食いこませて、握り直した。
子どもは、ほかの子たちと同じくらいの年に見えた。痩せて、ぼろ布を巻いていた。
頭が、光っていた。
髪のない、丸い頭が、熾火の色に、ぼうっと光っていた。
子どもが、振り向いた。
顔が、なかった。
目も、鼻も、口もなかった。卵の殻のように、なめらかな肌だけが、そこにあった。額から顎まで、何も刻まれていない、白い面だった。
スズは、息を止めた。
「……八つ目だ」
ナルカが、上の縁から言った。
「頭だ」
顔のない子どもは、火の柱のほうへ、また顔を向けた。
「ずっと、ここで、ひを、みてた」
子どもが言った。
「あの日から。ひが、したから、のぼってくるの。まいにち、すこしずつ、おおきくなる。みてることしか、できない。て、ないから。あし、ないから」
光る頭の、額のあたりが、ほかより暗かった。薄れかけているのだと、スズにはわかった。ここでも、火は、体の霊を焼いていた。
顔のない子どもが、スズのほうへ、首をかしげた。
どこで見ているのか、わからなかった。けれど、見られているのがわかった。戸の前で、マチに見られたときと同じだった。
子どもの、口のないところから、声がした。
「なんのために斬るの」
スズの喉が、ひとりでに、詰まった。
同じだった。
戸の前で、最初の子が、スズの手の抜き身を見て、首をかしげて、聞いた。同じ声だった。責める声ではなかった。母さん、まだ? と戸に聞くのと、同じ声。
あのとき、スズは、すぐに答えた。
母の仇を討つため。
スズは、口を開いた。
言葉が、出てこなかった。
母の仇。その母は、山の底で、生きていた。火の子は、母を殺していなかった。仇は、どこにもいなかった。
斬って、終わらせるため。何を。この子を。この火を。里を救うために。
そうなのか。
スズは、刀身の中の子どもたちのことを思った。斬って、宿した。斬るたびに、その子を、刃の中へ引き取った。終わらせるために斬ったのではなかった。消えるのが、いやだったから。
なら、いま、何のために、剣を抜くのか。
スズの口は、開いたまま、何も言わなかった。
「答えられないなら、おれが言ってやる」
上の縁から、ナルカが言った。
「火を止めるために、斬れ。里を救うために、斬れ。それで足りる。理由など、それ以上は要らん。おまえの弟妹たちも、みんな、それで斬ってきた」
正しかった。それで、足りるはずだった。
スズは、それを、自分の答えとして、口にできなかった。
顔のない子どもは、待っていた。
戸の前の子が、戸を叩いたあと、黙って待っていたのと、同じように。
◇
スズは、答えられなかった。
顔のない子どもは、しばらく待っていた。それから、首を、反対側へかしげた。
「わたしの、なまえは?」
スズは、目を見開いた。
「なまえ」
子どもは、自分の頭に、手を当てた。光る頭に。
「わすれた。かおと、いっしょに。だれも、よんでくれないから。よばれないと、かおが、なくなる」
子どもの声は、細かった。
スズは、ゆうべ見た刀身を思い出していた。
白く濁った刃に、八つの顔が揺れていた。スズの顔は、映っていなかった。
この子と、同じだった。
顔が、なかった。刃をのぞいても、スズは、どこにもいなかった。
「わたしの、なまえは?」
スズは、知っていた。
昨日、霧の中で、胸の子が歌っていた。母さんが呼んだ名。ぼくの、じゃない。ぼくたちの。
スズは、息を吸った。
その名を、言おうとした。
声が、出なかった。
喉が、ふさがっていた。舌の上に、音の形はあった。唇が、その形に動こうとした。動かなかった。何かが、スズの声と、その名のあいだに、立ちはだかっていた。見えない、細い糸のようなものが、切れていた。
スズは、もう一度、息を吸った。
出なかった。
刀身の中で、子どもたちが、歌っていた。背中の鞘の中から、かすかに。ほど、ほど。あったかい、ほど。
顔のない子どもは、その歌のほうを、向かなかった。
「……きこえない」
子どもは言った。
「だれか、うたってる? きこえない。とおくて」
スズは、剣を背から下ろした。抜いた。白く濁った刀身の中で、子どもたちが、声をそろえて、歌っていた。ほど、ほど。とん、とん。
すぐそこで。
顔のない子どもには、届いていなかった。
「おねえちゃん」
刀身の中で、マチが、刃のふちを叩いた。とん、とん。
「なまえ、いってあげて。おねえちゃんなら、いえるでしょ」
スズは、もう一度、口を開いた。
やはり、出なかった。
刀身の中で、姉が、スズを見ていた。
白い濁りの中で、姉の目だけが、はっきりしていた。何かを知っている目だった。
言わなかった。
「……姉さん。知ってるの」
姉は、答えなかった。目を、そらさなかった。そらさないまま、唇を結んでいた。
答えることも、名を呼ぶことも、スズには、できなかった。斬ることさえ、いまは、何を斬るのかわからなかった。
上の縁で、ナルカが、顔のない子どもを見下ろしていた。雷剣の柄に、手をかけていた。抜かなかった。抜いても、この子には、届かないのだった。
火の柱が、ごう、と音を立てて、昇った。
顔のない子どもは、スズのほうを向いたまま、待っていた。




