第三十三話 返す刃
「……よべないの?」
顔のない子どもが言った。
責める声ではなかった。がっかりした声でもなかった。何度も同じことを確かめてきた者の、静かな声だった。
「よべない」
スズは言った。声だけは、出た。
「知ってるのに。聞いたのに。言おうとすると、出てこない」
「うん」
子どもは、うなずいた。
「だれも、よべない。あの日から」
子どもは、自分の光る頭に、手を当てた。
「あの日、いとが、きれた。母さんと、わたしの、あいだの、いと。なまえは、そのいとを、とおって、とどくの。いとが、きれたら、だれが、よんでも、とどかない。うたっても。さけんでも」
スズは、刀身の中の子どもたちを見た。ほど、ほど、と歌っていた声。すぐそこで。届いていなかった。
「母さんの、うたも」
子どもは言った。
「したから、ときどき、きこえる。きこえるのに、とどかない」
スズの胸の奥で、何かが、きしんだ。
岩の中の絵。まっすぐ降りてきた刃が、赤子の前で曲がって、母と赤子のあいだの、細い線を断った。
生まれた日の小屋。刃が逸れて、目に見えない細い糸のようなものが、切れた。
「その、いとを」
スズは言った。
「どうしたら、つなげるの」
子どもが、首を、スズの手の剣のほうへ向けた。
「その刃」
子どもは言った。
「あの日、いとを、きった刃。その刃だけが、かえせる」
スズの手の中で、剣が、震えた。
震えたのは、スズの手ではなかった。刃そのものが、鋼の底のほうから、かすかに、鳴っていた。張りつめた弦を、指で弾いたような音。岩の斜面の夜に、聞いた音だった。
「……かえしたい」
刀身の奥から、声がした。
姉でも、子どもたちでもない声。男とも女とも、子どもとも大人ともつかない声。鋼の底のようなところから、細く。
「かえしたい」
刀身の中で、子どもたちが、歌うのをやめた。息を詰めて、耳を澄ませていた。
◇
「かえす刃」
顔のない子どもが言った。
「その刃は、いちどだけ、かえせる。きったものを。あの日、きったいとを」
子どもの声は、ゆっくりだった。一つずつ、置いていくように。
「かえす刃で、きって、よぶの。わたしのなまえを。そうしたら、いとが、もどる。なまえが、とどく。母さんに。わたしに」
「……何を、斬るの」
スズは聞いた。
「あなたの、首?」
子どもは、首を振った。
「わたしに、かぶせられた、べつのなまえ」
子どもは、火の柱のほうを向いた。
「みんなが、こわがって、よんだなまえ。それが、うえに、かぶさってる。ほんとうのなまえの、うえに」
「……なら」
スズは、剣の柄を握りしめた。
「それをすればいい。いますぐ。わたしが」
「でも」
子どもが言った。
「かえす刃は、ぜんぶ、かえす」
スズの手が、止まった。
「いとと、いっしょに。その刃に、はいってるものも。ぜんぶ」
スズは、刀身を見下ろした。
白く濁った刃の中に、八つの顔が揺れていた。
「からだの子たちは、からだに、かえる」
子どもは言った。
「あし。て。おなか。むね。わたしの、からだに。もとのところに」
刀身の中で、マチが、刃のふちに身を乗り出した。
「かえれる?」
マチの声が、高くなった。
「ぼく、かえれる? 母さんの、とこ?」
「かえれる」
顔のない子どもが言った。
刀身の中が、ざわめいた。アユが、ホリの手を握った。クウが、自分の腹を押さえた。ネネが、暗がりから顔を出した。ウタが、小さく、ほど、と言った。ニギは、姉の指を、握っていた。
「おねえちゃんのおねえちゃんも?」
マチが、姉を振り返った。
「おねえちゃんのおねえちゃんも、いっしょに、かえる? 母さんのとこ」
「しんだひとは」
顔のない子どもは、続けた。
「しんだひとの、いくところへ」
「……やだ」
マチが言った。小さな声だった。
「やだ。おねえちゃんのおねえちゃん、いっしょじゃなきゃ、やだ」
誰も、答えなかった。
スズの息が、止まった。
しんだひと。
刀身の中に、死んだ者は、一人しかいなかった。
トキワは、もういない。スズが、無かったことにした。
残っているのは。
「……姉さん」
スズは、刀身の中の姉を見た。
姉は、子どもたちの真ん中にいた。膝の上に、ニギを抱えていた。ニギが、姉の指を握っていた。
姉は、スズを見ていた。
驚いた顔では、なかった。
「かえす刃は、いちども、ためされたことがない」
顔のない子どもが言った。
「あの日から、だれも、ここまで、こなかった。その刃を、もって」
「しくじれば」
上の縁から、ナルカが言った。低い声だった。
「おまえは、潰れる。火に呑まれる。中の者も、一人残らず、散って消える。先の妹も。子どもたちも。何も、返らない」
スズは、答えなかった。
答えられなかった。
「天つ座に、そんな作法はない」
ナルカは続けた。
「斬ったものを、返す。聞いたこともない。できるかどうかも、わからん。わかっているのは、試せば、おまえは姉を失うということだけだ。しくじれば、全部を失う」
ナルカの声は、平らだった。
「どちらにしても、姉は、残らない」
スズは、剣を握っていた。
三年前、杉の下で姉を斬った夜。炉端で刀身を抜いて、姉が目を開けた。スズ、と呼んだ。あのとき、スズは、姉を失わずに済んだと思った。三年、そう思ってきた。
失わずに済んだのではなかった。先に延ばしただけだった。
「したで、みずが、ふえてる」
顔のない子どもが言った。
「母さん、ねむったまま、しずむ」
◇
「スズ」
姉が言った。
「わたし、知ってた」
スズは、姉を見た。
「剣の夢で」
姉は、静かに言った。
「岩のところで見た、あの夢。燃える赤ちゃんに、刃が落ちていく夢。わからないって、言ったでしょう。ほんとうは、続きがあった」
姉は、ニギの髪を、指で梳いた。
「刃が、曲がって、糸を切って。それから、ずっと、刃は、泣いてた。返したい、返したいって。何百年も。この剣の底で」
姉は、刀身の奥のほうを見た。声のしたほうを。
「それで、わかった。この剣が、いつか、返すときが来たら。わたしも、一緒に、返される。この剣の中にいるものは、全部」
「……いつから」
「三年前から」
姉は、少し笑った。
「剣の中で目を開けて、最初の夜に。はじめて、夢を見た。はっきりしなかったけど。なんとなく、わかった」
スズは、何も言えなかった。
行くな。出立の前の夜、姉は言った。あの山のことを、何も知らない。言えない。あんたを、なくしたくないの。
「だから、行くなって、言ったの」
スズの声が、かすれた。
「……それも、ある」
姉は言った。
「あんたを、なくしたくなかった。あんたに、なくされたくも、なかった」
姉は、目を伏せた。
「ずるいでしょう」
姉は、目を上げた。
「でも、ここまで来たら。もう、黙ってちゃいけないと思った。三年、黙って、あんたに、何も選ばせなかったから」
姉は、少し黙った。
「……この三年、わたし、あんたの中で、もう一回、生きてたみたいだった。楽しかったんだよ。ほんとに」
スズは、首を振った。姉の顔が、白い濁りの向こうで、少し揺れた。
振ってから、自分が何に首を振ったのか、わからなかった。
刀身の中で、子どもたちが、スズを見ていた。かえれる、と聞いた顔で。マチも、アユも、ホリも、ニギも、クウも、ネネも、ウタも。
姉も、スズを見ていた。
返せば、みんな、還る。母さんのところへ。体へ。
スズは、刀身の中の顔を、一つずつ見た。戸の前で母を待っていた子。輪の上を歩き続けた子。岩を刻み続けた手。袖を離さなかった手。腹を空かせていた子。闇の中の子。歌う子。
斬るたびに、引き取った。消えるのが、いやだったから。
その子たちが、みんな、いなくなる。刀身の中から。スズの手の中から。
返せば、姉が、去る。
返さなければ、母が沈み、この子は名を失ったまま、里は焼け続ける。
スズは、剣を握っていた。白く濁った刃の上に、自分の顔を探した。
なかった。
刃は、朝より、また白くなっていた。八つの顔が、濁りの中に、溶けかけていた。
山の肩の向こうで、霧の海が、ところどころ赤く光っていた。火の粒が、落ちていくところだった。
火の柱が、ごう、と昇った。頂の縁の岩が、足もとで、震えた。
スズの膝が、熱にあぶられて、震えていた。立っているのが、やっとだった。
上の縁で、ナルカが、雷剣の柄に手をかけたまま、スズを見ていた。
顔のない子どもが、待っていた。




