第三十四話 白い刀身
火の柱が、形を変えた。
ごう、という音が、急に高くなった。椀の底から昇る火が、太くなり、ねじれ、うねった。ただの柱ではなくなった。
頭ができた。
火の柱の先が、膨らんで、裂けた。裂けたところが、顎になった。上の顎と、下の顎。そのあいだに、白く燃える牙が並んだ。顎の上に、二つの穴が開いた。目だった。黒く、深く、何も映さない目。額から、ねじれた角が、二本、突き出した。
肩ができた。腕ができた。鉤爪のついた、太い腕。
椀の底から、燃える怪物が、上半身を起こしていた。
スズは、それを知っていた。
子どものころ、頭の中にいた。里の語りを唱えるたびに、浮かんだ。黒く焦げた、岩のような足。鉤爪のついた、獣の足。母を焼いた、火の神。
タギさまが、起きなすった。
社の石段で、腰の曲がった爺さまが言った。誰も返事をしなかった。
里のみんなが、何百年も、頭の中で描いてきた姿だった。それが、いま、目の前で、燃えていた。
「……あれが」
スズの横で、顔のない子どもが言った。
「かぶせられた、なまえ」
子どもは、燃える怪物を見上げていた。顔がないのに、怯えているのがわかった。
「あれが、わたしの、うえに、かぶさってる」
背中の鞘の中で、子どもたちが、息をのむ気配がした。
「……あれ、ぼくらじゃない」
マチの声が、震えた。
「ぼくら、あんなの、じゃない」
「ちがう」
アユが言った。ホリが、ウタが、ちがう、ちがう、と繰り返した。
怪物が、吠えた。
声は、なかった。火が噴き出す音だけが、した。顎から、火が溢れた。溢れた火が、椀の縁を越えて、四方へ散った。空が、赤くなった。
山の肩の向こうの、霧の海に、赤い雨が降りそそいだ。
◇
足もとが、揺れた。
下からだった。ごう、という低い音が、火の音とは別に、山の底から響いてきた。水の音だった。洞窟で聞いた音より、ずっと大きく、ずっと近かった。
岩の割れ目から、湯気が上がりはじめた。しゅう、と細い音を立てて。濡れた石の匂いが、焦げた匂いに混じった。
水が、下から、火の子の体の中を、満ちてきているのだった。
「クラセ。アメツ」
ナルカが、唸るように言った。
答えはなかった。水の音だけが、大きくなった。
スズは、振り返った。
霧の海が、赤く燃えていた。霧の切れ目から、里が見えた。
煙が、数えられなかった。里の真ん中から、端から。母の社のあたりから。
燃えていた。
スズの手の中で、剣が、重くなった。
刀身の中の者が増えたのではなかった。刀身の中の誰かが、重くなったのでもなかった。スズの腕が、剣を支えきれなくなっていた。熱と、揺れと、八人ぶんの重さが、一度に、腕から背骨へ落ちてきた。
刀身を見た。
白かった。
濁っているのではなかった。白く、塗りこめられていた。八つの顔が、その白さの底に、沈んでいた。目を凝らしても、輪郭しか見えなかった。誰の顔なのか、わからなかった。スズの顔は、もちろん、どこにもなかった。
膝が、折れた。
黒い岩に、膝をついた。熱い岩だった。草鞋ごしに、膝が焼けた。
倒れなかった。
膝をついたまま、剣を、岩に突き立てた。杖にして、体を支えた。
息が、できなかった。
鼻の奥が、熱かった。唇に、塩の味がした。拭うと、手の甲が赤かった。
◇
ナルカが、スズの前に下りてきた。
熱の中で、白い衣が、灰と煤で汚れていた。スズの前に、膝をついた。目の高さを、スズに合わせた。
「最後に、もう一度だけ言う」
ナルカの声は、低かった。火の音の中でも、はっきり聞こえた。
「切り捨てろ」
スズは、ナルカを見た。
「頂の火を。作法で。宿さずに。あの怪物ごと。そして、剣の中の守たちを。作法で斬り直せ。一人ずつ。無かったことにしろ」
ナルカの目は、怪物の火に照らされて、赤かった。
「確かだ。おれは、何度も見てきた。作法で斬れば、必ず消える。消えれば、火は止む。里は救われる。水も、火がなければ、それ以上、満たす理由がない。器は、軽くなる。おまえは、生きる」
ナルカは、スズの手の刀身を見た。
「姉は、残る」
スズは、息を吸った。
「……母さんは」
「母は、火を抱いて眠っている。火を消せば、火と一つになっている母も、一緒に消える」
ナルカは、目をそらさなかった。
「火の子も、どこにも還らない。体の霊は、作法で消える。頭は、名のないまま消える」
「あの爺さんに、したことを」
スズは言った。声が、かすれた。
「今度は、あの子と、母さんに、する」
「そうだ」
ナルカは言った。
「それで、確かに、終わる」
ナルカは、少しも、声を和らげなかった。
「返す刃は、確かではない。一度も試されたことがない。しくじれば、おまえは潰れる。火に呑まれる。中の者は、一人残らず、散る。先の妹も。子どもたちも。何も返らない。何も救われない。里も焼け、母も沈む」
ナルカは、息を吐いた。
「うまくいったとしても、姉は去る」
スズは、答えなかった。
「何もしなければ」
ナルカは、最後に言った。
「里は焼け、母は溺れ、器は割れる。おまえは、ここで潰れる」
ナルカの膝の上で、手が、握りしめられていた。白くなるまで。あの老人の、組んだ両手のように。
「選べ、妹」
ナルカは、少しだけ、目を伏せた。
「おれは、おまえを、生かしたい」
はじめて聞く声だった。平らではなかった。
◇
怪物の顎から溢れる火が、宙で動かずにいるように見えた。牙のあいだの火の粒まで、数えられそうだった。
火の音も、水の音も、遠くなった。
スズは、膝をついていた。剣を、岩に突き立てていた。
刀身は、白かった。
白い刃の底に、八つの顔が沈んでいた。
一つは、姉。
七つは、子どもたち。
切り捨てれば、姉が残る。三年、そうしてきたように。姉と二人で、山を下りる。火の粉の降らなくなった里へ。炉端で、刀身の姉と話す夜へ。
そのかわりに、子どもたちが、消える。戸の前で母を待っていた子も。輪の上を歩き続けた子も。無かったことに。あの老人と、同じように。
母が、消える。火を抱いて、誰にも斬らせないと言った、焼けた腕の女が。
返せば、子どもたちが還る。体へ。母のところへ。母が、目を覚ますかもしれない。里の火が、止むかもしれない。
そのかわりに、姉が去る。
しくじれば、全部が、消える。
火の粉、やませてね。
機屋の子の声が、遠くで、した。スズは、やませる、と答えた。あの約束だけは、どの道を選んでも、果たせるかもしれなかった。果たせないかもしれなかった。
帰れ。
しわがれた声も、した。この上には、何もない。起こすな。
何もないのではなかった。ここには、全部があった。
誰も失わずに済む道は、どこにもなかった。
スズは、はじめて、それを知った。
三年前、スズは、姉を失いたくなかった。だから、切り捨てずに、宿した。山を登りながら、子どもたちが消えるのがいやで、一人ずつ、宿した。
誰も、失いたくなかった。
それが、ここで、できなくなった。
刀身の中の子どもたちも、黙っていた。
みんな、スズを見ていた。かえれる、と聞いたときの顔のまま、何も言わずに。マチも。一度も、いれて、とも、かえして、とも、言わなかった。
この子たちに名を付けたのは、姉だった。マチ。アユ。ホリ。ニギ。クウ。ネネ。ウタ。門の名で呼ばれていた子たちを、姉が、子にした。
この三年、楽しかったんだよ。ほんとに。
姉の声が、耳の奥に残っていた。
スズは、白い刀身の中の、姉を見た。
姉は、何も言わなかった。
行かせて、とも。残して、とも。何も。
唇が、一度だけ、震えた。声には、ならなかった。
白さの底から、スズを見ていた。三年前、杉の下で、目を閉じる前に、スズを見ていたのと、同じ目だった。何か聞かれたら、答えようと思って、待っていた目だった。
スズは、口を開いた。
姉さん、と言いかけた。どうしたい、と聞きかけた。
聞けば、姉は答える。
スズは、口を閉じた。
聞かなかった。
三年前も、聞かなかった。聞かないで、斬って、聞かないで、ここに置いた。
今度も、聞かない。
聞かないで、手放す。
同じ形の、反対のことだった。
スズは、剣の柄を、握り直した。
白い刃の底で、かすかに、何かが鳴った。
かえしたい。
鋼の底からの、細い声だった。
顔のない子どもが、燃える怪物の足もとで、スズを待っていた。光る頭が、また少し、暗くなっていた。
スズは、決めた。




