第三十五話 兄の背
スズは、立ち上がった。
岩に突き立てた剣を、杖にして。膝が、震えた。震えながら、伸びた。
立った。
剣を、岩から抜いた。重かった。両手で、胸の前に構えた。白い刀身が、怪物の火を映して、うっすらと赤く染まった。
「返す」
スズは言った。
怪物が、また火を噴いた。椀の縁の岩が、赤く照らされた。怪物の足もとの岩の上で、顔のない子どもが、膝を抱えていた。光る頭の、額のあたりが、さっきより暗かった。
ナルカは、膝をついたまま、スズを見上げていた。
しばらく、何も言わなかった。
火の音と、水の音だけが、あった。
「……そうか」
ナルカは、ゆっくりと立ち上がった。
スズより、頭一つ高かった。灰にまみれた白い衣が、熱の風に揺れていた。
「では、おれは、おまえを止められる」
ナルカは、腰の雷剣に、手をかけた。
「おれには、火も、守も、斬れん。中の者も、斬れん。だが、おまえは斬れる。肩を。腕を。膝を。おまえが剣を振れなくなるまで。気を失うまで」
雷剣が、鞘から、わずかに出た。刃のまわりで、光が、ぱちりと弾けた。
「おまえが眠っているあいだに、火は里を焼く。水は母を沈める。それは止められん。だが、おまえは生きる。剣を抱いて、先の妹と一緒に。目を覚ましたとき、何もかも、終わっている」
スズは、剣を構えたまま、ナルカを見ていた。
「止めることは、できる」
ナルカは言った。
「おまえは、一度、あの爺さんを切り捨てた。あの軽さを、体が覚えているだろう。同じことを、もう一度すればいい。二度目は、一度目より、楽だ」
「……楽だった」
スズは言った。
「だから、もう、しない」
雷剣が、鞘を離れた。
細身の刃が、スズの胸の高さに、まっすぐ向いていた。光が、刃の上を、細かく走っていた。
スズの剣も、上がっていた。雷剣の光が、白い刀身に映って、八つの顔の上を走った。
上がったのが、自分の腕なのか、剣なのか、わからなかった。白い刃が、雷剣の刃の前に、壁のように立っていた。
二つの刃が、わずかな間をあけて、向き合っていた。
どちらも、動かなかった。
熱の風が、二人のあいだを吹き抜けた。灰が、刃と刃のあいだを、ゆっくりと落ちていった。ナルカの顔は、怪物の火に照らされて、半分が赤く、半分が影だった。どちらの半分も、スズを見ていた。
◇
岩の斜面の朝を、スズは思い出していた。
ナルカの刃が、肩の布に触れるか触れないかのところで止まった。スズの刃が、振りかぶったまま、止まった。
斬る理由が、ない。
あのとき、スズは、そう言った。それが、なまくらだ、とナルカは言った。
いまも、理由はなかった。
この男を斬る理由は、どこにもなかった。井戸端で、はじめて会った夜から。弟も、妹も、ひとり残らず看取ってきた、と言った夜から。
「……斬らない」
スズは言った。
「あなたは、斬らない」
ナルカは、答えなかった。
「わたしも、止めさせない」
スズは、刃を、雷剣の前から、下ろさなかった。
「あなたは、正しい」
スズの声は、かすれていた。
「宿し続けたら、潰れる。それは、本当。あなたの弟や妹は、みんな、そうだった。わたしも、そうなる。このまま、みんなを中に置いたままなら」
ナルカの目が、わずかに、動いた。
「だから、返す」
スズは言った。
「宿し続けない。切り捨てもしない。返す」
言いながら、スズは、自分の言葉を聞いていた。
三年、姉を刀身に置いてきた。償いだと思っていた。償いではなかった。手放せなかっただけだった。手放すのが怖くて、置いていた。子どもたちも。一人ずつ。
ナルカは、それを、はじめから言っていた。宿すな。
半分は、正しかった。姉が、そう言った。
ナルカは、長いこと、黙っていた。
「……しくじれば、同じことだ」
「うん」
「潰れる」
「うん」
「中の者も、散る」
「うん」
スズは、一つずつ、うなずいた。
ナルカの言うことは、一つも、間違っていなかった。スズは、それを、打ち消さなかった。打ち消す言葉を、持っていなかった。持っていたのは、決めたということだけだった。
ナルカの刃の先で、光が、弾けるのをやめた。
◇
ナルカは、雷剣を、下ろした。
ゆっくりと。刃の先が、スズの胸から、足もとへ、下りていった。
「弟妹たちは」
ナルカは言った。
「笑う妹は、最後に、おれを兄さんと呼んだ。泣き虫の弟は、何も言わなかった。十九の弟は、おれの名を、忘れていた」
ナルカは、自分の手を見下ろした。
「みんな、自分で選んだ。宿すのも。潰れるのも。おれは、一人も、止めなかった。止められたのに。いつも、あと一歩のところにいて」
ナルカは、雷剣を、鞘に納めた。鞘のまわりで、光が一つ弾けて、消えた。
「今度も、止めない。止めないのが、おれの選んだことだ」
スズは、剣を下ろした。
ナルカは、スズの手の、白い刀身を見た。
白さの底に、八つの顔が沈んでいた。
「先の妹」
ナルカは、刀身に向かって言った。
「世話をかけた」
姉は、刀身の中から、ナルカを見上げていた。
しばらく、何も言わなかった。
「……ありがとう」
姉は言った。
それから、少し迷うように、唇を動かした。
「兄さん」
ナルカの顔が、ほんのわずかに、動いた。笑ったのか、そうでないのか、スズには、わからなかった。井戸端で、口の端が上がったときと、似ていた。
「かみなりの、おにいちゃん」
マチが、刃のふちから、身を乗り出していた。
「ばいばい」
ナルカは、マチを見た。しばらく見ていた。何も言わなかった。
「……あの人」
姉が、スズにだけ聞こえるように言った。
「ずっと、わたしたちのこと、見てたんだね。わたしのときも。きっと、どこかで」
ナルカは、スズに目を戻した。
「おれは、見ない」
ナルカは言った。
「おまえが潰れるところは、見ない。十一人、見た。十二人目は、見ない」
「……潰れない」
「そう言った弟妹も、いた」
ナルカは、背を向けた。
椀の縁の岩を、登りはじめた。灰の降る中を。白い衣が、熱の揺らぎの中で、ぼやけた。
スズは、その背中を見ていた。
呼び止めなかった。
呼べば、ナルカは、振り向いたかもしれない。振り向いて、また、何か正しいことを言ったかもしれない。スズは、それに、答えられなかったかもしれない。
呼ばなかった。
呼ばないことが、スズにできる、ただ一つの礼のような気がした。この男が、十一回、黙って見送ってきたように。
ナルカは、縁の上で、一度だけ、立ち止まった。
振り向かなかった。
「あの日、あの刃から落ちた雫は、三つだった」
背を向けたまま、ナルカは言った。
「落ちたものは、戻らん。おまえの剣が、何を返すのか。おれは、見ないでおく」
それだけ言って、ナルカは、縁の向こうへ、消えた。
しばらくして、遠くで、雷が鳴った。
一度だけ。乾いた音が、霧の海の上を渡っていった。
それきり、雷は、鳴らなかった。
◇
スズは、一人だった。
頂の縁に、剣を握って、立っていた。
目の前で、燃える怪物が、火を噴いていた。足もとで、水が、ごう、と鳴っていた。山の肩の向こうで、里が燃えていた。
ナルカは、いなかった。
「かみなりの、おにいちゃん、いっちゃった」
マチが、ぽつりと言った。誰も、答えなかった。
はじめて、剣の中の者たちのほかに、誰もいなかった。
井戸端の夜から、ナルカは、いつもそばにいた。三歩後ろを歩き、ときには先を歩いて、木の陰で待っていた。倒れれば、腕をつかんで引きずった。剣には、一度も触れなかった。
その背中が、もう、どこにもなかった。
霧の海の上を、風が渡っていった。雷の匂いは、もう、しなかった。
刀身の中で、子どもたちが、スズを見ていた。姉も。
「……行くよ」
スズは言った。
「うん」
「いく」
「いこう」
子どもたちが、口々に言った。ニギは、何も言わずに、姉の指を握りなおした。
刀身の中で、姉が、小さく、うなずいた。姉の顔は、白い濁りの底で、それでも、いちばんはっきりしていた。
顔のない子どもが、怪物の足もとの岩の上で、スズを待っていた。
スズは、椀の内側へ、一歩、踏み出した。
岩が、焼けていた。草鞋の底が、じゅっと鳴った。二歩目。熱が、脛を這い上がってきた。三歩目で、息を吸うと、喉が焼けた。
スズは、息を止めて、四歩目を踏んだ。
顔のない子どもが、顔を上げた。こちらへ、首を向けた。目のない面が、スズの一歩一歩を、確かめるように追っていた。




