第三十六話 タギ
椀の底へ、下りていった。
一歩ごとに、岩が熱くなった。草鞋の底が、焼けて、薄くなっていくのがわかった。与平の編んだ三足目の、最後の藁だった。
息を、止めていた。吸えば、喉が焼けた。止めたまま、歩いた。胸が、苦しかった。
背中ではなく、両手で、剣を握っていた。白い刀身を、胸の前に。八人ぶんの重さが、腕から肩へ、肩から背骨へ、背骨から膝へ、落ちていた。
膝は、折れなかった。
昨夜、歩けた。今朝も、登れた。
なら、あと十歩も、歩ける。
刀身の中で、子どもたちが、歌いはじめた。
ほど、ほど。あったかい、ほど。
小さな声だった。スズの一歩に合わせて、節が、上がって、下がった。上がって、下がる。山の息と、同じ調子で。スズの足が、その節に乗った。
足もとの岩の割れ目から、湯気が、しゅうしゅうと噴き出していた。底のほうで、水が、ごう、と鳴っていた。さっきより、近かった。
怪物が、スズに気づいた。
黒い穴の目が、こちらを向いた。燃える顎が、ゆっくりと開いた。鉤爪のついた腕が、火の粒をまき散らしながら、持ち上がった。
怪物の足もとの岩の上に、顔のない子どもが、膝を抱えて座っていた。怪物の火に、照らされていた。怪物の影の中に、呑まれかけていた。
あの子の上に、かぶさっている。
スズは、それを見ていた。
怪物の形は、火の子の形ではなかった。里の者が怖がって、頭の中で描いてきた形だった。黒く焦げた、岩のような足。鉤爪のついた、獣の足。母を焼いた、火の神。子どものスズが、語りを唱えるたびに、浮かべてきた形。
スズ自身が、何百回も、その形を描いてきた。
その形が、あの子の上に、かぶさっていた。
◇
スズは、足を止めた。
怪物の、正面だった。見上げると、燃える顎が、空をふさいでいた。
息を、吸った。喉が焼けた。構わずに、吸った。
「タギ」
スズは、呼んだ。
怪物が、動いた。
呼ばれたとわかったように。里の者が、何百年も呼んできた名に、応えるように。燃える体が、ぐっと膨らんだ。顎が、スズのほうへ、下りてきた。黒い目が、スズの顔の、すぐ前に来た。熱が、顔じゅうを打った。まつげの焦げる匂いがした。
呼べば、応える名だった。
それが、嘘の名だった。
タギさまが、起きなすった。
社の石段で、腰の曲がった爺さまが、山を見上げて言った。誰も、返事をしなかった。返事をすれば、本当になる気がしたのだろう。
里の者が、何百年も呼んで、何百年も怖がって、何百年も、本当にしてきた名だった。
怪物の鉤爪が、振り上げられた。
鉤爪が、降りてきた。
スズは、よけなかった。よける力が、残っていなかった。燃える爪が、スズの左の肩をかすめた。熱が、肩から腕へ走った。左の袖が、燃え上がった。
機屋の女が継いだ、藍の袖だった。握られて焦げて、穴のあいた袖。その袖が、火になって、ちぎれて、灰になった。
スズは、剣を振りかぶった。
重かった。腕が、震えた。上がらないかと思った。上がった。白い刀身が、頭の上で、怪物の火を映して、赤く光った。
なんのために斬るの。
戸の前の子の声がした。頂の、顔のない子の声がした。同じ声だった。
スズは、答えなかった。言葉は、どこにも、なかった。
首を、見なかった。
燃える顎の下の、太い首。長が、落としてこいと言った首。そこを、見なかった。
スズが見ていたのは、怪物の形だった。角の先から、鉤爪の先まで。里の者がかぶせた、嘘の輪郭。その輪郭の、内側に、何があるのか。
抱えずに斬れば、何も残らない。
抱えて斬れば、刀身の中に残る。
スズは、どちらでもなく、刃を下ろした。
かえしたい。
剣の底で、声がした。
スズは、その声に、腕を預けた。
刃が、降りていった。
姉の見た、剣の夢のようだった。高いところから、燃えるものに向かって、落ちていく刃。止まれずに。
燃える怪物の輪郭の、内側で、何かが動いた。
小さな手だった。
怪物の燃える胸の奥から、小さな手が、一つ、刃に向かって伸びていた。開いて。逃げずに。こちらへ。
あの日と、同じだった。
刃は、曲がらなかった。
手を、斬るのではなかった。手を、避けるのでもなかった。刃は、伸びてくる手の、すぐ前を、まっすぐに降りていった。手と、刃のあいだに、何もなかった。手を覆っていた、燃える嘘の皮だけが、刃の前にあった。
◇
刃が、怪物の額に入った。
角と角のあいだ。手応えは、なかった。水でもなかった。何もない。ただ、刃が、燃える額を、上から下へ、通り抜けていった。
額が、割れた。
割れたところから、角が、はがれた。ねじれた角が、燃える紙のように、黒くなって、崩れて、灰になって散った。
刃は、止まらなかった。
額から、黒い目のあいだを。燃える顎を。牙を。首を。斬ったのではなかった。なぞっていた。火の粉を割るときのように。梁の火を、なぞって落としたときのように。
怪物の形が、刃の通ったあとから、はがれていった。
角が散るとき、スズの耳の奥で、節が鳴った。あの日、野が焼けた。
顎が崩れるとき。火の子は、母を殺した。
鉤爪が落ちるとき。山に近づいてはならない。一段目にさえ、足をかけてはならない。
拝殿で、里の者みんなの声で唱えてきた言葉が、刃の通ったあとから、一つずつ、灰になって、剥がれていった。
顎が、はがれた。牙が、灰になった。鉤爪の腕が、肩から崩れて、散った。黒く焦げた岩のような足が、ひびわれて、ぼろぼろと、剥がれ落ちた。
刃が、怪物の足もとまで、下りた。
その瞬間、スズは、呼んだ。
「ホド」
声が、出た。
刀身の中で、姉が、目を閉じるのが見えた。白い濁りの底で。祈るように。
喉がふさがることは、なかった。舌の上の音の形が、そのまま、唇から出た。熱の中を、まっすぐ、飛んでいった。
どこかで、何かが、つながった。
目に見えない、細い糸のようなものが。
スズには、それがわかった。手の中の剣が、震えていた。鋼の底から、張りつめた弦が、はじけるのではなく、結ばれるような音がした。
鈴が、鳴った。
ちり、と。これまで聞いたどの音よりも、澄んだ音だった。
足もとで、とくん、と、何かが打った。
山の底からだった。緒の先で聞いた、あの音。けれど、いままでより、ずっと強かった。とくん。とくん。眠っている者が、夢の中で、名を呼ばれて、胸を動かしたような。
◇
怪物は、いなかった。
伸びていた小さな手は、どこにもなかった。残った火の中に、溶けていた。
黒い灰が、熱い風に乗って、椀の縁の向こうへ、舞い上がっていった。角も、顎も、鉤爪も、どこにもなかった。
火が、残っていた。
椀の底に、火が、揺れていた。柱ではなかった。膝の高さくらいの、丸い、ゆらゆらとした火だった。赤く、橙色に、温かく。怒ってはいなかった。吠えてもいなかった。
炉の火のようだった。
火を焚いて、守るところ。ナルカは、その名を、そう言った。
冬の夜、祖母が灰の下に埋めておいて、朝、掘り起こすと、まだ赤く息をしている、あの火。
スズは、剣を下ろしたまま、その火を見ていた。
膝が、震えていた。止めていた息を、ようやく吐いた。吸った息は、もう、喉を焼かなかった。
「……きこえた」
声がした。
火のそばの岩の上で、顔のない子どもが、顔を上げていた。
「きこえた。いま。わたしの、なまえ」
子どもの声が、震えていた。
「とどいた」
刀身の中で、子どもたちの歌が、止んでいた。
「……ほど」
マチが、ささやいた。自分の名を、はじめて聞いたように。
スズは、子どもを見た。
卵の殻のように、なめらかだった面に。
二つの、細い線が、浮かんでいた。
線が、ゆっくりと、開いた。
目だった。
黒い、大きな目。マチと、同じ目だった。アユとも、ホリとも、ウタとも、同じ目だった。
その目が、スズを見ていた。
はじめて、見ていた。
目の下に、ぼんやりと、鼻の形が浮かびかけていた。まだ、口はなかった。顔は、まだ、半分しかなかった。
灰が、スズの髪に、肩に、降っていた。燃えた袖のあとの、むき出しの腕にも。熱くはなかった。
スズは、手の中の刀身を見た。白い濁りの底で、八つの顔が、こちらを見ていた。子どもたちの顔が、みんな、顔のない子と同じ目をしていた。
スズの手の中で、剣が、熱くなった。
白い刀身の底から、光が、湧き上がってきていた。




