第三十七話 還る
光が、刃から溢れた。
白い刀身の、底のほうから。濁りを押し分けて、湧き上がってきた。湯のように温かい光だった。スズの手の中で、剣が、震えていた。重さのせいではなかった。中のものが、動きだしていた。
足もとで、とくん、と音がした。山の底から。さっきより、また強く。底のほうの、ごう、という水の音が、その下で、少しずつ、変わりはじめていた。
刀身の中で、子どもたちが、立ち上がっていた。
マチが、最初だった。
刃のふちまで来て、スズを見上げた。丸い目。薄い眉。頬の煤は、もう消えていた。
「おねえちゃん」
マチは言った。
「叩いて、待ってくれて、ありがと」
スズは、答えようとした。声が出なかった。
「じいちゃんも、かえる?」
マチが聞いた。
「じいちゃんも、あとから、くる?」
スズは、答えられなかった。
マチは、しばらくスズの顔を見ていた。それから、首をかしげた。そんなことも知らないのか、という顔ではなかった。はじめて、答えのない問いを知った顔だった。
「……じゃあ、ぼく、まってる」
マチは言った。
「叩いて、まってる。むこうで」
マチは、笑った。
それから、刃の外へ、出た。
光になって、刃から流れ出した。細い光の筋が、椀の底の火へ向かって、まっすぐに飛んでいった。火のふちに触れて、溶けた。
火の、下のほうに。
右の足が、できた。
小さな、裸の足だった。火の中から、生まれるように、形になった。熾火の色ではなかった。子どもの肌の色だった。
「……アユ」
スズは、声を絞り出した。
アユが、刃のふちにいた。細い顔。大きな目。
「あっち」
アユは、火のほうを指さした。
「わかる。いま、わかる」
アユは、うれしそうだった。はじめて見る顔だった。
光になって、流れ出した。火に溶けた。
左の足が、できた。
二本の足が、並んで、椀の底の岩の上に、立った。
◇
ホリが、刃のふちで、爪の割れた右手を、スズに向かって開いた。
岩の絵と、同じ形だった。
スズは、刀身に、指を当てた。ホリの手のひらのあるところに。
ホリは、笑った。流れ出した。
右の手が、できた。
ニギが、刃のふちに来た。
姉の指を、握ったままだった。
ニギは、姉の指を見た。それから、姉の顔を見た。
「……いいよ」
姉が言った。
「離して、いいよ」
ニギは、しばらく、姉の指を握っていた。
それから、一本ずつ、指をほどいた。
はじめて、手が、空になった。ニギは、空になった自分の手を、不思議そうに見た。それから、姉に、小さく頭を下げた。
流れ出した。
左の手が、できた。
クウは、刃のふちで、腹を押さえていた。
「おなか、すいてない。いまも」
クウは言った。
「母さんの、とこ、いくから」
流れ出した。腹が、できた。
ネネは、刀身の奥の暗いほうから、光のほうへ、目を細めて出てきた。まぶしそうだった。怖がってはいなかった。
「あかるい」
ネネは言った。
「あかるくても、はなせる」
流れ出した。
ウタが、最後の子だった。
刃のふちで、小さく、歌っていた。ほど、ほど。あったかい、ほど。
歌いながら、流れ出した。
胸が、できた。
胸ができると、火が、そこへ集まった。椀の底で揺れていた丸い火が、小さくなって、胸の中へ、吸いこまれていった。
胸の中で、火が、灯った。
とくん。
スズの足もとから、音がした。山の底からではなかった。椀の底に立った、小さな体の、胸の中から。
顔のない子どもが、岩の上から、下りてきた。
半分だけの顔で。目と、浮かびかけた鼻で。小さな体の前に、立った。
そして、その上に、重なった。
頭が、できた。
顔が、できた。
目。鼻。口。眉。頬。
マチと同じ目だった。アユと同じ目だった。ホリとも、ニギとも、クウとも、ネネとも、ウタとも。
みんなと、同じ顔だった。
椀の縁の上の空から、灰が、降りやんでいた。
椀の底の岩の上に、子どもが、ひとり、立っていた。
五つか、六つか。裸で、肌が、ほんのりと赤かった。炉のそばで温まった子どもの頬の色だった。胸の中で、火が、とくん、とくんと、打っていた。
子どもは、自分の手を見た。右の手。左の手。足を見た。腹を、撫でた。胸に、手を当てた。
それから、スズを見た。
スズの手の、剣を見た。
子どもは、右の手を、剣のほうへ伸ばした。開いて。逃げずに。
スズは、剣を、下ろした。切っ先を、岩に向けた。
かわりに、自分の左手を、差し出した。
子どもの手が、スズの指を、握った。温かかった。熾火の熱ではなかった。炉のそばで温まった、子どもの手の温かさだった。
口を、開いた。
「……ホド」
自分の名を、言った。
マチでも、アユでも、ホリでも、ニギでも、クウでも、ネネでも、ウタでもなかった。その全部が、一つの名に、溶けていた。
姉が、付けた名が。
母の付けた名に、還っていた。
◇
刀身の中には、姉だけが、残っていた。
白い濁りは、消えていた。刃は、澄んでいた。鏡のように、澄んでいた。その中に、姉が、ひとりで、座っていた。
膝の上が、空だった。
「ホド」
姉が、刃の中から、椀の底の子どもに言った。
「母さんのとこ、行きな。待ってるよ。叩いて」
子どもは、姉を見上げて、うなずいた。
姉は、空になった膝を、見下ろしていた。それから、顔を上げた。
スズを見た。
「スズ」
姉は言った。
スズは、刀身を見ていた。姉の顔が、少しずつ、薄くなっていた。ふちから、光に溶けていくように。
「……姉さん」
声が、震えた。
「行かないで」
言ってしまった。言わないと、決めていたのに。
姉は、笑った。
目尻の、少し下がった目で。十七の頃のままの顔で。三年、刃の中からスズを見上げてきた顔で。
「行くよ」
姉は言った。
「あんたが、聞かないで、決めたんだから」
スズは、息をのんだ。
「……ありがとう」
姉は言った。
「今度は、聞かないでくれて」
姉の顔が、また、薄くなった。
スズは、刀身に顔を寄せた。
姉は、何か、言おうとしていた。唇が、言葉の形に開いて、震えた。三年前、杉の下で、目を閉じる前に。出立の前の夜、灯明の下で。何度も、言いかけて、飲みこんできた顔だった。
姉は、飲みこまなかった。
「スズ」
姉は、まっすぐ、スズを見た。
「おまえは、わたしを殺していない」
スズは、動けなかった。
おまえ、と姉は言った。出立の前の夜と、同じ呼び方だった。
「わたしを殺したのは、あの嘘だよ。里の。あんたの刃は、あの嘘から、わたしを、ここに連れてきてくれた。三年。ずっと」
姉の目から、光がこぼれた。
「本当のことを言って、殺されて。三年、本当のことが、言えなかった。わたし、自分でも、信じきれなかったの。あんたが、わたしを殺したんじゃないって」
姉は、笑った。
「いま、嘘が切れて、やっと、言えた」
姉の顔が、光に溶けていった。
目だけが、最後まで、残っていた。スズを見ていた。
「スズ。笑いなよ」
それが、最後だった。
刀身が、空になった。
スズは、岩に、膝をついた。
剣を抱いたまま。空の刃を、胸に押しつけて。
泣いていた。
三年前、炉端で、姉がスズと呼んだ夜に泣いて、それきり泣いていなかった。泣き方を忘れたと思っていた。忘れていなかった。声が出た。肩が震えた。灰にまみれた頬を、熱いものが、何度も伝った。
子どもが、スズの指を、握っていた。黙って、待っていた。
笑いなよ。
スズは、泣きながら、口の端を上げようとした。うまく、いかなかった。
◇
剣が、軽くなった。
腕が、ふっと上がった。重さが、どこにもなかった。三年、いつも手首の上にあった、人ひとりぶんの重さも。
棚田で、老人を切り捨てたときの軽さとは、違った。あのときは、体が喜んだ。
いまは、喜ばなかった。
ただ、軽かった。
鈴が、鳴った。ちり、と。誰もいない刃の上で。
スズは、刀身を見た。
顔が、一つ、映っていた。
スズの顔だった。
煤と灰にまみれて、目が赤く腫れて、唇が切れていた。霧の中で探しても見つからなかった顔が、澄んだ刃の上に、ひとりで、映っていた。
ほかには、誰も、映っていなかった。姉も。子どもたちも。刃の奥で、返したいと言っていた声も、もう、しなかった。
腰で、大人の草鞋が、揺れていた。縄をからめたまま。老人が、マチの小さな足に縛ってやっていた草鞋だった。
それだけは、どこにも還らずに、スズのところに残っていた。




