第三十八話 抜かずに
子どもが、スズの指を、離した。
スズは、涙で濡れた顔を上げた。
子どもは、椀の底の、火が昇っていたところを見ていた。火は、もうなかった。岩に、丸い穴があいていた。井戸のような、深い穴だった。そこから、温かい風が、ゆっくりと吹き上がっていた。
とくん。
穴の底から、音がした。
子どもは、穴の縁まで歩いていった。裸足で。右の足と、左の足で。一歩ずつ、確かめるように。
穴の縁で、振り向いた。
スズを見た。
何か言うかと、スズは思った。子どもは、何も言わなかった。右の手を、胸に当てた。とん、とん、と、二度、叩いた。
「……ホド」
スズは、呼んだ。子どもは、うなずいた。
それから、穴の中へ、降りていった。
落ちたのではなかった。吹き上がる温かい風に、ふわりと乗って。灯が一つ、井戸の底へ、ゆっくり沈んでいくように。胸の火の明かりが、穴の壁を、赤く照らしながら、小さくなっていった。
スズは、穴の縁まで、這っていった。
のぞきこんだ。
深かった。緒の先でのぞいた、あの縦穴と、同じ深さだった。いや、同じ穴だった。山の頭から、山の底まで、一本の道が、まっすぐに通っていた。
底のほうで、赤い明かりが、止まった。
スズは、目を凝らした。
暗がりの中に、人の形があった。
横たわっていた。長い髪が、岩の上に広がっていた。両腕を、胸の前で、何かを抱くように、組んでいた。
抱いているものは、なかった。
腕の中が、空だった。何百年も、何かを抱き続けてきた腕の形のまま、空っぽだった。
赤い明かりが、その腕の中へ、降りていった。
子どもだった。胸に火を灯した子どもが、空っぽの腕の中へ、すっぽりと収まった。
腕が、動いた。
ゆっくりと。長い眠りの底から、何かを確かめるように。腕が、子どもを、抱き寄せた。
顔が、見えた。
焼けていなかった。ウブモリが見せてくれた、あの日の、焼けた顔ではなかった。やさしい顔だった。
目が、開いた。
遠くて、表情までは、わからなかった。それでも、その目が、腕の中の子どもを見下ろしているのが、わかった。
女の手が、子どもの胸を、とん、とん、と叩いた。
子どもの足が、とん、と、女の腹を蹴り返した。
スズの喉から、声にならない息が漏れた。
女の目が、一度だけ、上を向いた。穴の縁の、スズのほうへ。スズが見えたのかどうか、わからなかった。見えていても、見えていなくても、スズは、頭を下げた。
母は、火を抱いていなかった。
子どもを、抱いていた。
穴の底から、声が、昇ってきた。
細い、やわらかい声だった。温かい風に乗って、湯気のように、ゆっくりと。
ほど、ほど。あったかい、ほど。
かあの、むねの、ほど。
歌だった。霧の中で、胸の子が歌っていた歌。祖母が、節だけを覚えていた歌。
名が、届いていた。母の口から、腕の中の子へ。何百年ぶりに。
誰も、来させないで。
あの日、女は、戸の番にそう言った。老人は、何百年も、その願いを守った。帰れ、と言い続けた。
来たのは、スズだった。老人を、無かったことにして。
母は、目を覚ました。老人は、それを、見られなかった。
里の者は、みな、母の末を名乗る。母の社には、火を入れない。火は、母の仇だから。
その母が、山の底で、火を灯した子を抱いて、歌っていた。
◇
足もとで、音が変わった。
ごう、という、水の音だった。洞窟からずっと聞こえていた、山の底へ流れこむ水の音。それが、変わった。
しゅう、と、細く。
穴の底から、白いものが、昇ってきた。
湯気だった。
温かい湯気が、穴の壁を這い上がって、椀の底に溢れた。スズの顔を、濡らした。硫黄のような、鉄のような、懐かしい匂いがした。
「……ぬるい」
湯気の中から、声がした。
低い、くぐもった声だった。
「火が、消えない」
高い声が、続けた。
「水が、ぬるむ。火に、触れても。消えない。ぬるむだけ」
クラセと、アメツだった。姿は、見えなかった。湯気の中の、どこかにいた。
「消すために、生まれたのに」
クラセの声は、戸惑っていた。はじめて聞く、戸惑った水の声だった。
しばらく、声は、しなかった。
「……温かい」
アメツが言った。
「これも、悪くない」
それきり、声は、しなかった。
椀の縁の岩の割れ目から、湯気が、次々に噴き出した。山の肩のあたりからも。ずっと下の、霧の海の上からも。白い湯気が、あちこちで、ゆっくりと、空へ昇っていった。
山の底に流れこんだ水が、子どもの胸の火に触れて、温まって、岩の隙間という隙間から、湧き出していた。
湯になって。
戸の前の岩壁からも。草の海の、ねじれた木の根もとからも。岩の斜面の、割れた岩からも。棚田の、冷えた火床の石の箱にも、いつか、この湯が満ちるのかもしれなかった。
スズは、焼けた左の腕を見た。袖が燃え落ちて、肩から肘まで、赤くただれていた。
椀の底の岩のくぼみに、湯が溜まりはじめていた。スズは、膝をついて、左の腕を、そっと浸した。
熱くは、なかった。
ぬるく、やわらかかった。ただれたところに、沁みた。沁みて、それから、痛みが、少しずつ遠くなった。
◇
スズは、立ち上がった。
手の中に、剣があった。
軽かった。三年、手首の上にあった重さが、どこにもなかった。刀身は、澄んでいた。スズの顔だけが、映っていた。
スズは、剣を見下ろした。
あの日、赤子を斬れずに、曲がった刃。母と子のあいだを、断った刃。何百年も、剣の底で、返したい、と言い続けてきた刃。
返した。
もう、何も言わなかった。
スズは、椀の内側を見回した。
顔のない子どもが、座っていた岩があった。椀の内側へ張り出した、平たい岩。頭の子が、あの日から、ひとりで火を見ていた場所。
その岩の割れ目から、湯が、湧き出していた。
澄んだ湯だった。岩のくぼみに溜まって、ゆらゆらと湯気を立てていた。
スズは、その岩まで歩いた。
剣を、両手で握った。
湯の湧く岩の割れ目に、切っ先を、当てた。
押しこんだ。
刃は、すっと入った。岩の中へ、まっすぐに。半分まで入って、止まった。
スズは、手を離した。
剣は、立っていた。
ここにある剣だ、とスズは思った。返した場所に、立っている剣だ。
湧き出す湯が、刃の根もとを、静かに洗っていた。柄巻きには、三年ぶんのスズの指の跡が、黒くすり減って残っていた。
スズは、剣に、頭を下げた。
湯の湧く岩に、まっすぐに。柄の鈴が、湯気の中で、かすかに揺れていた。
刃が、湯気で曇った。曇りが、ゆっくり晴れると、刃に、空が映っていた。頂の上の空が、はじめて、青かった。
スズは、しばらく、それを見ていた。
抜こうとは、思わなかった。
火を斬る者の剣だった。十四で継いで、三年、握ってきた。火の粉を斬った。梁の火を斬った。姉を斬った。子どもたちを、一人ずつ、宿した。老人を、無かったことにした。
もう、斬るものは、なかった。
手が、空だった。
三年、剣を握っていない手を、スズは知らなかった。眠るときも、手の届くところに置いていた。スズは、空の手を、握って、開いた。何を握ればいいのか、わからなかった。
スズは、剣に背を向けた。
椀の縁の岩を、登りはじめた。
鈴が、鳴った。
ちり、と。背中のほうで。
振り向かなかった。
縁の上に立つと、山の肩の向こうが、見えた。
スズ。笑いなよ。
スズは、口の端を、上げてみた。頬が、引きつった。うまくいかなかった。それでも、もう一度、上げてみた。
霧の海が、薄れはじめていた。ところどころで、白い湯気が、霧を突き抜けて、昇っていた。
霧の切れ目から、里が見えた。
煙が、上がっていた。けれど、黒くなかった。細く、白かった。消えかけの煙だった。
空から、火は、降っていなかった。
スズは、下りはじめた。
腰で、大人の草鞋が、揺れていた。
背中は、軽かった。何も、背負っていなかった。
一歩目で、スズは、そのことに気づいた。
二歩目で、泣きそうになった。
三歩目から、ただ、歩いた。
霧の中の、平たい岩を通った。胸の子が、歌っていた岩。誰も、いなかった。岩の割れ目から、細く、湯気が上がっていた。
日が暮れると、岩陰で、眠った。剣のない夜は、はじめてだった。耳が、何度も、柄を探して、何もないところへ向いた。
眠りの中で、誰かが、とん、とん、と、胸を叩いていた。




