第三十九話 火守
山を下りるのに、四日かかった。
登るときの、半分もかからなかった。背中に、何もなかった。石垣も、岩も、倒れた木も、息を止めずに越えられた。
どこを通っても、湯気が上がっていた。
霧の岩場の割れ目から。闇の洞窟の口から。奥山の、巨木の根もとの洞から。棚田では、冷えていた火床の石の箱に、どこからか湧いた湯が、ぬるく溜まっていた。火守の印の刻まれた縁から、湯気が、細く立ちのぼっていた。
岩の斜面の、割れた岩の前を通った。内側の絵が、湯気に濡れて、光っていた。曲がった刃と、母と子と、断たれた線。
草の海の、赤かった輪は、ただの踏み跡に戻っていた。輪の真ん中から、湯が湧いて、小さな池になっていた。
四日目の昼に、土の道を抜けた。
戸の前に、出た。
◇
黒い両開きの戸は、開いたままだった。
蝶番の錆は、あの朝と同じだった。内へ割れた二枚の戸のあいだから、温かい風が、吹いて、止まって、吸いこまれて、また吹いてきた。山は、まだ、ゆっくりと息をしていた。
岩壁一面の小さな戸には、どれにも、煤で黒い小さな手の跡が、重なって残っていた。
黒い戸の、子どもの肩の高さのところだけ、板がすり減って、白く光っていた。その横に、小さな赤い跡があった。スズの拳の、血の跡だった。乾いて、茶色くなっていた。
戸の前に、平たい石が、ひとつ据えてあった。
誰も、座っていなかった。
スズは、石の前に立った。
帰れ、と言う声は、しなかった。
目を閉じて、骨ばった両手を膝の上で組んで、しわがれた、よく通る声で、何度でも言った老人は、どこにもいなかった。刀身の中にも。山の底にも。死んだ者の行く先にも。
どこにも、還らなかった。
スズは、腰の縄を解いた。
大人の草鞋を、両手に載せた。縄をからめたまま。マチの小さな足に、縛りつけてあった草鞋。若い日に、女を見送ってから、紐を結び直した草鞋。
石の上に、そっと置いた。
戸は、開いたままだった。番は、いなかった。
「……帰りました」
スズは、石に向かって、頭を下げた。
顔を上げると、開いた戸の奥から、温かい風が吹いてきた。草鞋の縄が、かすかに揺れた。
スズは、石段を下りはじめた。
振り返らなかった。
◇
里に着いたのは、夕方だった。
杉の森の切れ目から、里が見えた。
焼けていた。与平の家は、半分どころではなく、柱だけになっていた。機屋の軒も、黒く焦げていた。粟畑は、一面、黒かった。母の社の檜皮屋根は、三か所どころか、半分がえぐれていた。
けれど、煙は、黒くなかった。
白かった。
焼け跡のあちこちから、白い湯気が、昇っていた。
スズは、一度だけ、振り返った。火封山の頂から、白い湯気が、一本、まっすぐに昇っていた。赤くは、なかった。
スズは、石段を駆け下りた。
与平の家の、柱だけになった土間の真ん中に、湯が湧いていた。黒く焼けた地面が割れて、そこから、澄んだ湯が、こんこんと溢れていた。焼けた粟畑の畝のあいだにも。社の石段の下にも。
人が、湯のまわりに集まっていた。
与平が、湯に手を入れて、首をかしげていた。女房が、湯で、煤だらけの子の顔を拭いていた。ウメ婆が、社の石段の下の湯に、裸足の足を浸していた。
誰も、焼けていなかった。家は焼けた。畑も焼けた。人は、みんな、逃げ延びていた。
「……スズだ」
誰かが言った。
顔が、一つずつ、こちらを向いた。
小さな影が、人垣の中から、飛び出してきた。
「スズ姉ちゃん!」
機屋の子だった。煤だらけの顔で、裸足で、泥をはね上げて、駆けてきた。スズの腰に、しがみついた。
「やんだ! 火の粉、やんだ! 四日前の夜から、一つも、落ちてこない!」
スズは、子どもの頭に、手を置いた。
剣を握っていない手で。
「……やませた」
スズは言った。
声が、震えた。
機屋の女が、人垣の後ろから、スズを見ていた。スズの左の肩を。袖が燃え落ちて、赤くただれた腕を。
「また、焦がしたね」
女は言った。
「……全部、燃えた」
「そうかい」
女は、それだけ言った。それから、目をそらして、つぶやいた。
「藍の端切れ、まだ、あったかね」
◇
その夜、拝殿に、里の者が集まった。
焦げた天井の穴が、大きくなっていた。月の光が、細い柱ではなく、太い帯になって、床まで落ちていた。
スズは、長の前に立った。
あの日、姉が立ったところだった。泥だらけの草鞋のまま。
長は、上座に座っていた。白い髭に、灰が積もっていた。スズの腰を見た。剣が、なかった。
「首は」
長は言った。
「落としてきたのか」
「落としていません」
スズは言った。
拝殿が、ざわりと揺れた。
「火の子は、母を殺していませんでした」
スズは、長の目を見て、言った。
「あの日、野は、焼けていません。母は、死んでいません。山の底で、火の子の火を、抱いて、眠っていました。誰にも、斬らせないために。いま、目を覚ましました。火ではなく、子どもを、抱いています。火の粉は、もう、降りません。焼け跡の湯は、その子の火で、温まった水です」
誰も、何も言わなかった。
「……じゃあ」
与平が、かすれた声で言った。
「おれの家は、何に焼かれたんだ」
「火に」
スズは言った。
「眠っている母さんの腕から、こぼれた火に。母さんが、弱って。抱ききれなくなって」
与平は、口を開けたまま、黙った。
スズは、息を吸った。
「一つ目の門に、いたのは、子どもでした」
拝殿が、しんとした。
「母さんを待って、戸を叩いていました。火の子は、子どもでした」
スズは言った。
「三年前、姉が、ここで、そう言いました。あれは子どもだ、と。姉は、火に呑まれていませんでした。姉の言ったことは、本当でした」
ウメ婆が、口を押さえた。
「……あの子は」
ウメ婆の声が、震えた。
「サヤは、嘘をつく子じゃ、なかったよ。よく、笑う子だった。あたしは、知ってた。知ってたのに」
ウメ婆は、それ以上、言えなかった。
長は、スズを見ていた。
スズは、長を責めなかった。サヤを殺したのは誰か、とも言わなかった。長が、杖で床を打った日のことも。姉から一歩ずつ離れていった顔のことも。自分が、柱の陰へ、半歩下がったことも。
言えば、また、誰かを斬ることになる。
スズは、もう、何も斬らなかった。見てきたことを、話しただけだった。
長は、長いこと、黙っていた。
杖を、握っていた。床を、打たなかった。
口を開きかけて、閉じた。
それきり、長は、何も言わなかった。
◇
その夜、スズは、ひとりで家に帰った。
炉端に座った。灯明を点けた。
剣は、なかった。抜くものがなかった。刃の中から、また抜いたの、と言う声も。三年、この家で、姉の声がしない夜はなかった。
今夜は、しなかった。
スズは、支度の包みをほどいた。干し飯の下、いちばん濡れないところから、柘植の櫛を出した。
姉の櫛だった。出立の前の夜、なぜそうしたのかもわからずに、包みの底に入れた。
スズは、櫛を、棚の上に戻した。姉がいたころと、同じ場所に。
灯明の火が、小さく揺れた。
◇
しばらくして、里の語りが変わった。
誰が変えたのでもなかった。寄り合いで、子らに語らせるとき、長が、あの日、野が焼けた、の節で、黙るようになった。黙ったまま、子らが唱え終えるのを待つようになった。子らは、大人の声が重ならないのを不思議がって、そのうちに、その節を、唱えなくなった。
かわりに、ウメ婆が、祖母から節だけ伝わっていた子守唄に、スズの教えた言葉を、乗せて歌うようになった。ほど、ほど。あったかい、ほど。
機屋の女は、スズの小袖に、新しい袖を継いだ。藍の、濃い端切れだった。
母の社に、はじめて、火が入った。
小さな炉だった。焼け跡の湯の湧くそばに、石を組んで。夜は、誰かが番をして、火が消えないように、燃えすぎないように、見守った。炉の上で湯を沸かし、湯の湧く池のまわりに、屋根を掛けた。
火を焚いて、守る者。
里の者は、それを、火守と呼んだ。昔から、そう呼んでいた名で。
ある晩、社の炉の番をしていると、長が、ひとりで来た。
何も言わなかった。炉の前にしゃがんで、薪を一本、くべた。燃えすぎないように、そっと。しばらく、火を見ていた。それから、黙って、帰っていった。
スズも、何も言わなかった。薪の爆ぜる音だけが、していた。
その夜、スズは、火の前で、少しだけ、笑った。
今度は、うまく、笑えた。




