第四十話 鈴
十日たって、スズは、ひとりで山へ登った。
誰にも、行くとは言わなかった。夜明け前に家を出て、社の炉の番を与平に頼んで、麓の森の切れ目の石段に、足をかけた。
社を出るとき、拝殿の隅で、機屋の子が、ウメ婆の膝を枕に眠っていた。ゆうべ、炉の番をすると言い張って、そのまま眠ってしまったのだった。ウメ婆は、子の胸を、とん、とん、と叩きながら、小さな声で歌っていた。ほど、ほど。
ウメ婆は、スズに気づいて、顔を上げた。どこへ、とは聞かなかった。うなずいただけだった。
一段目にさえ、足をかけるなと、子どものころから言われてきた。
いまは、誰も、そう言わなかった。
石段の苔が、草鞋の下で、少し沈んだ。与平が、新しく編んでくれた草鞋だった。
背中に、何も負っていなかった。腰にも、何も下げていなかった。懐に、干し飯を少しと、機屋の女が持たせてくれた握り飯が、二つ。
軽かった。
軽さに、まだ、慣れなかった。石段を一段上がるたびに、右の手が、腰のあたりを探した。柄のあるはずのところを。何もなかった。スズは、手を下ろして、また上がった。
◇
戸は、開いたままだった。
平たい石の上に、大人の草鞋が、片方だけ、置いてあった。縄をからめたまま。十日前、スズが置いたときのままだった。雨に一度濡れたらしく、藁の色が、少し濃くなっていた。
草鞋の横に、干し飯が、ひとつまみ、置いてあった。棚田の若い衆か、誰か。誰が置いたのか、スズには、わからなかった。
番は、いなかった。
スズは、石の前で、頭を下げた。
岩壁の、低いところの小さな戸に、煤で黒い手の跡が、いくつも重なっていた。スズは、しゃがんで、その横に、自分の手のひらを当てた。温かかった。手を離すと、跡は、つかなかった。
それから、開いた戸をくぐった。温かい風が、顔を撫でた。山は、まだ、息をしていた。ゆっくりと。穏やかに。
土の道を抜けると、草の海だった。
鳥が、鳴いていた。
はじめてだった。登ったときは、鳥の声も、虫の声もしなかった。いまは、草のあいだから、小さな鳥が、何羽も飛び立った。輪の真ん中の池で、鹿が一頭、湯気の立つ水を飲んでいた。生きている鹿だった。足音が、した。
スズは、輪の踏み跡の上に、少しだけ立った。
「上だよ」
池に向かって、言った。
「ちゃんと、覚えてる」
鹿が、顔を上げて、スズを見た。それから、また、湯を飲んだ。
岩の斜面では、割れた岩の前で、しばらく足を止めた。
内側の絵は、湯気に濡れて、黒く光っていた。曲がった刃。母と、子と、断たれた線。
外側の、何百、何千と重なった絵の上に、苔が、少しずつ、這いはじめていた。
スズは、いちばん新しい絵に、指を当てた。降りてくる刃と、開いた手。指でなぞった。温かかった。
棚田では、火床の石の箱から、湯が溢れていた。溢れた湯が、ひび割れた田の土を、ゆっくりと濡らしていた。いちばん下の段で、里の若い衆が二人、鍬を持って、畦を直していた。スズを見て、手を上げた。スズも、手を上げた。
奥山の、巨木の根もとの洞には、湯が溜まっていた。白い茸が、湯気の中で、ぼんやりと光っていた。
闇の洞窟の口からは、温かい風と、湯の流れる音がしていた。スズは、口の前で、足を止めた。
「明るくても、話せるんだったね」
暗がりに向かって言った。返事は、なかった。湯の流れる音が、少しだけ、大きくなった気がした。
霧の岩場は、晴れていた。
胸の子が歌っていた平たい岩の上に、スズは、握り飯を一つ、置いた。クウなら、腹が空いたと言うだろう。ウタなら、歌うだろう。どちらでもいいと、スズは思った。
それから、最後の峰を、登った。
◇
頂は、とても静かだった。
縁の上で、スズは、振り返った。
山の肩の向こうに、里が見えた。白い湯気が、何本も、まっすぐに昇っていた。そのあいだに、細い煙が混じっていた。黒くない、青みがかった煙。炉の煙だった。朝餉の煙だった。
里が、火を焚いていた。
大きな椀の底に、湯が、溜まっていた。
青白く、澄んだ湯だった。椀の底いっぱいに広がって、ゆらゆらと、湯気を立てていた。火の柱が昇っていた穴は、湯の底に沈んで、見えなかった。
湯の面が、ときどき、ゆっくりと、ふくらんで、しぼんだ。
山の息だった。
その下の、ずっと下で。母が、子を抱いて、息をしているのだと、スズは思った。
スズは、椀の縁を、下りていった。
熱くは、なかった。岩は、日向の石くらいの温かさだった。草鞋の底が、焦げることもなかった。
スズは、湯のふちにしゃがんで、左の腕を浸した。肩から肘まで、焼けたあとが、薄い桃色の肌になって残っていた。湯は、やわらかかった。もう、沁みなかった。
湯の上に張り出した、平たい岩があった。
剣が、立っていた。
湯の湧く岩の割れ目に、まっすぐに。刃の半分を、岩に沈めて。十日前、スズが立てたときのままだった。
湯が、刃の根もとを、静かに洗っていた。湯気が、刃のまわりを、ゆっくりと巻いて、昇っていった。
スズは、剣の前に、立った。
刀身を、見た。
澄んでいた。
空が、映っていた。流れていく湯気が、映っていた。椀の縁の、黒い岩が、映っていた。
誰も、映っていなかった。
目尻の、少し下がった目の、十七の頃のままの顔も。丸い目の、頬に煤のついた子どもの顔も。細い顔も。爪の割れた手も。何も。
置いていけるなら、置いていってごらん。
寄り合いのあとの粟畑で、姉は、そう言って笑った。剣の中にいるんだよ、わたし、と。
スズは、剣を、ここに置いていった。姉は、その前に、自分から、行った。
スズは、手を伸ばした。柄に、指先で触れた。すり減った柄巻き。三年ぶんの、自分の指の跡。
握らなかった。指を、離した。
スズは、刃に顔を近づけなかった。
近づければ、自分の顔が映る。それは、わかっていた。
ただ、少し離れたところから、空の映る刃を、見ていた。
「……姉さん」
スズは、言ってみた。
答えは、なかった。
また抜いたの、とも。今夜で何度目、とも。何も。
スズは、しばらく、そこに立っていた。
還るところへ、みんな、還った。
一人だけ、どこにも還らなかった。戸の前の石の上に、草鞋だけを残して。訳を言わずに。スズが、言わせなかった。
それは、取り返せなかった。
取り返せないまま、スズは、ここに立っていた。社の炉の番をして、湯のまわりに屋根を掛けて、機屋の子に、叩いて待つことを教えて。これから、ずっと。
それから、少しだけ、笑った。
◇
遠くで、雷が鳴った。
空は、晴れていた。雲ひとつなかった。山のずっと向こうの、何もない空の真ん中から、一度だけ、乾いた音が、渡ってきた。
スズは、そちらを見た。
何も、見えなかった。
音は、それきりだった。
「……兄さん」
スズは、小さく言った。姉が、最後に、そう呼んだように。
答えは、なかった。雷は、もう、鳴らなかった。
日は、まだ高かった。暗くなる前に、戸の前まで下りればいい。
スズは、懐から、残りの握り飯を出して、剣の横の岩に腰を下ろした。握り飯を、半分に割った。半分を食べた。もう半分は、剣の足もとの、湯のかからない岩の上に、置いた。
湯気が、流れた。白く、ゆっくりと。
風が、椀の縁を越えて、吹きこんできた。やわらかい、温かい風だった。山の息と、同じ調子で。吹いて、止まって、戻っていった。
剣の柄の先で、小さな鈴が、揺れた。
三年、スズの腰で鳴り続けた鈴だった。抜けば鳴り、振れば鳴った。斬ることを拒んだときだけ、黙った。
九度目、十度目と、姉が火の粉を数えていた夜にも。拝殿で、刃を鞘に押し戻したときにも。杉の下で、振り下ろしたときにも。
いま、誰も、抜いていなかった。誰も、振っていなかった。
風だけが、鈴を、揺らしていた。
スズは、立ち上がった。
剣の立つ岩の、湯のかからないところに、しゃがんだ。拳を、軽く握った。
岩を、叩いた。
とん、とん。
それから、手を下ろした。
待った。
スズは、目を閉じた。
湯の湧く音がした。遠くで、鳥が二度、鳴いた。
山の底のほうから、ほんのかすかに、とん、とん、と、何かを叩くような音が、した気がした。
気がしただけかもしれなかった。
スズは、ゆっくりと、目を開けた。
刀身には、もう、誰も映っていなかった。
柄の鈴が、ちりと鳴った。




