第八話 叩いて、待つ
「叩くって、どう叩くの」
スズは、刀身に向かって聞いた。
刃の中で、子どもは首をかしげた。そんなことも知らないのか、という顔だった。
「母さんは、叩いて、待ってくれた」
「誰を」
「ぼくを」
子どもは、自分の胸を、小さな拳でとんとんと叩いてみせた。
「とん、とん、って。それで、待つの。ぼくが、とん、って返すまで。ずっと、待ってくれた」
スズには、何の話なのかわからなかった。母親が、子どもの胸を叩いたのか。戸を叩いたのか。子どもの言うことは、それ以上はっきりしなかった。
刀身の中で、姉が子どもの顔を見ていた。何か言いたそうに唇が動いて、何も言わなかった。
「だからね、おねえちゃんも、叩いて、待つの」
スズは、剣を鞘に納めた。鈴が鳴った。
戸の前に、膝をついた。
昼に、この子が立っていたのと同じ場所だった。黒い板の、子どもの肩の高さのところが、すり減って白く光っている。スズが膝をつくと、その白いところは、スズの胸の高さにあった。
拳を上げた。
とん、とん。
板は、朝と同じに温かかった。
叩いたところは、白く光るところより、拳ひとつぶん上だった。スズは腰を落として、子どもが叩いていたところを、叩き直した。
スズは、手を下ろした。待った。
何も起こらなかった。
とん、とん。
「もっと、ゆっくり」
腰の鞘の中から、子どもの声がした。くぐもった声だった。
「すぐ叩いちゃ、だめ。叩いたら、待つの」
「……待ってる」
「待ってないよ。おねえちゃん、もう叩こうとしてる」
スズは、上げかけた拳を止めた。
◇
戸を叩く音のほかに、音はなかった。
杉の枝が鳴る。岩壁の戸の隙間が、細く鳴る。遠い頂で、ときどき、腹の底に響くような音がする。
そのたびに、空に火がこぼれた。
眼下の里に、赤い点が灯る。灯っては、消える。消えるのは、桶の水が追いついたからなのか。それとも、燃えるものが燃えつきたからなのか。ここからでは、わからなかった。
拳が、勝手に速くなった。
とん、とん。とん、とん。
「いそいで叩くと、母さん、びっくりするよ」
鞘の中から、子どもが言った。
スズは、額を戸につけた。温かかった。息を、吐いた。
とん、とん。
待つ。
「それが、火を斬る者のすることか」
石段の下から、ナルカが言った。いつのまにか、杉の根から上がってきていた。
「戸を叩いて、夜明けを待つ。そのあいだに、里は焼ける。叩いて開く戸なら、とうにあの子が開けている。何年叩いた。何十年か。何百年か」
スズは、振り向かなかった。
「あの子が叩いて開かなかった戸を、おまえが一晩叩いて開ける道理がどこにある」
「……わからない」
「わからないことに、里を賭けるのか」
ナルカの声は、嘲っていた。けれど、言っていることは、まっすぐだった。スズには、言い返す言葉がなかった。
とん、とん。
スズは、叩いた。叩いて、待った。
「わからないけど」
しばらくして、スズは言った。
「わたしは、まだ一晩も待ってない」
ナルカは、何も言わなかった。石段を下りていく足音がして、杉の根のあたりで止まった。
◇
老人は、石の上に座っていた。
膝の上に、縄のからんだ草鞋を置いていた。目は開いていた。スズの背中を、見ていた。
今夜、老人は一度も「帰れ」と言わなかった。
「あの子は、何と言った」
老人が、ふいに聞いた。
スズは、叩く手を止めずに答えた。
「母さんは、叩いて、待ってくれた、って」
老人は、長いこと黙っていた。
「……そうか」
やがて、老人は言った。スズに向けた声ではなかった。
「あれは、そう覚えとるか」
それきり、老人は目を閉じた。閉じた目の端が、夜の中で、わずかに濡れて見えた。死んだ者も泣くのかと、スズは思った。聞かなかった。
とん、とん。
夜が、ゆっくり更けていった。
拳の皮が、すりむけた。板の温かさが、すりむけたところに沁みた。スズは右の拳を下ろして、左の拳に替えた。
昔、こういう夜があった。
スズが七つか八つのころだった。祖母の大事にしていた椀を割って、納屋に隠れた。戸に閂をかけて、夜になっても出なかった。叱られるのが怖かったのではなかった。椀を割った自分を、誰にも見られたくなかった。
夜ふけに、戸を叩く音がした。
とん、とん。
姉だった。
姉は、開けろとは言わなかった。出てこいとも言わなかった。ただ、叩いて、待った。しばらくして、また叩いた。戸の向こうで、姉が膝を抱えて座っている気配がした。
明け方、スズは自分で閂を外した。
姉は、戸の前で眠っていた。スズが出てくると、目をこすって、笑った。祖母の椀のことは、何も言わなかった。
どうして忘れていたのだろう、とスズは思った。
腰で、鞘がかすかに揺れた。スズは、剣をわずかに抜いた。
刀身の中で、姉がスズを見ていた。
「……納屋の戸」
スズが言うと、姉は、目をそらした。
「覚えてたの」
「いま、思い出した」
「そう」
姉は、それ以上言わなかった。
刀身の端で、子どもが目をこすっていた。
「おねえちゃんのおねえちゃんも、待ったこと、ある?」
姉は、子どもを見下ろした。
「……ある」
「開いた?」
「開いた。朝になったら」
子どもは、満足したようにうなずいて、姉の袖に寄りかかった。そのまま、目を閉じた。刃の中でも眠るのだと、スズは知った。
スズは、剣を納めた。鈴が鳴った。
とん、とん。
◇
里の赤は、夜半を過ぎても消えなかった。
「見ろ」
ナルカの声がした。
「社のあたりだ」
スズは、振り向いた。
里の真ん中に、ひときわ大きな赤があった。ほかの赤のように、灯っては消えたりしなかった。じっと、そこにあった。
母の社のあたりだった。
スズは立ち上がっていた。いつ立ったのか、わからなかった。手が、剣の柄にあった。石段を、一段、二段と下りていた。
下りて、どうする。ここから里まで、半日かかる。着くころには、何もかも燃えつきている。わかっていた。わかっていても、足が止まらなかった。
「おねえちゃん」
鞘の中から、子どもの声がした。
「待つの、やめちゃうの」
スズの足が、三段目で止まった。
責める声ではなかった。ただ、聞いていた。叩いたら待つのだと教えた、あの声のままだった。
スズは、しばらく石段の上に立っていた。里の赤を見ていた。
それから、石段を上がった。戸の前に戻り、膝をついた。
ナルカは、何も言わなかった。
里の赤は、しばらくして、少し小さくなった。消えはしなかった。
スズは、見るのをやめた。見れば、拳が速くなる。
とん、とん。
待つ。
何を待っているのか、スズにはわからなかった。戸が開くことなのか。夜が明けることなのか。それとも、ただ、待つということそのものなのか。
なんのために斬るの。
昼に聞かれた問いが、戻ってきた。スズは、いま、斬っていなかった。叩いていた。十四で剣を継いでから、剣を置いて、この手で何かをしたのは、はじめてのような気がした。
拳の痛みは、斬ったときの痺れとは違った。自分の手が痛いのだと、はっきりわかる痛みだった。
母さんは、叩いて、待ってくれた。
あの子は、その母を待って、あの日から叩いてきた。叩いて、待って、ひとりで。この戸の前で。
とん、とん。
拳から、血がにじんだ。板の白いところに、小さな赤い跡がついた。
スズは、それを袖で拭おうとして、やめた。
痛みは、じきに遠くなった。かわりに、叩く音と、自分の胸の音が、ときどき重なった。
夜明け前が、いちばん冷えた。
吐く息が、白い。膝が、石に貼りついたように冷たい。振り返ると、老人の口もとからは、白いものが何も出ていなかった。きのうの朝も、そうだった。
東の空が、墨を水で薄めたように、わずかに白んだ。
「一晩だ」
杉の根から、ナルカの声がした。
「一晩、叩いた。何も起きん。気は済んだか」
スズは、答えなかった。
杉の根で、ナルカが身を起こす気配がした。老人が、膝の上の草鞋を握りしめた。
とん、とん。
スズは、叩いた。叩いて、手を下ろした。
待った。
戸の奥で、何かが動いた。
音ではなかった。額をつけた板の温かさが、ほんの一度だけ、強くなった。胸を叩かれたように、どくん、と。
そして、戸の向こうから、返ってきた。
とん。
一つだけだった。
スズは、息を止めた。
鞘の中から、寝ぼけた声がした。
「……母さん?」
老人が、石から立ち上がった。




