第七話 燃え残り
夜が来ると、頂が赤くなった。
ここからだと、よく見えた。岩壁の上の、ずっと上。火封山の頭のあたりが、息をするように明るくなったり、暗くなったりしている。明るくなるたびに、細かな火が空へこぼれた。
こぼれた火は、風に乗って、麓へ流れていく。
眼下の里へ。
スズは、石段の上から、それを見ていることしかできなかった。一つ、二つ。里の屋根のあたりで、小さな赤が灯る。桶を抱えて走る男たちが、ここからでは見えない。鐘の音も、届かない。
山から落ちた火は、水では消えない。斬るしかない。斬れる者は、ここにいる。
与平の家の、焼け残った半分。機屋の軒。母の社の、えぐれた檜皮。どれが燃えているのか、ここからでは見分けられなかった。見分けられないことが、かえってありがたかった。
「今夜は、おまえがいない」
杉の根で、ナルカが言った。
「わかってる」
「わかっているなら、ここで座っている理由を言え」
スズは答えなかった。
戸は開かない。剣は戸を斬らない。それを理由と呼べるのかどうか、スズにはわからなかった。
岩壁のほうにも、火は落ちてきた。スズは立ち上がって抜き、岩壁の下に落ちかかる火の粉を割った。鈴が鳴った。剣は、火の粉なら拒まなかった。戸を斬ろうとしたときの痺れは、まだ肘の奥に残っていた。
戸の前で、とん、と音がした。
一つだけだった。いつもなら、とん、とん、と二つ続く。
スズは振り向いた。
子どもが、戸に額をつけたまま、拳を下ろしていた。右の足の赤が、足の裏から、踝へ、脛へと這い上がっていた。赤いところは、もう熾火の色ではなかった。炉の奥の、いちばん熱いところの色だった。
踝から下が、透けていた。
子どもの足の向こうに、石の目が見えた。朝は縁だけだった。いまは、足の甲まで向こうが見える。
「……じいちゃん」
子どもが、小さな声で言った。
「あつい」
老人が、石から立った。
朝から一度も離れなかった石を、老人は離れた。子どものそばに膝をつき、色の抜けた長い袖で、その小さな体を包んだ。子どもの足の赤が、袖の布を透かして、ぼうっと光っていた。布は、焦げなかった。
「叩かんでいい。今夜は、もう叩かんでいい」
「でも、母さんが」
「叩かんでいい」
老人の声は、スズに帰れと言うときの声ではなかった。
◇
ナルカが、杉の根から立ち上がった。石段を上がってきて、スズの横で足を止めた。
「燃えているのは、あれ自身だ。外の火じゃない。中から燃えている」
子どもの脛の赤が、また少し上がった。
「放っておけ。燃えきれば、火の子の足がひとつ減る。頂のあれも、そのぶん弱る。おまえが斬る手間も省ける」
「……燃えきったら、あの子は」
「どこにも残らん」
ナルカは、少しも声を落とさなかった。
「宿すなよ。山で一人宿せば、重さに慣れたつもりになる。二人、三人と重ねて、頂が遠くなる。おれは、それを何度も見た」
老人が、顔を上げた。
スズを見ていなかった。スズの腰の、鞘に納めた剣を見ていた。朝、刀身の上で止まった、あの白く濁った目だった。
老人は、子どもを袖に包んだまま、スズのほうへ向き直った。
そして、額を石につけた。
「頼む」
しわがれた声が、岩壁の戸の隙間を、細く鳴らした。
「その剣で、トモリを斬ってくれ」
スズは、息をのんだ。
「……斬れ、って」
「斬れば、その剣の中に残る。燃えきれば、何も残らん」
「どうして、それを知ってるの」
老人は、額を上げなかった。
「頼む」
トモリ。老人は、そう呼んだ。この子の名なのか。それとも、戸の番が子どもに付けた呼び名なのか。
スズは、剣の柄に手をかけた。わずかに抜いた。
刀身の中で、姉が子どもを見ていた。
朝、この子を最初に見たときと、同じ顔だった。泣き出す前の子どものような、それをこらえている大人のような。
「姉さん」
姉は、答えなかった。
答えないまま、子どもから目を離さなかった。行くなとも、やめてとも、言わなかった。ゆうべの姉なら、言ったはずだった。
「どうして、そこまでするの。あなたは戸の番でしょう。この子は」
火の子の足だ、とは、スズは言えなかった。
老人は、額を石につけたまま言った。
「この子は、あの日から、ここで待っとる。待たせたまま消してたまるか」
それきり、老人は黙った。
「一人ぶん重くなる」
ナルカが言った。
「この先には、門があと七つある。七つとも、こうするのか」
スズは、答えなかった。
ナルカの言うとおりだった。一人ぶん重くなる。頂は遠くなる。わかっていた。
子どもが、老人の袖の中で身じろぎした。膝まで、透けていた。
機屋の子の顔が浮かんだ。火の粉、やませてね。あの子に約束したのは、火の子を斬ることだった。火の子の足を、残してやることではなかった。
それでも、足が前へ出た。
この子が、朝より薄くなっている。夜のうちに、もっと薄くなる。明け方には、石の上に何もいなくなる。
「……いやだ」
自分の口から出た声に、スズは驚かなかった。
「消えるのは、いやだ」
◇
スズは、剣を抜いた。
鈴が鳴った。
老人が、袖を開いた。子どもは、老人の膝に座ったまま、スズを見上げた。朝、母さん見なかった? と聞いたときの目だった。
「おねえちゃん。それで、斬るの」
「……うん」
「いたい?」
「いたくない」
老人の、子どもを抱いた腕が、かすかに震えた。
本当かどうか、スズは知らなかった。知っているのは、三年前に斬った姉が、一度も痛いと言わなかったことだけだった。
刃を、子どもの胸の前に当てた。
斬るというより、なぞるだけだった。力は、いらなかった。刃が、子どもの小さな胸を、上から下へ抜けた。
手応えは、なかった。
剣は、拒まなかった。
子どもの形が、灯をひとつ吹き消したように、ふっと暗くなった。暗くなったところから、細い光が、刃のほうへ流れた。刃の上を滑って、鍔のほうまで上ってきて、消えた。
老人の膝の上には、大人の草鞋が片方だけ、縄をからめたまま残っていた。
老人は、それを両手で拾い上げた。何も言わなかった。
スズは、老人の足もとを見た。色の抜けた衣の裾から、骨ばった足がのぞいていた。老人は、裸足だった。
◇
剣が、重くなった。
切っ先が、スズの手首より少し遅れて下がった。スズは、握りを直した。一人ぶん。三年前に覚えたのと同じ重さが、もう一つ、手首の上に乗っていた。
刀身を見た。
姉の顔の横に、小さな顔があった。
丸い目。薄い眉。頬の煤まで、そのまま映っていた。
「……あれ?」
子どもの声が、刃の中からした。
「おねえちゃんの、なか?」
姉が、子どものほうへ顔を向けた。
手を伸ばしかけたように、スズには見えた。刀身の中で、手が伸びるはずもないのに。
「あつくない」
子どもが言った。
「ここ、あったかいけど、あつくない」
「……そうでしょう」
姉の声は、小さかった。三年のあいだ、スズが一度も聞いたことのない、低くて柔らかい声だった。
子どもは、姉の顔をまじまじと見た。
「おねえちゃんも、なかにいるの。だれ?」
姉は、少し黙った。それから、刀身の外のスズへ、ちらりと目を上げた。
「……この人の、姉さん」
「おねえちゃんの、おねえちゃん」
子どもは、それで納得したようだった。
刀身の中で、顔が二つ並んでいた。
スズの胸の奥で、何かが、ゆるんだ。姉を斬った夜から、刀身の中には姉しかいなかった。姉と、スズと、二人きりだった。いまは、三人いる。
剣は、重かった。
重いのに、手を離したくなかった。
「重くなったろう」
ナルカが言った。
スズは答えなかった。答えのかわりに、柄を握り直した。
「それが、この山の一人目だ」
ナルカは、それだけ言って、杉の根へ戻っていった。
老人は、草鞋を膝に抱えたまま、石の上に座り直していた。顔を上げて、スズの手の刀身を見ていた。姉と、子どもの顔が並んでいるところを。
老人の口が、何か言いかけて、閉じた。
朝から、老人はこの刀身の何かを見ている。何を見ているのか、スズは聞かなかった。聞けば、姉が答えない何かに、指先が触れる気がした。
夜の底で、里の赤が、また一つ灯った。
「おねえちゃん」
刀身の中から、子どもが呼んだ。
「戸、叩かなきゃ。母さんが、来ちゃう」
子どもは、刃の中から、戸のほうを見ていた。叩く拳は、もう、刃の外にはなかった。
「叩いて」
スズは、黒い戸を見上げた。朝、斬ろうとして斬れなかった戸だった。




