第六話 なんのために
スズは、首を横に振った。
「……見てない」
子どもは、そう、と言った。がっかりした顔ではなかった。同じ答えを何度も聞いてきた者の顔だった。子どもは戸のほうへ向き直り、小さな拳を上げた。
とん、とん。
叩いて、待つ。
スズは、抜き身を下げたまま立っていた。鞘に納めるのを忘れていた。刃先に残っていた灰が、風にさらわれて落ちた。
子どもが、もう一度振り向いた。今度はスズの顔ではなく、スズの手の刃を見ていた。
「さっき、それで火を斬ったね」
「……斬った」
「ほかにも、斬るの」
「斬る。頂まで行って」
子どもは、首をかしげた。丸い目が、刃とスズの顔を行き来した。
「なんのために斬るの」
責める声ではなかった。母さん、まだ? と戸に聞くのと、同じ声だった。
「母の仇を討つため」
答えは、すぐに出た。
火は母の仇だと、物心ついたころから教わってきた。眠れない夜には、自分に向かって何度も言った。言えば、足もとが定まる。いつもは、そうだった。
子どもは、しばらくスズを見ていた。
「かたき、って、なに」
「……母を殺したものを、斬ること」
言ってから、スズは口を閉じた。
子どもは、戸を見た。それから、スズを見た。
「母さんは、死んでないよ」
当たり前のことを教えるような言い方だった。
「叩いたら、来るもん」
とん、とん。
子どもは、また戸を叩きはじめた。スズの答えは、戸の前の石の上に、置き去りにされたままだった。
里でこう言えば、首をかしげる者はいない。長ならうなずき、ウメ婆なら母の名を唱えるだろう。この子だけが、答えを受け取らなかった。
刀身の中で、姉は何も言わなかった。
老人は、いつのまにか、また目を閉じていた。何も言わなかった。組んだ両手だけが、また白くなっていた。
◇
眼下の里から、煙が上がっていた。
朝餉の煙ではなかった。ひとすじだけ、黒く太い。夜のうちに、また火の粉が降ったのだ。どこの家かは、ここからではわからなかった。
機屋の軒でなければいい、とスズは思った。そう思ったすぐあとで、ほかの家ならいいのかと、自分に聞き返した。答えは出なかった。
スズは、戸の前へ進んだ。
子どもの横に立って、黒い戸に手のひらを当てた。
温かかった。
日に当たった板の温かさとは違った。温かさは表からではなく、板の奥から来ていた。手のひらの下の板は、眠っている子どもの背中のように、ぬくもっていた。
スズは手を引きかけて、やめた。押した。
動かなかった。肩を当て、足を踏ん張って押した。蝶番の錆ひとつ、鳴らなかった。
「開かん」
老人が言った。
「わしが閉めた。開けるつもりはない。帰れ」
「なら、自分で開ける」
「斬れ」
後ろで、ナルカが言った。
「この山に、その刃の通らんものはない。戸ごと斬って通れ。日が高くなる前に、次の門まで行ける」
スズは、戸から一歩下がった。
足もとで、子どもが顔を上げた。
「こわすの」
「……どいて」
「こわさないで。母さんが来たら、あけてあげるんだから」
子どもは、戸にぴたりと背中をつけた。両腕を広げていた。大人の草鞋を縛りつけた左の足と、裸足の右の足が、石の上で踏ん張っていた。
「どけ」
老人が言った。スズに帰れと言うときと、同じ声だった。子どもは老人を見て、それから、しぶしぶ戸の端のほうへ寄った。広げた腕は、下ろさなかった。
老人は、スズを止めようとはしなかった。
刀身の中で、姉が口を開いた。
「スズ」
小さな声だった。
「……それは、斬れないよ」
「斬る」
スズは、剣を振りかぶった。
鈴が鳴った。
両開きの合わせ目をめがけて、振り下ろした。火の粉を割るときと同じだった。迷いは、腕に乗せなかった。手の内も、足の運びも、体に覚えこませたとおりだった。
刃が、板に届く寸前で止まった。
何かに当たった手応えは、なかった。やわらかいものに受け止められたのでもない。ただ、刃が、そこから先へ進まなかった。
手首に、じんと痺れが走った。
柄が、手の中でねじれた。スズの握りを振り払うように、刃が勝手に寝た。
刀身の腹が、戸を打った。
とん。
乾いた音が、岩壁に響いた。子どもの拳と、同じ音だった。
戸の端で、子どもがぱっと顔を上げた。戸を見て、それからスズを見た。
◇
スズは、息を詰めた。
もう一度、振りかぶろうとした。今度は横に払うつもりで、柄を、指が白くなるまで握りしめた。
腕が、上がらなかった。
重くなったのではなかった。誰かに手首をつかまれているのに似ていた。つかんでいる手は外ではなく、柄の内側にあった。
鈴が、鳴らなかった。
抜けば鳴る鈴だった。振れば鳴る鈴だった。スズが継ぐ前、姉が振っていたころから、ずっとそうだった。その鈴が、柄の下で、息をひそめるように黙っていた。
スズは、刃を下ろした。
痺れが、肘まで上ってきていた。
この剣は、スズが振り下ろした先にあるものを、何でも斬ってきた。火の粉を斬った。家に燃え移る火を斬った。
姉を、斬った。
その剣が、板一枚を斬らなかった。
剣が嫌がっているのだと、スズは思った。そう思うしかなかった。
◇
ナルカは、石段の上から動いていなかった。腕を組んだまま、スズの手の剣を見ていた。長いこと、見ていた。
「それを振っているのは、おまえか。剣か」
スズは、答えられなかった。
老人が、目を開けていた。
老人は、スズを見ていなかった。戸も、子どもも見ていなかった。スズの手の、刀身を見ていた。
白く濁った目が、刃の上のどこかで、ぴたりと止まっていた。
スズは、刀身に目を落とした。
姉が、顔をそむけていた。老人の目から逃げるように、刀身の端のほうへ。
老人の組んだ両手が、ゆっくりとゆるんだ。何か言いかけたように見えた。けれど、口から出たのは、いつもの一言だった。
「帰れ」
スズに言ったのか、刀身に言ったのか、わからない声だった。
老人は、また目を閉じた。
「……姉さん」
スズは、刀身に向かって声を落とした。
「知ってたの。斬れないって」
姉は、顔をそむけたままだった。しばらくして、言った。
「言ったでしょう。あの山のことを、あんたは何も知らないって」
それきりだった。
◇
子どもが、戸の端から戻ってきた。
刀身の腹が打ったところを、小さな手でなでた。傷は、ひとつもついていなかった。
「いまの、叩いたの」
スズは、首を振りかけて、止まった。
叩いたのではない。斬ろうとしたのだ。そう言えばいい。言えなかった。
「……わからない」
子どもは、ふうん、と言った。
「母さん、来るかな」
そして、自分の拳で、戸を叩いた。とん、とん。叩いて、待った。
◇
日が高くなり、また傾いた。
スズは、石段のいちばん上に腰を下ろしていた。膝の上に、鞘に納めた剣を横たえていた。
ナルカは、少し下の杉の根に座って、目を閉じていた。眠っているのか起きているのか、わからなかった。老人は、朝から一度も石を離れなかった。
子どもは、叩いて、待って、また叩いた。
昼に、スズは懐の干し飯を少し分けて、子どもの横に置いた。子どもは、それを見て、首を振った。
「母さんが来たら、いっしょに食べる」
干し飯は、石の上に置かれたままになった。老人が、それを横目で見て、何も言わずに目を閉じた。
なんのために斬るの。
あの問いが、昼のあいだじゅう、耳の奥で鳴っていた。
母の仇を討つため。答えは間違っていない。里の誰に聞いても、同じ答えが返ってくる。ここへ来るまで、スズ自身もそう信じていた。
それなのに、戸は開かなかった。剣は、振り下ろされなかった。
正しいはずの答えを言ったのに、何ひとつ、動かなかった。
眼下の里の黒い煙は、昼過ぎに細くなって、消えた。消えたあとも、スズはそのあたりを見ていた。
「日が落ちるぞ」
杉の根から、ナルカが目を閉じたまま言った。
「今夜も、里には火の粉が降る。おまえがここに座っているあいだにも」
スズは、膝の上の剣の柄に手をかけた。抜かなかった。抜いたところで、何を斬ればいいのか、もうわからなかった。
夕暮れが、岩壁の戸をひとつずつ暗くしていった。
子どもの右の足の裏が、昼より明るく見えた。
熾火の色だった。あたりが暗くなるにつれて、赤は、息をするたびに強くなった。縁の透けて石の目が見えるところが、朝より、少し広がっていた。
子どもは、それに気づいていないのか、気づいていて黙っているのか、戸を叩き続けていた。
とん、とん。
老人が、夜の来る空を見上げた。
刀身の中で、姉が、子どもの足を見ていた。




