第五話 帰れ
戸を叩く音は、登るにつれて近くなった。
石段の途中で、スズは剣をわずかに抜いた。姉は、音のするほうを見上げたまま、口を開いた。
「スズ。引き返すなら、いまだよ」
「引き返さない」
姉は、それ以上は言わなかった。スズは、剣を鞘に戻した。
とん、とん。叩いて、しばらく間があく。また、とん、とん。急かす叩き方ではなかった。叩いては、待っている。
霧が切れたのは、石段が尽きたところだった。
杉の森が、そこでふいに終わっていた。目の前に、灰色の岩壁が立ちはだかっている。見上げても、上が見えない。左右にも、果てが見えない。
その岩壁一面に、戸があった。
大きな戸。小さな戸。人の背丈の倍もある観音開きの戸。膝までしかない、犬くぐりのような戸。板戸、格子戸、鉄の鋲を打った戸。どれも古びて、色が抜けている。どれも閉じていて、どれにも取っ手がなかった。
風が岩壁をなでると、戸の隙間という隙間が、細く鳴った。向こうで誰かが息をしているような音だった。焦げた木の匂いがした。戸のある岩壁は、ところどころ黒く焼けている。焦げた跡は、まだ新しい。
低いところにある小さな戸には、どれにも、煤で黒い小さな手の跡がついていた。一枚に一つではない。いくつも、いくつも、重なっている。
岩壁の真ん中に、ひときわ大きな戸があった。
黒い木の、両開きの戸だった。蝶番の鉄は赤く錆び、板の継ぎ目に苔が詰まっている。その前に、平たい石がひとつ据えてあって、老人が座っていた。
そして戸の足もとに、子どもがひとり、膝をついていた。
とん、とん。
子どもが、小さな拳で戸を叩いていた。叩いて、手を下ろし、待つ。しばらくして、また叩く。
黒い戸の、子どもの肩の高さのところだけ、板がすり減って白く光っていた。
とん、とん。
スズは、石段の最後の一段で足を止めた。
◇
「火守の娘か」
老人が言った。こちらを見てもいない。目を閉じたままだった。
白髪を後ろでひとつに束ね、色の抜けた古い衣を着ている。里の誰も着ない、裾の長い衣だった。膝の上で、骨ばった両手を組んでいる。
「帰れ」
「山に登る。頂まで。火の子を斬りに」
「帰れ」
老人は、同じ調子で言った。しわがれているのに、よく通る声だった。戸の隙間という隙間が、その声を細く返した。
「この先には、何もない。火の子は母を殺した。殺したものが、この山にいる。それだけの山だ。娘ひとりが登ってどうする。帰れ」
「あなたは、誰」
「戸の番だ」
「この戸の向こうには、何がある」
「何もない。帰れ」
老人は、それから、スズの後ろへ顎をしゃくった。
「天つ座の犬まで連れてきたか」
「戸の番。まだ座っていたか」
ナルカが、スズの後ろから言った。
「天つ座は、また誰かに斬らせに来たか。自分では、何ひとつ斬れんくせに」
「だから連れてきた」
ナルカは、少しも気を悪くした様子がなかった。
スズは、老人を見直した。
朝の山の空気は、冷たかった。スズの吐く息は白い。後ろのナルカの息も、白かった。
老人の口もとからは、何も出ていなかった。
死んだ者を見るのは、刀身の中の姉のほかに、はじめてだった。老人には、影もなかった。朝の日が岩壁に差しているのに、石の上には、老人の形の影が落ちていない。
スズは、刀身の姉を見た。姉は、老人のほうを見ようとしなかった。
◇
スズは、子どものほうへ目を移した。
四つか五つくらいに見えた。髪は短く、肩が薄い。着ているものは、ぼろ布を体に巻いただけだった。小さな背中を丸めて、戸に額がつくくらい近くで膝をついている。
左の足には、大人の草鞋を、縄でぐるぐると縛りつけていた。
スズは、親指で鍔を押して、鯉口を切った。
「……ぶかぶかだね」
刀身の中で、姉がつぶやいた。からかう声ではなかった。
右の足だけが、裸足だった。
その足の裏が、ぼうっと赤かった。熾火のような色だった。赤いところの縁が、かすかに透けて、向こうの石の目が見えていた。
「あれが、右足だ」
後ろで、ナルカが言った。
「……なに」
「語りを聞いたろう。古き主は、火の子を八つに斬った。足を麓に、頭を頂に。一つ目の門にいるのは、右の足だ」
スズは、子どもの背中を見た。
右の足、左の足、右の手、左の手、腹、腰、胸、頭。
子どものころから、何百回と唱えてきた。唱えるたびに、スズの頭の中には、切り落とされた大きな足が浮かんでいた。黒く焦げた、岩のような足。鉤爪のついた、獣の足。
ここにいるのは、四つか五つの子どもだった。
「子どもだ」
口に出してから、スズは自分の声に驚いた。
腰で、鈴が小さく鳴った。柄を握った手が、震えていた。
刀身の中で、姉が子どもを見ていた。
スズの見たことのない顔だった。泣き出す前の子どものような、それをこらえている大人のような顔。姉は、スズの視線に気づくと、すぐに目を伏せた。
「形に惑わされるな」
ナルカの声は、静かだった。
「あれは火の子の足だ。いまも、あの足から火が漏れている。見ろ、焼けているのは岩だけじゃない。あれ自身もだ。放っておいても、いずれ燃え尽きる」
子どもの右足の赤は、息をするように、明るくなったり暗くなったりしていた。
ナルカは、一段下の石段から動かなかった。腕を組んで、子どものほうを見ている。子どもの顔には目を向けず、燃えている足だけを見ていた。
子どもの形をしているだけだ。スズは、自分に言い聞かせた。語りのとおりなら、あれは母を殺したものの足だ。里に火を降らせているものの、足だ。
「情けをかけて、里が焼けたらどうする。おまえが守りたいのは、どっちだ」
ナルカが、スズの迷いを読んだように言った。
スズは答えなかった。答えは、わかっていた。与平の家。機屋の軒。母の社。火の粉、やませてね、と言った子の声。
◇
「母さん」
子どもが、戸に向かって言った。
「母さん、まだ?」
戸は、何も答えなかった。子どもはもう一度、戸を叩いた。とん、とん。そして、待った。
老人が、目を開けた。
「来ん」
老人は、子どもの背中に向かって言った。スズに言ったときより、少しだけ声が低かった。
「何度言えばわかる。おまえの母は、死んだ。おまえが殺した」
子どもの肩が、ぴくりと動いた。けれど振り向かなかった。
「母さんは、来るよ」
子どもは戸を見たまま言った。
「叩いたら、来てくれるもん」
とん、とん。
老人は、それきり黙った。組んだ両手を、白くなるくらい強く握り合わせていた。
「あの子は、いつからここに」
スズが聞くと、老人は、しばらく答えなかった。
「あの日からだ」
「あの日」
「おまえたちの語りで言う、母殺しの日だ」
スズは、岩壁の小さな戸を見た。煤の手の跡が、いくつも、いくつも重なっている。
「ずっと、叩いてるの」
「叩かせておけ。あれが叩くのをやめたら——」
老人は、そこで口を閉じた。
そのとき、頭上で、ぱちりと音がした。
岩壁の上のほうから、火の粉がひとつ、ゆっくりと落ちてきた。まっすぐ、子どもの肩のほうへ。
老人が、石から腰を浮かせた。
スズのほうが、早かった。
石段を蹴って、抜いた。鈴が鳴った。子どもの頭の上、手のひら一つぶんのところで、火の粉は二つに割れて、灰になった。
灰が、子どもの髪に落ちた。
老人は、浮かせた腰を、ゆっくりと石に戻した。
「余計なことを」
「足を守ってどうする」
老人とナルカが、ほとんど同時に言った。
刀身の中で、姉が小さく息を吐いた。
「……よかった」
誰に言ったのか、わからない声だった。
子どもの右足が、一度だけ強く赤く光った。子どもは顔をしかめたが、泣かなかった。老人の組んだ両手が、また白くなった。
子どもが、振り向いた。
丸い目だった。眉が薄く、頬に煤がついている。里の機屋の子と、そう変わらない顔だった。
子どもは、髪の灰を払おうともせずに、スズの顔を見た。それから、スズの手の抜き身を見た。怖がる様子はなかった。
「おねえちゃん」
子どもは、首をかしげた。
「母さん、見なかった?」
子どもは、答えを待っていた。戸を叩いたあとと同じように、黙って、待っていた。
スズは、答えられなかった。
母を殺したのは、おまえだ。里の語りでは、そうなっている。頂にいる火の子の首を落とせと、長は言った。その火の子の足が、目の前で、母親を待っている。
火の粉をやませると、スズは機屋の子に約束した。そのために、火の子を斬りに来た。
柄を握っていた指から、力が抜けていった。
刀身の中で、姉は目を閉じていた。
怪物の足は、子どもの形をしていた。




